彼は呼び止めようとしたが声が出なかった
「えー紫吹藍子さんは、家庭の事情で転校することになりました」
教室はもちろん藍子の人望を考えれば、騒然とするのは当然と思えた。
「皆、ありがとうございました。短い間だったけれど、このクラスでよかったです! また会いましょう! といっても今日は授業一緒に受けるんですけどね」
少し笑いを取ったところで、藍子は自分の席に戻る。
藍子の席は、新学期の席替えで廊下側、一番前になっていた。
対して俺の席は、窓側一番後ろ。俺は藍子が椅子を引いて、周りのクラスメイトと「嫌だよ~」なんて抱き合っていた。俺はそれを一番遠くで見ることしかできなかった。
つつがなく、一日が終わる。
「藍子ちゃん。絶対連絡してね!」
「そうだぜ、また会おうな!」
藍子の周りには十人ほどの人だかりができていて、藍子はそれぞれとしっかり連絡先を交換しているようだった。様々な悲しみの声が飛び交っている。
「皆、ありがとう。絶対連絡するから……!」
藍子の姿は見えない。だが、泣きそうなことが分かった。
「降谷はいいのか?」
河合が俺を見てそういう。俺はみんなが集まっているうちに、帰り支度を始めていた。まさに帰るという時に河合に呼び止められた。
「いいよ。俺はもう済ませたから」
「まあ、そうだよな。幼馴染だもんな。じゃあ、また明日」
「おう」
俺は人だかりを無視して、教室を後にする。
雨雲がかかった空。廊下は青白くなっていた。
***
「どうして置いてくのよ」
自転車を押していたら、藍子が後ろから鞄で殴ってくる。
帰り道。
二人の間には、いつもと同じ距離があった。だが、気持ちの部分では、明確な距離の違いがあった。俺は、傘が差せないことがもどかしいように感じていた。なんでもいい。俺と藍子の間に何か隔たりの容易なものがあればいいと思った。だから、ずっと目をそらしていた。
「どうして無視するのよ」
「……」
「どうして寄せ書き書いてくれないのよ」
「……」
「どうして一緒に帰ってくれるのよ」
別に、好きで無視しようとしているわけではない。俺はなんて言葉をかければいいのかわからなかっただけなのだ。――なんて言って、逃げてしまえたらいいと思う。俺はただ、何も言いたくない。それだけだった。言葉にしてしまえば、それは一気に陳腐になってしまうような気がするから。
「どうして、って、そればっかだな、藍子は」
だから、少し茶化すような言葉を吐いた。陳腐なら陳腐な言葉を。本当に、自分が自分で心底くだらない人間だと思う。
「だって、わからないもの。言ってくれなきゃ」
藍子は、俯き加減で言う。
きっと、大人になれば、こういう気持ちを「意地張ってた」なんて言葉で片づけてしまえるのだろう。もしかすると、俺は明日にでも、そういう気持ちになれるのかもしれない。だけど、俺はそんな未来の自分が嫌で嫌で仕方がない。どうかこのまま、この気持ちが一生続けばいいのに、なんて思ってもないことを考えてしまう。
「レイと恋先輩にはいったのか?」
「ええ。昨日。後は冴子先生とかもいたわ。部室で」
「そうか」
ほかにも、しずく先輩とか、文化祭実行委員の面々もいたらしい。俺はその日、用事があっていくことができなかった。学校には体調不良と言ってある。
「洸祐は昨日、大丈夫だったの?」
「ああ、大丈夫だ」
少し、罪悪感に心が傷んだ。昨日は部屋で一心不乱にギターを弾いていた。
「もう、明日にはいくんだろ?東京に」
「そう。もう家には何もないわ。後は自分たちの車で運ぶ荷物だけ」
「そうなのか。一昨日来てたもんな、トラック」
「そうね」
十数年間育ってきた家を出ていくというのはどういう気持ちなのだろう。きっと、円満な俺の家族のことだから、こんな妄想はするだけ無駄だと思う。
ずっと置き場所が変わらなかった勉強机。それをどかせば下には懐かしいコインが落ちていたりするのだろうか。例えば壁。ポスターの形に日焼けが進んでいたりするのだろうか。画鋲をさしていた場所。ここにはあのポスターを張っていたな、なんて思ったりするのだろうか。例えば床。カーペットの下に、昔大事にしていた本のしおりがあったりするのだろうか。床の傷に思いをはせて、それをなぞったりするのだろうか。
きっと、俺は想像、妄想はできても体験することのない事柄なのだろう。
「じゃあ、これでお別れね」
「……」
いつも、長いと思っていた帰り道。自転車を押しているとさらに感じる。
こうして歩いていると、とても短く感じる帰り道。
それが、終わってしまった。
俺たちは家の前で、向き合うことはない。
「ねえ、洸祐。大学はどうするの?」
「……考えたこともないな」
「じゃあさ。私と同じところ来なよ。東京」
「俺は馬鹿だから、無理だよ」
もしかしたら、藍子も今日はおかしかったのかもしれない、なんて思う。いつも、俺がこうして弱音を吐けば悪態をついてくるのが藍子だったはずだからだ。今日の藍子は暖かい声で「できるよ」といったから。
「洸祐ならできる。私が、私の言葉が保証する。洸祐は、私と同じ大学に合格することができる」
俺が「そんな簡単に」なんてまた弱音を吐こうとしたのを待ってくれるはずもなく、藍子は家に帰って行ってしまう。
ああ、そうか。藍子は明日からここが「家」ではなくなるのか。なんて思っていると、玄関ポーチの明かりがゆっくりとついた。