3話 ホルク老人
東の空から現れたばかりの太陽が加速度的に大きくなっていくのを横目に見ながら、僕はクアンタの背中で初夏の爽やかな風に髪を撫でられていた。
最近はすっかり出不精だったので、今日は久々に昔世話になっていたホルク老人を訪ねることにした。老人の住まいは、茜の館から北西、ハイタスカ王国のそのさらに北の果にあるラドックという小さな村にある。馬で行けば2週間はかかる距離だが、クアンタなら昼過ぎにはつくだろう。
ホルクは引退した魔道士で、村外れの小さな家に一人で暮らしている。元々村の生まれではないことと、魔道士がこの地方では珍しいため、村人からは少し気味悪がられていたが、同時に、村人だけでは解決できないような困りごとがある場合には知恵者として頼りにされている存在だった。
クアンタと旅を始めたばかりの頃、少し無茶をして魔物の毒にやられたことがあった。生死の境を彷徨いかけたが、その時治療してくれたのがホルクだ。回復するまでの間に世界の基礎的な知識や、魔物についても色々と教えてもらった。
僕にとっては恩人というわけだ。
そういう事情もあって今でも僕は時々老人を訪ね、彼の依頼を聞いたりしている。
鬱蒼としたイエベルの大森林地帯を抜けると、眼下にはハイタスカの広大な草原地帯が広がっていた。緩やかに波打った大地がどこまでも続いている。丘陵の所々に放牧された羊の群れが点在している。時々走り抜けていくのは過去の戦で放置され、そのまま野生化してしまった馬の群れだ。
草原地帯をくねくねと流れる川を目印にしばらく飛び続けると、ラドック村が見えてきた。人口はわずか数十人で男性の殆どは羊飼い。羊の毛や肉を収穫し、川を下ってボザールの町で物資と交換することで成り立っている貧しい村だ。
村外れの小さな丘の上に、老魔道士の家はある。放棄された作業小屋を改造したもので、素朴ではあるが堅実で、石造りの壁は綺麗に手入れされていた。
煙突からは煙が上がっている、どうやら老人は家にいるようだ。少し離れた丘の中腹でクアンタを降ろし、徒歩で登っていく。
「そろそろ来る頃だと思ってたぞ、茜の。」老人はいつの間にか家から出てきていた。
「お土産、持ってきました。」僕はクアンタが上空へと飛び去るのを確認ながら、老人に挨拶した。
老人に招かれ家へと入る。
小さな家の中に、生活に最低限必要なものだけが整然と置かれている。向かって奥側の壁には魔道士が使うよくわからない道具や薬草の入った瓶、鉱石、干物といったものが、博物館かと見紛うレベルに綺麗に整列している。
小屋の真ん中には4人がギリギリ座れるくらいの木のテーブルがあり、背もたれのない椅子が2脚置かれていた。
僕がいつものように椅子に腰を掛けると、
「こいつはどうだい?」老人は奥から見慣れない陶器の瓶と素焼きのコップを2つ持ちだして、瓶の中身をそれぞれのコップに同じずつ注いだ。
「なんですかこれは?」酒だろうか、嗅いだことがない匂いだ。
「まあ飲んでみなさい」
少し口に含む。
おお!
果実のように芳醇でべとつかない甘さ、遅れてやってくる上品な酸味、鼻に突き抜ける爽やかな香り。この世界の酒はいまいちなものが多いが、こいつはなかなかのものだぞ。
「うまいですねこれ」ゴクゴク。
「そうだろ?」老人も腰を下ろす。
「北の方にあるコパルという村のものでね。野生のハナナシの実で作った珍しい酒だ。君が飲んでるのはその中でも最上級の代物だよ。」
「聞いたことない地名ですね、テュルクですか?」
「いや、ぎりぎりハイタスカの領内だ。ふむ、こいつはなかなかいけるな」
老人が食べているのは僕が持ってきたお土産、ブロウンウィッチ名産の川魚塩漬けだ。僕が知人を訪ねるときはいつも遠い町の珍味を持っていくことにしている。普通に生きていたら一生口にできないだろうそれらは必ず喜ばれる鉄板の手土産だ。
「それで」老人は半分空になった僕のコップにハナナシ酒を注ぎ足しながら聞いた、「この頃はどうだね?」
「特になにもないですよ」僕は肩をすくめた。「ゆっくりして、気が向けばこうしてあちこち飛び回ってるだけ。こないだなんか1週間家から出なかったことも」
「その年で自由気ままとは羨ましい」老魔道士は言った「それじゃ暇を持て余している騎士殿に一つ頼み事を聞いてもらおうかな」
「どんな事ですか?配送ならいつでも」
「いや、こいつだよ」老魔道士は酒瓶を持ち上げてみせた。
「さっきコパル村といっただろ?あそこは林業を生業とする村なんだが、近頃森の中に魔物が出るようになって困っているんだ」
「なんでそんなことをご隠居さんが?」
「向こうの村長から直々に相談されたんだよ。この酒はその手土産ってわけだ」
「僕に退治しろと?」胃に入れた分というわけか。さすが魔道士、やり口が汚い。
「そういうことだ」老魔道士は魚の最後の一切れを口に入れる「できるかね?」
「森、ですか」
クアンタの図体では森の中には入れない。僕の持つ最大のアドバンテージが活かせないということだ。
「森ごと焼き払ってしまってもいいんですかね?」
「さっき林業が主産業と言っただろうが」老魔道士は呆れた、という顔をした。
だめかぁ。
「とりあえず、行って詳しい話を聞いてみますよ」
「そうしてくれ。頼んだぞ。今夜は泊まっていくかね?」
「いえ、今からそのコパル村に行きますよ。ハイタスカ国内ってことは、すぐにつくでしょ?」僕は立ち上がりながら言った。
「でもその前に」とコップを差し出す。
「もう一杯ください」




