夏の祭りには香りがある
藍子がリンゴ飴好きになったのには理由がある……と思う。
これはあくまで俺の予想でしかないし、藍子本人がどう思っているのかはわからないから主観でしかないということを考慮してほしい。
だけど、藍子がリンゴ飴を好きになったとしたら、あの夏が理由になると思う。
まだ、何でも思い通りになると思っていて、考えていることは明日の給食と休み時間の事だけだったあの小学生の頃の、夏休み。
俺と藍子は、親同士も仲がいいから、そしてそれは今よりも昔の方がよかったから、旅行に行ったりなんかはしょっちゅうなことだった。長い休みがあれば、どこかにBBQをしに行くなんて俺にとっては当たり前なことだった。
そしてその夏は、俺の祖父の家の近くのキャンプ場にいっていた。
キャンプ場があるくらいだから、周りはほとんど山で、川が済んで綺麗な田舎だった。
酒を飲んで楽しそうにしている大人たち。俺たちは小さかったからわからなかったけれど、きっとあの時俺の両親も藍子の両親も疲れていたのだろう。若くして子供ができて、収入とかいろいろな面で。
そんな酔っている大人たちが苦手だった。そしてそれは藍子も同じみたいだった。
「ネイビー。いっしょにおじいちゃんちいく?」
「いく」
俺たちは、名前で呼ぶのが恥ずかしいのか、あだ名で呼んでいた。ヒーローみたいでかっこいいみたいな理由もあったと思う。藍子はネイビー。俺は洸祐の「光」の字をとってシャイニーと呼ばれていた。
自動車から見ていた道がおじいちゃんちに行く時と同じ道だったから、一人で行けそうだと思ったのだ。奇麗にそろえられた芝生が次第にとげとげとした茂みに変わり、明かりが消えていく。
初めはちょっとした冒険のつもりだった。今とは逆かもしれない。あの時は俺が藍子の手を引いていた。暗闇へと、危険へと。
「ねえ、ほんとうにだいじょうぶなの?」
「……だいじょうぶだよ。このままいけばつける」
笑って今にも泣きそうな藍子を元気づけようとしたけれど、上手く笑えなかった。まるで自分の顔が自分の顔じゃないみたいに、硬直してしまっている。今、藍子が泣きそうなんかじゃなかったら、俺が泣けたのに。なんて思った。
それからニ十分ほど歩いたところで、明かりが見えた。街灯ではない。何処か明るいオレンジの光。そこは喧騒に包まれていて、人の温かみの色をしていたことを覚えている。
屋台の裏は、こんなにも雑多なんだと思った。ぶるぶると震えているコンプレッサーが妙に怖いモンスターのように見えた。
「とりあえず、このみちだから。こっちきて」
「うん」
お金もないし、携帯もない。しかも身長も俺が120センチくらいで、藍子が125センチくらいだったから、皆巨人か何かに見えた。もちろん屋台表がならぶ道を歩くことなんてできない。
だからその雑多なコンプレッサーの道を歩くしかなかった。でも疲れとか、そういうことよりも俺は冒険心に火がついてしまって、無性に楽しかった。
藍子の手からどんどん熱が失われているのにも気付けないくらい。
焼きそばのソースの香り。牛串の焼ける音。わたがしの甘い香り。
そんなお祭りの裏を抜ける。
「どうしたんだ坊主。追いかけっこか?」
とても大きい人だと思った。両親なんかとは比べ物にならない。筋骨隆々だし、慎重だって屋台と同じくらいに見える。声は結構低かった。
「ええ、ええーと」
俺は声に詰まる。今からおじいちゃんちに行くなんて言っても、ただ道に迷っていることがばれてしまう。それくらいの事はわかった。そしたら藍子が泣いてしまうだろうことも。
俺はここで藍子の手が震えているのに気づく。
俺は心を奮い立たせて、藍子の手をぎゅっと握り、そのお兄さんにいう。
「いまからおじいちゃんちにいくんです」
大したことは言ってなかったかもな。けれどそれだけでも、この大きな男に恐怖を感じていたからこれは俺にとって『勇気』のいることだった。
「そうかあ。おじいちゃんちにいくのか。じゃあ、ちょっとこっちにこいよ。いいもんやるから」
くしゃくしゃと俺の頭を撫でるお兄さん。なんだか俺の勇気が褒められた気がして、ちょっぴりだけ大人になれたような気がした。
まるでさっきまではとは違う明るさだった。目がじりじりとするくらい眩しかった。音だってよく聞こえる。まるで画面の中に入ったような臨場感だと思った。
連れていかれた屋台には『りんご飴』と書かれていた。赤色の背景に、黒で線が引かれている。
俺達のちょうど前に並ぶリンゴ飴。お兄さんが「これ一つもらっていいか?」と大きめのリンゴ飴を俺と藍子、それぞれに屈んで渡してくれる。
「おかね…」
「そんなもんはいいさ。まあ、いつかこの祭りに来た時に言ってくれよ。そしたら俺の自慢のリンゴ飴、買ってもらうからよ。これはその宣伝だと思ってくれればいい」
この人の手はとても大きくて、無骨で、それでいて優しさが溢れていた。きっとこのリンゴ飴にもその優しさがあるのだろう。一口かじると、芳醇なリンゴの香りで満たされる。
藍子を見た。手を離す。藍子は先ほどの泣きべそが嘘みたいに笑顔だった。ぱりぱりとリンゴ飴を食べている。
「おいしいね」
「そうだな、ネイビー」