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王子殿下と想定芝居  作者: 堂 ジヨン
第二幕 さすがに役者不足です、陛下
14/15

紫陽花のゼリー


 ハイドランジアは手入れをしていた剣を無言で構えた。向ける先は別に曲者でもなければ魑魅魍魎の類ではない。この部屋に入る権利を持つ者がなぜか窓からひょっこり現れて、ちょっと驚いたからだ。ここはかなり高層の部屋なのだが、この人は羽でも生えているのか?


「そんなに剣が好きか」

「わかりません」

「自分のことだろう」

「…別に、好きではありません」


 曾祖父と母の勧めでなんとなく続けているだけだ。こうやって手入れを欠かさないのも、なんとなく落ち着くから、それだけ。


「ふぅん…」

「父上、」

「“陛下”、」

「…陛下、何の御用ですか」


 自分には羽が生えていないし、母も父に羽があるなんて言ったことはないので恐らく壁を登るなりしたのだろう。用もないのにそんなことをされてはこれから先どうしたらいいかわからない。

 滅多にこの部屋を訪れることなんてないくせに。


「さっき会った子、仲よくなれそう?」

「…ストルに会わせたかったんでしょう、自分に聞かないでください」

「姉と仲良くても弟と不仲じゃ居心地悪いだろ。どう?」


 他所の子どもと話すときは目線を合わせるために折りたたむ膝をまっすぐ伸ばして見つめる相手と、あまり似ていない自分の顔立ちを思い起こしてなんとなく不愉快になる。父の父、亡き祖父。いくらその人物によく似ていると言われたってピンと来ない。色だってそう、目は母の色だが髪は父の母、これまたすでに故人の色。会ったことのない人との共通点を他人に教えられて、目の前の人物は何も言わない。



何も、言ってくれない。



「……わかりません」


 だから、こっちも何も言えない。


「そう。じゃあクローブの方にはわたしから伝えておこう」


 用事は済んだとばかりにさっさと部屋を横切って扉の方へ向かう。いつもそう、無駄のないことだ。

だからこちらもいつもの様に目礼だけして見送らない。

 次の言葉を聞くまではそう思っていた。



「――ストルはもとより、お前も大層気に入ったようだってな」

「は?」


  無駄は省くくせに余計なことをしようとするのはどういうことだ。


ニコニコ笑うこの人の笑みを、知らない人間は天使の様だという。とんでもない。この人は、本当に性格が悪いのだ。嫌がらせをする時に限っていい笑顔。満面の笑み。

そう、今まさに閉じようとする扉の隙間から見せているような――


「可愛かったもんね、アルちゃん。そうかそうか、剣と同じくらい好きかぁ~」

「陛下、お待ちくだ」

「じゃ!」

「陛下!」


 バタンと閉められた扉を慌てて開けて飛び出すが、父は走り出していた。あの人は本当に何を考えているんだ。自分の子どもに、7歳の子どもに対する嫌がらせのためにあんなに全力で走る必要はないだろう。


 父は性格が悪いついでに、少しだけ運動が得意と自称している。残念なことに自己認識の通り性格は悪く、自己認識とは異なり尋常じゃなく身体能力が高い。運動神経がいいと自負しているハイドランジアにもそれは受け継がれているし、姉のストレリチアもかなり動ける。

 だが、その僅かにして強固な共通点は今のハイドランジアにとっては迷惑なだけだ。

――なぜ父はこんなにも足が速い。





「どう、されたんですか」


 医務室の入り口にもたれる父とその足にしがみついて動けなくなっているハイドランジアを見て、父の担当医であり旧知の仲の人物はやや困惑した様子で声を掛けてきた。


「見ての通りだとも」

「見てわからないからお尋ねしたのですが…水でも飲みますか」

「それよりこいつを外してくれないか。とれない」

「……殿下、手を怪我しますからお放しになった方が良いかと」


 割と乱暴にハイドランジアがしがみついている方の足を振り回されたが、意地でも放すわけにはいかない。部屋からここまでのそう短くはない距離、その半分辺りで追いついて何とかしがみ付いて引きずられながらここまで来たのだ。いくら細身でも成人した男性を子どもが押さえられるわけもなく、ひたすら歩みを遅らせただけであったが、ここで手を離したら一生この人に勝てない気がする。


無言で手にかける力を増したハイドランジアに、父が溜息をついた。


「…ハイド、子どもの骨というのは柔らかいんだ。あまり強く力を籠めると曲がって剣が持てなくなるぞ。わたしもほら、子どもの頃の無理のせいでここがこんなに曲がってる」

「え」


 思わず手を離して父を見上げると、両手の指を折り曲げて悲しそうな顔をしている姿が見えた。

違う、悲しそうじゃない。笑いを堪えている。笑いを堪えつつ悲しそうに見せる技術など何の役に立つのか。


 騙されたことに気付いて羞恥で顔が熱くなるのを感じた。咄嗟に熱を引かそうとするが、ハイドランジアはそういうことが苦手だった。生来、表情が顔に出にくいために何も言われてこなかったせいで感情のコントロールが必要な時にできないのだ。

 父も姉もそういうところをそれとなく明確に多分にからかいの意味を込めて指摘してくるので、何とかしたいとは思っている。今だってそうだ。


「…悪ふざけが過ぎます」

「どうもこう素直な奴というのは非常に揶揄いたくなるものよな」

「貴方はどうしてそうもひねくれているのか」

「7つまでは天使の様だと言われたけどな」

「化けの皮が剥がれましたか」

「そうやもしれぬ」


 ひねくれたのだか化けの皮が剥がれたのだかそんなのはどっちでもいい。いずれにせよ今現在この人が性格が悪いのは紛れもない事実、それだけが問題なのだ。

 注意をしてそれとなく話題をハイドランジアから父に移してくれた人とはずいぶんな違いだ。そう思ってちらと見上げたら底冷えする目がこちらを見ていた。何も言ってないのに、そんなに怒ることないじゃないか。


「そんなに嫌なら入り婿にでもしてもらうかね」

「何を仰っているのかわかりません」

「おやそうかね…ああそう、言い忘れてた」


 さっきの冷たさはどこへやら、またもにっこり笑いだした父に身構える。この人が笑うとろくなことがない。笑って出かけて行って殺されかけて反乱分子をあぶりだしたり、笑って食事をとって即座に血を吐いて倒れたり。

本当に、本当にひどい嫌がらせだ。



「紫陽花のゼリーだと思っていたそうだよ、お前の名前の由来のこと」

「は?」

「綺麗な青色のゼリーに真っ白なクリームが乗ったお菓子があるんだと。それと同じ色だから、紫陽花ハイドランジアの名前にしたんだろうと思っていて、実際はクレナータの方だったから驚いてしまったと謝っていたよ」


 ハイドランジアはそんなお菓子を知らない。母と王后…姉の実母はよく一緒に食べているらしいが、別に好んで食べたいと思うほど好きではない。出されたら食べるし、なければないでいい。そんなふうに思っているのになぜか厨房の者は泣いて喜ぶ。歓喜と言うより狂喜である。それもあって甘いものはやや不気味なものとして捉えている。

 またしても知らない物に例えられてもやはりどう受け取ればいいのかわからな――


「あの子はお菓子が好きなんだよ」


 考えが吹き飛ばされるほど重要な意味を持つとは思えないのに、ハイドランジアの思考が停止した。

 そうだろ?とあの小さな女の子の父親である人物に尋ねつつ、こちらから視線を外さないこの人は、本当に本当に性格が悪い。きっと自分でも良く分からず頭が真っ白になっているのを面白がっているのだ。


「…ええ、まぁ」

「聞いたか?良かったなハイド」


 何がですかと聞く間もくれずにそっと顔を寄せてくる。薄い薄い紫色の中に迷子になったような顔の自分が見えてハイドランジアは目をそらしたかった。


「お前の色を、自分が好きなものの中で綺麗だと思った物に例えてくれる人に会えて」


 だけどそらせないのは、やはりこの人が悪いのだ。



 ふんわり笑った父親が、一瞬本当に天使の様に見えて混乱する。

この人、何を言っているんだ?



「それも、とっても可愛いと思った女の子に言われるなんて最高だな?」


 本当にこの人何言っているんだ?



 あまりの飛躍に頭突きを食らわせそうになったが軽く避けられてしまった。いつも通りの距離でニコニコ笑う姿に、先ほどの自分は目がおかしかったのだと確信する。悪魔だ。この男は凄くどうでもいい嫌がらせに全力を尽くす悪魔なのだ。


「というわけでラルゴ、お前んとこの長女嫁にくれ」

「は?!」

「何がというわけでですかっ自分は何も言ってません!!」

「今まで興味示さなかったのは、単にお顔が好みではありませんでしたかー。とても面食いねーお母様似かねー」


案に自分の顔がいいと言っているようなものなのに何の気兼ねもなく言う人は、誠に納得がいかないがとんでもなく顔は良い。顔と血統だけは一級品と臣下に罵られても「ははは、その通りだな!!」と返してしまうくらい顔は良い。性格は悪い。後は知らない。


「くれってな、物じゃないんだぞ!!」

「え、じゃあうちの代わりに嫁にやる。アレ、アレキ、なんだっけ」

「アレキサンドルはまだ2つだ!名付け親はお前だろっ…というか、娘同士を嫁に出して交換とか、いつの時代の風習だ!!」

「えーじゃあ婿?こいつ?ほい」

「アルディジアもまだ5歳だっ結婚なんかさせるか!!」

「いや今すぐとは言ってない…」

「当たり前だ刺すぞこの野郎」


 話の流れで急に抱きかかえられてクローブ卿に差し出され、またすぐ引き寄せられてそのまま抱きしめられているハイドランジアは非常に困惑している。

 もっと小さい時分にもこんなふうに抱きあげられたことはなかったし、抱き上げた人物の体温がやけに低いし、父と話している相手がこんなに感情的になっているのを見たことはなかったし、なにより父が離してくれない。自分を離さないのに、自分には話さない。離してほしいのかはわからないが話してほしいとはいつも思ってる気がする。


 良く分からないぐちゃぐちゃな気持ちに溺れそうになっているとひょいと降ろされて問いかけられる。


「お前もそろそろ婚約者決めないといけないし、丁度いいだろ。気に入ってんなら相手方の父親(こいつ)お願い(めいれい)してやる」

「嫌です」

「理由は?」


 理由?理由なんて、そんなもの。

急に離れたせいでなんとなく寒い腕をさすりそうになって我慢する。体温が低い相手でも、空気よりは温かいのだ。


「…あの子、」

「うん」

「陛下のお顔が好きみたいだったから、自分じゃ合わないです」

「うん?」


 目が合うだけでぽっとしていたじゃないか。何を首をかしげているんだ。


「……別に、わたしの顔がどうこう言うわけじゃないと思うから、ナイフしまおうな」

「薬効を試したい試作品なら構いませんか?」

「えぇ…娘持つ父親って話通じない?」


 自分だって娘がいるのを忘れているらしいこの人は、諸手を挙げて降参のポーズをとっている。早々簡単に降参しないでほしい。一応、一国の主だ。


「あのな、俺の顔なんて見慣れないうちはぽっとするだろうが、慣れたらなんてことはないものだ」

「根拠は」

「リナを見ろ」

「…あまり知らない方がいい話でしたか?」

「聞きたきゃいくらでも話してやるぞ。酒は抜きな」


 肴にもならないといって掲げた手をひらひらと動かして、どうでもよさそうに続ける。


「まあ、前にちら会ったときもあんな感じだったけど」

「保護者の許可なく未成年児に会うのは犯罪ではありませんでしたか?」

「なんだその治安がいいんだか悪いんだかわからん法律は…お前のとこの敷地内で会いましたー、よって許可取得済み!」

「いつだ。何年の何月何日、秒まで答えろ」

「子どもかっ!!…階段からすっころんで頭打ったら絶対安静だとお前に閉じ込められた頃?」

「……アルとお前が鉢合わせするような機会はなかったと思うが?」

「窓枠に座って外眺めてたら凝視されたので怪しい者ではありませんと説明した」

「安静の意味わかるか?留置場所には窓はなかったよな?」

「大人しく静かに窓枠に座っていたとも…留置ってなんだ、俺がいつも窓から出入りしているみたいに言うな」


 ついさっきハイドランジアの部屋にどう入って来たのか忘れているらしい父親に、なんとなく特に知りたくもないことを聞いてみる。このままだと物騒で楽しそうな会話が始まってしまいそうだから。

 なんだか肌寒くなるのは好きじゃないから。


「何を見ていたんですか」

「んん?」

「外の、何を眺めていたんですか?」


 この人は、話してはくれないけど尋ねたことに答えないことはない。だからハイドランジアは時々、知りたくもないことを質問する。別に答えが欲しいわけではないのは、最近自分でもわかってきた。

 理由はよくわからないが何だが寒くなる時は、決まって問いかける、そうすれば多少はましになっていたのだ。



 今、この時までは。


 問われた直後、わずかに父の目が揺らいだように見えた。

いつも向いてほしくないときばかり真っすぐに見てくる目が、ほとんど自分には向かない視線が、今この時そらされるのは訳が分からないほど納得できない。


「何、だったかな…」

「陛下、」

「いや待て、結構前のことだから覚えてなくても仕方ないだろ…あの時頭打ってたし」

「嘘つき」


 思わず言った言葉に自分でも驚きながら、止めようとは思えない。

だって嘘に決まってる。


「家臣の会議中の言葉を一字一句どころか声色と間まで覚えて再現したり、書庫の本をタイトルじゃなくて棚の配置と内容丸暗記で把握したり、覚えなくていい事ばかり覚えるあなたが、ぼんやり何を眺めていたかを忘れるわけないじゃないですかっ」


 納得いかないのか腹が立つのか。良く分からないのがもっと気に食わない。


「そう言われてもな…」


 こんなふうに感情的になったらいつもすぐ注意するくせに、


「覚えてないものは覚えてないんだよ」


 悪いな、なんて謝ったりまでして、


嘘だと言ってるようなものじゃないか。












 ハイドランジアは剣を構えたくてしょうがなかった。何なら斬りかかりたい。それをしないのは理性のおかげでも何でもなく、この場に剣が持ちこめないからだ。


 国王の私室である。いくら実の息子でも帯剣して入るのは憚られる。それでも斬りかかりたい。刺し違えてでもいいから。


 無理を通して剣を持ってくればよかったと思っていると斬りかかりたい相手が頬杖をついてつまらなそうに声を掛けてきた。


「そんな怖い顔されてもな…お前と打ち合いやったらもう負ける気しかしないから絶対刺し違いはならんぞ」


 「大勝利、おめでとう!」などと言ってくるこの男に勝とうなどという気はとうの昔に朽ち果てた。勝負しようなどとは思ってはいけない。端から相手にしてはいけないのだ。

 だからそう、今この激情も、ただ単に無駄なもの。落ち着け。


 ただでさえ隔たりを感じていた父王との関係に、半ば一方的に距離を置いたころから10年。

すでに背丈も追い越し腕力も体力も恐らく超えた相手に、なんらの感情もわかないと思え始めた矢先のこの婚約騒動である。斬りたい。斬るしかない。


「別にいいじゃないか…どうせ今でも気にいってんだろ。僥倖と思って乗っかればいいさ」

「さすがに勢いでアルちゃんに乗っかられても困るんですけど」

「ねぇねぇ其方の細君がとても品に欠けるんですが、ねぇ」

「僕は今情緒の処理に忙しい」


 今すぐにでも戻って剣を取りに行こうか。

婚約、しかも婚姻まで短い期間しかないものをするよう仕組んだ相手の両親とこんな会話をする父親を、どうしようもなく斬りたくてしょうがない。


「それしたら余計に早まるだけだからな」


 どうやってか知らないが、こちらの内情を読むのも昔から大嫌いだ。

こちらには何も見せないくせに。


 何とかその場にとどまって話しかける。もう答えは求めない。応えさせるように仕向けるしか方法がないと、あの日からしばらくしてから気が付いた。


「…アルディジア嬢を気に入っているのは陛下の方では?昔からむやみやたらと私と番わせようとしてましたから」

「あらぁ、お宅の息子さんも品に欠けるんじゃないですかねー」

「あれは態と言ってるの、君らのどっちか怒らせて話をなかったことにしようとしてるの」

「――僕が何を言おうがお前はこのまま進める気だろ!!」

「情緒の処理に失敗した模様、行けっカティ!」

「怒った顔も可愛いので婚約のお話も何もかもそのままでいいと思います」

「いいわけあるか!」

 

 もぐもぐと陛下の隣で、そう、なぜだかいつも見かける時は陛下の隣か膝の上でケーキを食べているあの子の母親は、唐突に決まった長女の婚約・及び猶予のない婚姻に動揺して仕方ない夫にとろけるような笑みを浮かべてこう続けた。


「だってアルちゃんももう15ですし、流石に婚約者無しとなると一応伯爵家の身内のご令嬢なんですからいろいろ言われますよ。お見合いしてもなんだか家族の話になった途端に断られちゃうみたいですし。殿下ならアルちゃんがとっても家族思いなのご存知ですからそこを理由に断ったりしないでしょう?」


 最後の方でこちらを向いて笑いかけるが、器用に夫に向けたものとは違うものに切り替えている。

この女性が器用なだけなのか、それとも女というものがこういうものなのか。そこのところが良く分からないハイドランジアはこの人が苦手だ。


 断じて、アルディジアが母親に似ているからではない。


「…承知しているからと言って受け入れるわけではないでしょう?」

「理解って愛と同義ですよね」

「おぉ…歌巫女殿が言うと説得力があるように聞こえるけどそれ教典のありがちな誤読だな」

「『愛があるなら理解がある』であって同等ではない…」

「必要条件、十分条件、必要十分条件。さてどーれだ」

「私算数嫌いです」

「どっちかっていうと論理なんだけどね」

「勉強嫌いです」

「おやそう、じゃあ間違えちゃっても仕方ない」

「何も良くない!!」


 まぁまぁと夫の方に寄った歌巫女殿はそのまま引っ付く。人の父親の部屋でいちゃつかないでほしい。つい数日前双子を産んだばかりだろ、そこの揺りかごに入ってる双子を。

 部屋の主は気にも留めない。慣れないでほしい。慣れた様子で揺りかごをちょいちょいと動かさないでほしい。ありもしない過去を想像するなんてまっぴらなんだ。


「よく考えてくださいララちゃん、アルちゃんが殿下の奥さんになったらそりゃまあなんか色々大変でしょうが、実家と目と鼻の先ですよ。遠いどっかに嫁がれるよりずっと会いやすいですよ」

「…その呼び方やめろ」

「もし殿下が嫌になったらアルちゃんなら逃げ出してこれますし、なんならストルさんの奥さんになって丸く収まると思います」

「…殿下本人の前でそういうこと言うのやめ……なんで王女殿下の妃になるんだ僕たちの娘は」

「そもそもアルちゃんが嫁げる可能性のあるところで一番好条件なの殿下ですよね?昔からの知り合いで、乱暴者でもなく悪い女癖もなく。あとお顔もかっこいいし背も高いです」

「……おい、」

「声も低くて男らしい」

「今ちょっと、抵抗力落ちてるから…」


 顔立ちが可愛らしく背は低めで声は高めなクローブ卿は大分傷ついているようだが、ハイドランジアとしては悪い女癖とは何かがちょっと気になってしまってそれどころではなかった。女癖が悪いならわかるが、いや、そんな評価をされる筋合いはないしそれは姉の方だが、悪い女癖ってなんだ。良いのもあるのか?


 その問いをするには歌巫女殿との親しさが少なすぎたし、当の彼女は傷心の夫に頬を寄せながら「私が好きなのはララちゃんだけですよ」などと宣っているので声を掛けられようもなかった。そういうのは自宅の、夫婦の寝室でやってほしい。


「…ララちゃんがびっくりしちゃってるのも無理はないですよね、だってとっても急だもの。アルちゃんがいつかお嫁に行くのは仕方ないって分かってても、あんまり急だと受け入れられませんよね?」

「…ああ」

「ゆっくり時間をかければいいんですよね?つまり、短くても濃度を高くすれば同じ結果、と」

「…あ、あ?」

「というわけで殿下、私たちの可愛いアルちゃんと4カ月くらいじっくり濃密に愛を育んでください」

「待て違う、僕はそんなこと言ってない」

「私たちは静かに見守ってます」

「カトレヤ?!」



 ひどい詐欺の手口を見てしまったと思ったハイドランジアは、そういうとき非常に喜びそうな人間がなぜか終始無言であることに気が付いた。


 乳繰り合っているんだか揉めているんだかわからない夫妻に関わってももう仕様がないので、遠慮なく視線を外す。揺りかごを慣れた手つきで動かしていた人物は、なぜか目を瞑って固まっていた。



「……陛下?」


 妙に寒々とした気持ちになって発したためか、とてもか細い声になってしまった。

それでも耳に入ったらしく、ぴくりと動いてゆっくりと目を開けて緩慢な動きでこちらを見る。


「……どうした」

「いえ、別に」

「そう、ならいい」


 そうして何も聞いてなかったかのように揺り籠を動かす作業に戻る。ハイドランジアには背しか見えない体勢なのに、続く言葉は明瞭に聞こえた。


「――早く大きくおなり」




 ひどく胸騒ぎがするが、それが何だかわからない。









 国王の私室から退出したハイドランジアは当てもなく城内を歩いていた。


胸騒ぎの原因を探ろうにも、クローブ卿夫妻の絡み合いは終わらないし父はいつも通りその様子を観劇を観賞するように無表情に眺めていた。聞いているように見えなくても話の内容を完全に覚えているような人間の前で、よくあれほど仲睦まじくいられるものだ。ともかく、どう足掻いても条件を満たさない限りこの婚約話は取り消しになりそうもないのであの場に残る意味はなかった。

だからと言って他に行く場所なんてありはしないけれど。




「ハイド様」


澄んだ音で名が紡がれる。出どころは探すまでもない、数歩先の少女からだ。

光の加減で複雑な色味を帯びる黒髪。新雪の肌。濃い色なのに明るく閃く褐色の瞳。


先ほどまで話題にしていたハイドランジアの「婚約者」は、顎の高さで切りそろえた髪を揺らしながら近寄ってくる。迫ってくると言った方がいいかもしれない。なぜならば、終着点の距離が少々近すぎるのだ。ほんの少し体を傾ければ触れられるくらいに。実際、アルディジアが歩みに合わせて動かしていた手は、ハイドランジアのそれに僅かに重ねられている。


 アルディジアは小柄だ。背の高いハイドランジアと並ぶと胸の高さくらいしかない。距離が近ければ彼女がハイドランジアを見上げる形になるのは自然なことである。摂理である。そうしていつものことである。だからといって許容しうるものであるというわけではない。首が痛いだろうにそらしもせずひたむきに見つめてくるアルディジアのこの目が、ハイドランジアは苦手だった。



「お疲れ様でした…結果は芳しくなかったのですね?」

「また折を見て直訴する」

「陛下が一度お決めになったこと、翻されるとは思えませんけど……」


 そんなことは分かっていると内心で悪態をつきつつ視線を外す。気を抜くと苛立ちにかこつけて睨んでしまうかもしれないからだ。決して、他に重要な理由があったりはしない。


「…ハイド様、」

「何だ」

「何か、ありました?」

「………どういう意味だ」

「いつもと違うお顔をされているので…」


 生来の表情の出にくさに胡坐をかくのは早々に卒業したつもりだが、王后や姉、そして父親には何を考えているかすぐにばれてしまう。実母たる側妃は表情の変化には気づくが解釈としてはややずれたことを言ってくるので含めるべきか悩むが、簡単に言えば身内以外には通用する程度の装いは身につけているはずである。

 というのに、目の前の少女も事もなげに変化に気付いてはいつもいつもこうやって近づいてくるのだ。そうして、静かに問いかけてくる。


 ――何かありましたか?

 ――どこか痛みますか?


 何度も繰り返されたことだから、ハイドランジアの答えも決まっている。


「お前には関係ない」


 そう言って触れられた手を避ける。


「そう、ですね。出過ぎたまねをしました」


 こうやってアルディジアが引くまでがいつものことである。


 この少女が疎ましいわけではない。憎いわけではない。

 名前の関係とこれまでの付き合いでやや気まずさを感じるだけで。




 ほんの少し触れられただけで消えては増すこの苛立ちに、名前を付けることから逃れようとしているわけではないのだ。


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