世界も彼女も奪い取る
俺たちは屋上に来ていた。
藍子は、生徒会から鍵を借りて、合いカギを作っていたらしい。暇なときはこうして屋上に来ていたんだと。それなら俺を誘ってくれてもよかったのにな。ケチ。
「結構盛り上がってるわね」
「そうだな。音漏れすごいし、ここは最高の席かもな」
「そうね」
しずく先輩が、MCをしているようで「盛り上がってるか~!!!」と観客に向かって声を上げていた。しずく先輩、ギターボーカルなんだ。ギターの良しあしとかはわからないけれど、歌はとてもうまいと思った。もしかしたらメジャーデビューするんじゃないかというほどに。
なんてこれは、俺がその道を知らないから出てくる感想なんだろう。素人が格闘技を見て何もわからないままスタンディングオベーションするようなものだ。
「……しずく先輩は歌手としてデビューするわよ」
「ああ、確かにそれくらいうまいな」
「そうね」
歯切れの悪い藍子。「話がある」と言われた時から、どうにも様子がおかしいような気がする。むやみに楽しんでいるとでもいえばいいのだろうか。教室で音頭を取っていた時、藍子の手は震えていなかったし。
「……レイは、このまま一流大学に行って、上場企業に勤めるわ。恋ちゃんは、専業主婦。そして私は……」
「総理大臣になるんだろ?」
藍子は一瞬詰まって、
「そうね。そう、私は総理大臣になるの」
言い聞かせるように言うのだった。
後夜祭のライブも終わりに差し掛かり、体育館からぞろぞろと人が出ていくのを俺たちは見ていた。
暫しの沈黙。俺はむず痒くてしょうがなかったが、待つことしかできない。そんな風に思った。さっきの言葉「きっと」なんて言葉がついていないという細かいことを気にしたりなんかしていた。
「話があるの」
夕日が落かけている。誰そ彼時なんていうくらいだ。藍子の表情はほとんど見えていない。けれど、その声色から彼女が真剣だということがよくわかる。
「そうか」
「そうよ」
きっと、大人になったらここでたばこなんかに火をつけたりするんだろうな。今はたばこが高いらしいし、体に悪いから吸うかどうかはわからないけれど。
「洸祐は、私が生徒会長になったら、どうする?」
「どうって、副生徒会長に……なれないだろうから、せめて書記くらいにはなりたいな」
「そうね。あんまり字がきれいじゃない書記もありかもね」
「失礼な。俺だってやるときはやるんだぞ」
「そうね。洸祐はやるときはやる男だもんね。お化けは怖いけど」
「……それはもう言わないでくれ」
「嫌よ。一生言うわ」
「それは手厳しいな」
一生。そんな言葉に浮かれてしまえるくらいには、俺は祭りに酔っていた。
「私、引っ越すらしいよ」
「…え?」
「私、東京に引っ越すの」
藍子はまた体育館を見る。茜色の空を見て、そのまま俺の言葉なんて待たずに言葉を連ねる。
「離婚って言ってた。結構身近に起こるもんなんだね。実際、データとかで見ていた時は遠い世界の話だと思ってたけれど、こうして起こってみるとその数値の多さに納得って感じかな」
「そう……なのか」
「そうなの」
昔から、夫婦仲睦まじいという感じではなかったのを知ってはいた。俺の家族とバーベキューをするときもなんとなく『義務感』という感じだったし、楽しそうには見えていたが、楽しくはなさそうだと幼心に思っていたから。
「父親が東京にいるから、どうせ大学も東京なんだからこっちに来といたほうがいい。ってこと。」
「藍子はそれに反対しなかったのか?」
「どうして? 事実よ? 私大学は東京に行くつもりだもの」
「だってまだ一年じゃないか。受験に受かってからじゃダメなのか…?」
「お父さんがダメだって。『質の高い教育が受けられるところを』って言っていたから。この田舎の学校じゃダメなんだって」
俺は、胸が苦しかった。
どうにも言葉が出てこなくて、このまま窒息してしまいそうだった。
「それでいいのかよ……こんなんでいいのかよ……」
「私が決めたことだから。もう変えれない。」
「そうだな。お前は頑固だもんな。そうだよな……」
なんといえばいいだろうか。十五年間も一緒にいた兄弟が、独り立ちする感覚? それとも、自分の初恋の人が、旅立つ感覚? それとも半身がなくなる感覚?
どれも違う気がした。
ただ、一言でいい。
俺はきっと悲しいんだ。
「……いつ行くんだ?」
「今月中には」
「じゃあ『総理大臣部』はどうなるんだよ。お前が生徒会長になるためにこうして文化祭実行委員にまでなって……頑張ってきたじゃねえか……」
藍子の肩をつかむ。想像以上に藍子の体温が高くて驚いた。意外に、華奢なんだな、なんて思う。
「部活は、これで解散ね。仕方ないわ。決まったことだもの。これを変えてしまえば、きっとよくないことが起こる」
「よくないことってなんだよ。俺にとってお前は……」
「大切、なの?」
「そうだよ。大切だ。好きだし、守りたいし、隣にいたい。ずっと。死ぬまでずっとお前の隣にいることができたらどんなに楽しいか。嬉しいか。考えるだけで胸が躍るくらいに、お前が好きだ。」
泣いているのなんか、どうでもよかった。
「だから、俺は言うぞ。いかないでくれってな。俺と一緒にいてくれ。俺がお前を幸せにしてやるから!」
藍子は、はっとしたように、目を開いた。
藍子の背中には、落ちかかった夕日がいて、雲の切れ間から最後の陽光を発していた。
そこでやっと、藍子の涙を見た。
艶やかに煌めき。
とめどなく滴る。
「ごめんね。ごめんね……ありがとう……」
藍子は俺の胸で泣き崩れる。
懺悔と、後悔と、感謝の入り乱れた言葉。
俺はなんて言葉をかければ、世界は終わらなかったのだろう。