Fine
目が覚めると、そこは藍子と別れる最後の日。
「どうしたの?」
ギターを弾く手が止まったことに、藍子は戸惑っていた。
「ごめんごめん。ところで、明日は何時に行くんだ?」
「……? 九時くらいに家を出るって言ってた気がする」
「じゃあ、今から行くか」
「え?」
「とりあえず、外に出よう」
俺はギターをベッドに投げ、適当な服に着替えて家を出る。俺なら、きっと、こうしてほしいと願うはずだ、なんて自分勝手なことを思いながら。
「自転車はいらない。俺の後ろに乗ってくれ」
「洸祐、二人乗りなんてできるの?」
「そんなのやってみなきゃわからないだろ?」
金はなかった。だけど、希望に満ち溢れていたのはなぜだったのだろう。おいしいものがなくても、酒がなくても、あんなに笑えたのはなぜだったのだろう。考えるけれど、明確な答えなんかは出てこない。出てこないっていうのが答えなのかもしれない。
自転車をこぎ始める。一歩目が終われば、あとは普通の自転車と変わらなかった。藍子は俺の腰に手を回していた。
「重くない?」
「別に、何も感じないけど」
「そんなわけあるか」
腰のあたりをつねられる。
「どこに行くの?」
別に目的地なんてなかったけれど、そこは適当に、「海」って言っておけば、こういう田舎町ではよしとされるような風潮がある。これをありがたく使わしてもらって、藍子を納得させた。
海岸沿いに向かうにつれて、坂道が多くなってくる。ブレーキをしっかりと使って、ゆっくりと下っていく。
「なんだか、歌みたいだね」
「そうだな」
夜が深まっていく。少し薄かった夜空は、漆黒に塗りつぶされ始めている。しんと静まり変える町は、人なんて俺たちしかいないんじゃないかと思えるほど、閑静なものだった。
堤防のところに自転車を止めて、俺たちは夜の海を見ていた。
俺達しかいなかった。当然だが。
「どうして、海なの? 家からだと結構遠いのに」
実際、運動不足な俺にとっては、厳しいものがあった。息が上がりすぎて、心臓が口から出そうだった。二十五歳にはきついって……。
「意外に近いと意識することないだろ?」
「まあね」
藍子は楽しそうにしていた。俺は少し十年で身長が伸びていたから、ばれないか不安だった。もしかしたらおっさんの香りがしているかもしれない。アラサーだし。
「藍子。俺に隠してることないか?」
「え?どうしてわかるの?」
藍子も深夜の冒険に少なからず興奮しているようだった。テンションがいつもより二段高い。
「レイから聞いたんだ。お前が、家のことで医者になるしかないってこと。そのために東京の学校に行くってこと」
「……そっか。レイは言ったのか」
藍子は、十年後みたいに堤防を歩き始めた。今回ははだし。痛くないのかといったら「平気」と一言。
手を後ろに組んで、楽しそうに歩く。俺も藍子の後ろをついていく。もちろんはだしで。
「洸祐は、こういう危ないことしないと思ってた」
「こんなの、危ないうちに入らないだろ」
「そうね」
藍子は鼻歌をする。もちろん俺と藍子の曲を口ずさんでいる。俺もつられて鼻歌が混じる。
「お前の親は、きっと、俺達みたいな田舎モンと付き合うことに嫌悪感を抱いているはずだ。違うか?」
「……私はやめてって言ってるけど。確かにそう」
「だから、連絡できない時があるかもしれない。住所だって、送ってもらったけど、それも違う住所の可能性がある。このままだと――連絡が取れなくなるかもしれない」
「なんかやけに、頭回るじゃん洸祐。馬鹿なのに。」
藍子はいぶかしい目で振り返るけれど、まあいいかといって受け流してくれた。
「だからさ、暗号を決めよう。合言葉って言ってもいいな」
「どんな?」
「俺がシャイニー。藍子がネイビー。懐かしいだろ?」
藍子は、堤防の端につく。
「それ、いいね」
藍子はネイビーのころみたいに、天真爛漫に笑った。