逆転世界の幽影
若い時代にしたことのツケは、大人になってから廻って来るものだ。
ある夏の夕方、少年は空き地で友人と遊んでいた。5時の時報が鳴る。近くのスピーカーから「夕焼けこやけ」のメロディが聞こえてくる。小学生は門限が早い。友人らはそのメロディを合図に、それぞれの家へ帰っていく。もちろん少年も同じように帰る。
夏休みも半分を過ぎ、そろそろ宿題に手を付けなければならない時期になってきた。ドリルはほとんどやっていないし、自由研究はテーマすら決めていない。このまま毎日遊んでいては、去年のように、8月31日の深夜に泣きながら宿題をやる羽目になってしまう。そんなことを考えながら少年は帰途についていた。
5時だというのにまだ明るく、しかも暑い。灼熱の暑さだ。最も暑いのは2時頃だというが、2時だろうが5時だろうが、暑いことには変わりない。ふと横を見ると、桜並木があった。当然花は咲いておらず、青々とした葉がこれでもかというばかりについていた。少年の家族は毎年、この桜並木で花見をしているので、それなりに思い入れのある場所だ。
それにしても長いな、と少年は思う。いつもならもう家に着いているくらいの距離を歩いたはずだが、まったく着く気配がない。それになんだか変な感じだ。上手く説明できないが、なんだか普段とは違う雰囲気、違和感のようなものを感じる。
その原因はすぐにわかった。左右が逆なのだ。車の走る方向も、看板の文字も、全てにおいて左右が逆だった。少年はパニックに陥りかけた。そのとき、
「もしもし」
と、女の声が聞こえる。
「うわっ」
少年は驚いた声を上げる。
そこには、女の幽霊がいた。常人なら困惑するところだが、少年はあっさりとその事実を受け入れることができた。まだ幼いということもあったが、いつの間にか左右逆の世界に迷い込んでしまったというもう1つの異常事態があったことで、逆に素直に受け入れることができたのだ。マイナスとマイナスをかけるとプラスになるのと理論は少し似ているかもしれない。
「誰だ、お前」
「ご覧の通り、私は幽霊です。しかし、別にあなたに何か悪さをしようというの
ではありません。そうであれば、わざわざ声をかけたりしません。」
「じゃあどうして僕に話しかけるんだよっ」
「あなたにあるお願いがあって伺いました。何故か、あなたとは一度会ったこと
があるかのような感じがするのです。ですので、この人なら、と思い、話しか
けた次第です。」
「お願い…?なんだよそれは…」
「私はまだ現世に未練があります。夫と息子を遺して死んでしまったのです。で
きることなら、生き返りたい。そして、その方法が1つだけあるのです。」
「それはどんな方法なんだ?」
「人を1人殺すこと、です。」
「えっ…」
「人を殺すことで、私は生き返ることができます。しかし、この幽霊の体では人
に触れることすらできません。ですので、あなたにお手伝いしていただきたい
のです。」
「そんな、人殺しだなんてできないよ!」
「お手伝いいただけたら、あなたを元の世界に帰して差し上げましょう。」
「だからって…」
「ご安心ください。この世界はあなたの世界と比べ、全てが逆転しているので
す。物理的なことだけではなく、感情や倫理までも。」
「つまり?」
「この世界では、人を殺すことは罪ではありません。そして、殺す方法も、あな
たの世界とは違っていたって簡単です。痛みや苦しみもありません。ただ、背
後から頭を1発殴るだけです。この世界では、体の頑丈さも逆転している、つま
り非常に体が脆いのです。」
「それなら…。で、誰を殺せばいいんだよ。」
少年は幽霊に協力することを決めた。大人であれば、たとえ罪でなくとも殺人などしようとしないだろうが、彼は子供であった。
「誰でもいいのです。誰か1人を殺してくだされば。」
「じゃあ、あそこのおっさんでもいいの?」
「ええ、もちろん。」
少年は近くを歩いていた中年の男性の背後に忍び寄り、頭を強く殴った。すると、男の頭が木っ端微塵に砕けた。倒れこむ男。倒れた衝撃で体まで粉々になってしまう。少年はそれを見て恐ろしくなったが、それは別の感情、驚愕によってかき消された。男の死体が透明になり、やがて消えたのだ。
「おっさんの死体、消えちゃったよ!」
少年が驚いて振り向くと、幽霊は人間の姿に戻っていた。
「ありがとうございます。あなたのおかげで生き返ることができました。」
「そうか。ちょっと複雑だけど、とりあえずよかったね。」
「ええ。では約束通り、元の世界にお戻しします。」
「ありがとう。でもその前に、1つだけ教えて。」
「なんでしょう」
「この世界って、いったい何なの?」
人間に戻った幽霊は言う。
「この世界は、人間世界と対をなす存在です。ある意味では人間の妄想の世界と
言えるかもしれません。そもそも左右というのは人間が考え出した概念であ
り、実際に存在する訳ではありません。であれば、人間が普段使っている左右
とは逆の左右が分離して存在してきます。パラレルワールドのようなものです
ね。それがこの世界です。人間がある決定をすれば、それが真逆になってこち
らの世界でも反映されます。そして、この世界は人間の存在によって成立する
世界ですから、人間が存在する限り終わりというものがありません。生きるこ
とによって死に、死ぬことで生きる。消えるということはないのです。これは
元素という観点で見れば人間界でも同じですね。ですから、殺すことによって
蘇ることも可能なわけです。2つの世界は常に干渉し合っています。一方の世界
で何かが起これば、もう一方の世界でその逆のことが起こる。その逆も然りで
す。あなたがこの世界に迷い込んだことに特段理由はありません。偶然2つの世
界の干渉に巻き込まれてしまっただけでしょう。あなたはこれから元の世界に
帰りますが、常に互いが干渉し合っているということを忘れないでくださ
い。」
元幽霊の話を少年は興味津々で聞いていた。難しい話だったが、少ない知識でなんとか半分くらいは理解することができた。
「ふーん、なんか難しそうだね。でも、なんとなくわかったよ。」
「そうですか。では、いろいろとありがとうございました。さようなら。」
「さようなら」
少年は元幽霊によって元の世界へと戻ることができた。
*******
20年後、少年は大人になり、家庭を持っていた。妻に息子が1人。まだまだ給料も高くはなかったし、豪華な暮らしもできていなかったが、家族でいられるのが彼の何よりの喜びだった。妻との出会いは大学の飲み会。どこかで会ったことがあるような懐かしい雰囲気を纏った彼女に、彼は猛アタックした。2人は付き合うことになり、それぞれ別の会社に入社した。そして、2人が26歳のとき、息子が誕生した。彼女はそれをきっかけに、専業主婦になるため退職した。
ある休日、彼は追憶に耽っていた。楽しかった大学時代。受験勉強に明け暮れた高校時代。悪友とヤンチャした中学時代。そして、記憶が小学生時代に辿り着いたとき、彼は忘れかけていた不思議な体験を思い出した。
あの後、気づいたら彼は家のベッドで寝ていた。夢だったのだろうか。しかし、確かにあれは事実だった。心も体も記憶している。あんなこともあったな、と懐かしい気分になったとき、テレビのニュースキャスターの声が聞こえてきた。
「突然生き返った男性が、今話題になっています。医療機関も蘇生の原因は未だ
解明できておらず……」
「やっぱり不思議なこともあるもんだな。」
と彼がテレビを見ると、そこには、見覚えのある男が映っていた。彼は目を見開く。
そこに映っていたのは、左右逆転の世界で彼が殺した中年男性だった。自分が殺した相手だ。顔は確実に憶えている。間違えるはずがない。そして、彼は思考を巡らせる。
「逆転世界で殺した奴がこっちの世界で生き返った。ということは、僕があっち
の世界で助けたやつは…。待てよ。そうか、あいつの正体は…!」
と、そこまで思考が巡ったとき、「やあ」と声がした。振り向くと、そこには服のロゴが反転した彼自身の姿が……