結局ビニールなのかビニルなのか
そうして、一人帰路につき、藍子の家に到着した俺は、彼女の両親の車がないことをきちっと確認してからそのインターホンを押した。あらかじめ連絡は入れてあるから大丈夫だとは思うけれど。
手にはビニル袋。中にはのど飴とか、ポカリスエットとかが入っている。仮病の可能性が高いといっても、夏風邪がはやる時期でもある。どちらにしよあって困るものではないだろうということで買ってきてあった。
「はーい」
とサンダルをザザット履き、ドアを開ける音がする。
「よう藍子。お見舞いに来てやったぜ」
ぎこちない笑みだっただろうか。先輩に言われたことが頭をよぎって、上手く言葉が出ない俺だった。
仮病だなんていってしまって申し訳ない限りなのだが、藍子はしっかりと夏風邪をひいていた。このビニル袋も役に立ったということでよかったと思う。藍子はいつもよりも少し低めの声で、そして声が小さかった。夏だというのに、薄手のカーディガンなんかを羽織っていた。
「うつるわよ」
「かもな」
なんて会話をしながら今日の授業内容を逐一教える。俺は勉強ができる方ではないし、それに対して藍子はべらぼうに勉強ができるのでどちらかと言えば俺が教えを受けているという感じだったが。
俺が覚えていることと言えば、日本史の魔術師が今日も睡眠魔法を放っていたことと、国語の上級魔術師が全体睡眠魔法を放っていたといことくらいだった。寝ていたので覚えていたとはいえなさそうだけれど。
「やっと生徒会関係のごたごたも終わったし、部活再開するって感じでいいのか?」
「……そうね。洸祐には私の秘書としてサポートしてもらわなきゃ……その前に生徒会長に……」
藍子は熱が上がってきたようで、ほとんど何も考えられていなさそうだった。
こんなにつらそうなのに、生徒会長になることとか、部活の事とかなら考えられるんだななんて感心していると、藍子はベッドの上で、冬物の布団を肩まですっぽりとかぶり、寝てしまった。
「なんか食うか? おかゆとか」
目を瞑った藍子は口だけ動かして、
「たまごのやつ」
と、いつもよりも覇気のない声で助けを求めるようにこぼした。
どちらかと言えば、俺の方が体調を崩すことの方が多かった。特に小学校低学年なんかは、年中風邪をひいていた気がする。
そんな時、藍子が作ってくれたのがこの「たまごのやつ」だった。簡単な味付けで、最後に卵を落とすだけのお粥だから、俺のお母さんと藍子が一緒に作っていたのだ。それから俺達、特に俺が病気したときはこの「たまごのやつ」が定番となっている。
「よしできた」
小さな一人用の鍋にお粥を入れ、藍子が待つ二階に運ぶ。
「藍子~できたぞ~入るぞ~」
と言いつつ肘でドアノブを下げ、部屋に入ると、そこには床に倒れている藍子がいた。
「大丈夫か!?」
と駆け寄ったけれど、藍子は「大丈夫、ちょっと寝相が悪かっただけだから」と言って再びベッドに戻ろうとする。けれど、掴んだ藍子の腕は尋常じゃない熱さだった。意識が朦朧としている藍子の額に手をやると、これまた以上に熱かった。きっと体温は38度を超えているはずだ。
少し藍子を起き上がらせ、ポカリスエットを飲ませる。そして急いで濡れタオルを準備し、藍子の額に乗せた。
「きもちいい」
と藍子は嬉しそうだったけれど、普段は見せない柔和な笑みだったから、少しドキッとしてしまった。ここだけの話。
そして俺は何回かタオルを変え、お粥を食べさせて、藍子の熱も下がり始めた午後九時。
「じゃあ藍子、帰るからな」
「うん。また」
すっかりと平静を取り戻してしまった藍子はぶっきらぼうにそういった。これでいつも通り。
すぐ隣唐言うことが幸いしている。こういう時に便利なものだ、幼馴染ってやつは。
と自分の家の玄関に立ち、鞄の中の鍵を探る。
いつもと同じところに入れているはずなんだが……。
「ない」
なかった。鞄の内側のポケット、その左側にいつも忍ばせているはずなのだが、無かった。バックの中、制服のポケット、すべてを探したけれどなかった。別に家の中には家族がいるので、開けてもらえばいいというだけのことなのだが、悪用されるとまずい。それに母親に殺される……!
と俺は九時を過ぎてなお、今日一日行動した場所を探さなければならないようだった。
自転車の鍵をはずし…と焦っていると、着信音が鳴った。この着信音「River Flows in You」は―――藍子だ。
「もしもし?もう大丈夫そうか? 俺は今立て込んでて……」
「鍵でしょう?家に忘れてったわよ。ほら」
と藍子は俺の家の前まで来ていた。小さなキーホルダーがついた、まぎれもなく俺の家の鍵だった。
「だらしないわね。しっかりしなさいよ」
「ありがとう。マジで助かった」
短く「じゃあね」と言って去っていく藍子。貸し借りにうるさい藍子の事だから、きっとこれで貸しはなしと思っているのだろう。でも甘い。もっと貸し借りにうるさい俺は、こんなものじゃ返したと認めないからな。
――なんて俺の器の小ささを露呈したところで。
俺はガチャリと家のドアを開ける。
「しっかりしなさいよ」と言った藍子の微妙な表情に疑問を覚えながら。