彼女も見ていたんだろう
連れてこられたのはやはり理科実験室だった。
先輩はコーヒーを作ってくれた。冷えた部屋でこうして暖かいものを飲むのはいいものだ。と先輩はつぶやいていた。
「この前会ったときのこと、覚えているかい?」
「この前会ったって……ほとんど初対面じゃないですか、この前会ったのは。」
「……そうだね。これが二回目だよね。こうしてコーヒーを飲むのも初めてだよね」
先輩は表情に翳りを見せたような気がしたけれど、俺はどうして表情を曇らせているのかはわからなかった。
「まずは、どうして一人だったのか、ということを聞いてもいいかな。あの忌々しい少女はどうしたんだい?」
「少女って…。そんなに年齢変わんないでしょうに。別に、俺たちだって別々に帰ることくらいありますよ。」
「そうかい。それならいいんだけれど。でも、学校でさえも一言二言しか言葉を交わさないなんてことはないんじゃないか?文化祭実行委員なんだし、教室でも席が近いんだろう?」
どうしてそんなことを知っているのか。そんなことを聞いたところでこの先輩にははぐらされることを知っていたので、俺は言葉を飲み込んだ。
「……それもよくありますよ。」
「嘘だね」
「嘘です」
かぶせるような言葉に俺はそう答えるしかなかった。
「夏祭りも一緒にいたという情報を聞いているよ。恋からね。あの子も苦労する役回りだよ。何も知らないなりに、なんでも知れてしまう立ち位置というのは。」
夏祭り。心がより一層脈打つように感じられた。頭を記憶で殴られている。
「まあ、大方、夏祭りで何かがあったんだろう。恋も、すべては教えてくれなかったからね。こまごまとしか知らないんだけれど。話してくれれば何か力になれることがあるかもしれない」
「そんな、先輩にお手数をかけるわけにはいきませんよ……」
ははは、なんて愛想笑いをしてみる。それがあまりに下手だったようで、先輩は目を細める。いぶかしいといった様子で。
「こうして、君が話したくないというなら、別に私はいいんだ。これ以上無理強いすると『私は相談に乗ってやるって言ってるのに』みたいな暴論に受け取られかねないからね。」
先輩はコーヒーをすすりながら、つづけた。
「それでも、知っていてほしい。私はたとえ世界が君を追い詰めたとしても、問い詰めたとしても、君の味方でいると。もしかしたらこれも、少し脅迫じみているかもしれないね」
先輩も、こうしてはははと笑うんだと、俺は驚いた。
俺の笑顔もこんなだったのだろうか。だとしたら、相当俺は笑うのが下手ということになりそうだ。
一抹の罪悪感を感じながら、俺は再び帰路につく。
九月にもなると、八月中の異様な日の長さという感じはもう無い。魔法のように日が落ちて行ってしまう。でも、俺は落ちてくれていいと思った。闇が心を包んでくれるから。
だけど、俺を許してはくれないみたいだった。
「藍子……」
下駄箱のいつもの位置。別段示し合わせたわけでもなく暗黙の内に決まった集合場所。藍子がそこにもたれかかるようにしてたたずんでいた。暗くてよく見えなかったけれど、その目つきは鋭いのかもしれなかった。
「……傘、忘れてる」
ひょいっと青い傘を投げてくる。とっさにありがとうが出てこない自分がもどかしかった。
「話したい事、あるから」
藍子が俺の前を歩きだす。傘を差せないことが、恨めしいと思った。校庭のナイターの明かりが藍子の顔を照らす。
俺は、少しだけ勇気をもって藍子の隣に走る。
「どうしたの?」
勢いよくスタートダッシュを決めた俺に驚いたみたいだった。俺もこんなに勢いがつくとは思っていなかった。
「別に。傘ありがとな」
「いいよ」
そういえば、この傘、タグがつけっぱなしだった。
家に帰ったら外しておこう。