2.1王子殿下とわたしの「婚約」
婚約。結婚の約束。
婚約者。結婚の約束をした相手。
はて?
「何を仰っているんです陛下」
お父様も良く分かってないらしい。困惑した顔のお父様も可愛い。それはいつものことなので、わたしが考えるべき問題はお父様がいかに可愛いかではなくて、なぜわたしがハイド様の婚約者だという畏れ多い立場だと誤解されているかということだ。
「皇帝と第5皇子、その他面々の前でアナスタシウスが自分の婚約者だと紹介し、アルディジアもそれを否定しなかったとのことだ」
「――アル!」
お父様が陛下のお傍から離れてこちらに向かう。さっきのハイド様と同じくらい顔色が悪い。
そして、多分わたしも同じような色をしていると思う。
「今、陛下がおっしゃったことは本当か?」
「それは――」
「申し訳ない」
実は聞き取れてないのにはいって言いました、と正直に自白しようとしたらそれを遮る声が1つ。
「あの場で自分と同じ扱いをさせる方法として思いついたのがそれだけでした」
加えて頭まで下げている。どうしよう、この人はそんなことしちゃいけない人なのに。
「殿下、頭をお上げください。家臣にそのような振る舞いをしてはなりません」
お父様が青ざめつつも言う。それでもハイド様は動かない。
「――お主がするべきことは謝罪ではなく詳細を説明することではないかね。まぁいい、掻い摘んで余から話そう」
他言無用でな、という前置きの後、さらりさらりと説明が始まる。
「簡潔に言うとな、ミネオーア帝は色狂いなんだ」
「へ?」
「政務などはそこそこらしいがどうにも女色に偏った放蕩癖が治らんと子息たちが嘆いておる」
これを他言できる人ってどんな人でしょう。
「しかも、清らなものでなければ食指が動かんと来た」
「え?」
「他の者の手がついているのは好みじゃないということだな。そのくせ1度相手をさせたらそれ以降は見向きもしない。サントの母君もその憂き目に遭ったと聞いているが」
それはつまり。
「あの皇帝様は吸血鬼か何かということですか…?」
「アル…違う。要するに……目をつけられたから、とっさに殿下が庇ってくださったという……おいシオン、どうして笑っているんだ」
「いや、すまん、ちょ、吸血、鬼……くっ…」
私は真面目に言ったことなのだけど陛下が苦しそうに震えている。その姿を見るお父様の目がとてもとても冷たい。でも可愛い、不思議。
「ただの女好きの為政者だったら確かに効果的な対処の仕様がないでしょうが、吸血鬼なら倒せばすんだでしょうに。どうして婚約者だなんて言ったんですか、ハイド」
「アカンサ様。かの皇帝は吸血鬼ではないと思いますし怪物をそう簡単に倒そうとしないでくださいませ」
お腹を抱えて小刻みに揺れている陛下の代わりに王后様と側妃様が話す。わたしの不用意な発言で会話の流れがおかしな方向に行ってしまっているのがお分かりいただけるでしょうか。
「私が擦れた感じだったら問題がなかったということでしょうか…今からでも間に合います?」
「大いに別方向で問題が生じるからやめなさい。いや、絶対にやめてくれ」
お父様が間髪入れずにわたしの思い付きを断じる。と、同時に陛下の震えが一際ひどくなった。
「…問題は、皇帝の…ま、え…ふっ……すまん無理だ、リナ頼む」
「――問題は皇帝の前で“婚約者である”と明言してしまったことです。対外的に発表したと同じだけの影響力があるでしょう。そう簡単に取り消すことはできませんわ」
さっと玉座の裏に隠れてしまった陛下の言葉を継いで王后様が話す。しゃがみこんで震える背中をそっと側妃様がさすっている。
「あなたがそう発言した理由も公にし難いことですから…正式に婚約という形をとらざるを得ないでしょうね」
「…折を見て解消すれば問題ないのではないですか」
「解消?理由は?どちらともに不名誉とならないような理由を思いつきますの?お2人ともすでに婚約をする平均的な年齢から数年経っていらっしゃるのよ、このことで他の方との縁づきが難しくなっては大変でしょう」
ハイド様がわたしの方を見る。わたしもハイド様の方を見る。
「愛想がなく話をしても楽しくない」
「話と言えば自分の家族のことばかりで辟易する」
「…それはなんですの?」
「アルディジアの方は、以前に持ちあがった縁談のお相手に言われた言葉だと思いますが…」
ちらっとお父様が見た方向から陛下の忍びきれない笑い声が聞こえてくる。背中をさすることから叩ことに労りの方向を変えたらしい側妃様が、バシバシという音とともに説明してくださる。
「ハイドが言ったのも、お茶会などで顔合わせしたご令嬢方から頂いた大変ありがたい評価です」
「幼いころからの知り合いで婚約したというのに、今更そのような理由で解消なんてならないでしょう。そもそも婚約の前に分かりきった問題点ですわ」
「問題点…」
あっさりと切り捨てられてしまった。
初めのうちは皆さん微笑んで聞いてくれるのだけど、だんだんその顔が引きつってくるからおかしいなとは思ってたんだけど。
「えーと、他の理由…一緒に過ごすうちにわたしに別のお相手ができてしまった?」
「…それは不名誉に入るだろうが。というか、誰を想定しているんだ?」
「ストル様…?」
「シャレにならないからやめろ。あいつの令嬢関係の問題はお前が思っているよりずっと根深い」
「じゃあ、ハイド様がアレクの方がいいと、」
「却下」
「…アイちゃんの方がい」
「お前は俺を何だと思ってるんだ!」
わたしたちの混迷を極める会話にもきれいに伸ばした背すじを崩すことない王后様が凛とした声で収拾を付けようとする。
「やはり簡単に思いつくものではありませんね。陛下、いい加減正常な呼吸に戻ってくださいまし。あなたからミネオーアに説明いただければ多少角が立っても収められるでしょう?」
「…そうだったんだがね」
「“だった”?」
「あちら側から祝いがあってな」
「祝い?」
陛下がそろりと立ちあがって玉座の背から顔をのぞかせる。笑っていたせいで潤んだ瞳はそのままに、王后様との会話を続ける。
「シルフェル鉱山」
「……まさかお受けになったわけではありませんわよね?」
「むしろ断る理由がどこに?」
「陛下!」
王后様が鋭い声を上げるけど、陛下はさっと目元をぬぐうだけ。
シルフェル…ミネオーアと揉めてた鉱山の名前が確かそんなだったような?
「大体、断ったら変に思われるだろう。急に“御子息のご婚約誠に目出度きことでございますなぁ!!”と言われて動揺を見せず祝いを受け取れただけ褒めてもらいたいくらいだ」
「シルフェル鉱山の問題をさっさと片づけてしまおうという魂胆は欠片もなかったと仰いますの?」
「…左様」
「クローブ様、この方は御息女の婚姻の自由と引き換えに自らの職務を1つ減らしたようですわ」
「そのようですね」
「流石にこの場でナイフやら薬品やら出したら怒るからな!」
「そのような悪辣な手を使ってまで仕事を減らしたいと思うほどお疲れの様ですから、後ほど甘味でも差し上げましょう。糖分は疲労回復に必要ですから」
「それは余にとって単なる毒なのだが…まあいい、何と言われようと翻したりはせんからな。大人しく婚姻の準備でも初めておけ」
「こ、婚姻?!」
思わず声が裏返ってしまった。婚約でも頭真っ白なのに、結婚だなんて。
「何をそんなに驚くことがある。其方らは婚約者なのであろう?」
「え…?本決まりだったんですか?今の流れはどうにかして穏便になかったことにしようっていう話だったのでは?」
「それほどに嫌かね」
「王子殿下に私のような不良債権を背負わせるのはいかがなものかと!」
自慢することではないが、これでもお見合い連戦連敗なのだ。そんな女を、ご令嬢からさざめく視線を浴びせかけられ続けているこの人に押し付けるなんて。
「……家格も派閥も問題はないし、家族愛が強すぎる以外は普通のご令嬢と変わらんだろう」
「お、お褒めにあずかり光栄です」
「褒められていないからな。…陛下、ご事情は分かりましたが、娘に王子妃が務まるとは思えません。そういった教育をさせていませんし何より急すぎます。内情に疎いミネオーアの方々には受け入れられても、国内の貴族たちには信用されないと思いますが」
「元々、噂にはなっていただろう」
「…名前の関係だけで憶測を並べ立てる連中のことを重要視なさるあなたではないでしょう」
「今回の慰問では馬車で相乗りしていたし」
「他の人間も乗っていましたよね」
「数日2人きりで行方知れずになっていたし」
「それは、そうですが。だからといって」
「――一緒の部屋で寝起きしていたようだし?」
お父様が固まる。王后様の眉が僅かに跳ね、側妃様の瞬きの回数が増える。
そして、わたしは狼狽えてハイド様に目線で相談しようと思った。思って、ハイド様を見たら真っ青になっていた。相談できそうにない。だから目を泳がせるしかない。
「“揺り籠に続く宿”だったか?サントご自慢の部屋は如何だったかね」
「よりにもよってどうしてそこなんだ!」
「サントは商売の方が好きだからな。隣国の王子とその婚約者も利用したとなれば宣伝になるだろう」
なんてこと。サントウィラード皇子、そんな謀略を巡らしていたなんて。
ともかく今はこの場に満ちた疑いを晴らさなければ。
「あの、誓って!ハイド様に何もしていません!!」
「何かはされたと?」
「な、ないですよっ」
「本当かね」
薄い紫色の視線が透明な温度でわたしを射抜くけど、怯んでいる場合ではない
ハイド様の名誉がわたしの肩にかかっているのだ。
「ハイド様は恐がる私を優しく慰めてくださっただけで」
「やめろその言い方だと語弊がある」
「へ?」
語弊も何も本当のことじゃないですか。
「アル、今のは、どういう意味?」
「え…そのままの意味ですよ」
「ど、どっちなんだい?」
「どっち?」
お父様まで変なことを聞いてくる。
困っていると側妃様が曇り空から1滴雨が落ちてきたのに気づいた時のように、ぽつりと。
「ハイドに純潔を散らされていないかと聞いているのだと思います」
「アカンサ様アカンサ様、もう少し遠回しにお願いいたしますわ」
「夫婦の営みを先取りされてはいないかと」
「間違いはなかったかくらいに留めてほしかったのですけれど」
なんだかすごいことを真顔で言い合っているお妃様方に男性陣が慄いている。陛下はひょっとすると笑いを堪えているだけかもしれないけど。
ともかく、きちんと回答しておかないとハイド様の不名誉になってしまう。
「そのようなことは決してありませんでした」
スカートの中身やちょっと収まりの悪い部分を公開したり、寝起きの悪い人にひたすらくすぐられたことはあったけど、基本的にお父様たちが心配していることはなかったもの。
「そもそも敵地に近い場所でそんなことしたりしようと思うわけないです」
大体、相手がわたしだし。
至極当然のことを言ってふとハイド様の方を見ると死んだ目でわたしを見ていた。
お母様がお父様に甘えているのを偶然目撃してしまったアレクの目に似ているけど、あの視線とは違って羞恥の気持ちが欠片もない。とすると、体調が芳しくないのを隠して無理をして最終的に大けがをした陛下を見るお父様の目と一緒か。でも殺意に似た何かがないから、わたしにはハイド様が今何を考えているかが良く分からない。
ついでに、わたしの発言の後陛下がもう隠すこともなく大笑いを始めたことも、良く分からない。わたしは変なことを言ったつもりはないのに、呼吸困難になるんじゃないかってくらい笑っていらっしゃる。なぜ。
そんな陛下を横目に見て、側妃様がやや眉間に力を込める。
「よくもまあ自分の子どもをそこまでコケにできますね」
「ちが、そうじゃなく、て、あの、か、お…がきの、ころ、かわ、ら……あっはははははははは!」
「陛下、しまいには刺されますわよ」
「そ、れはこ、ま、るな…っふ、…よし、残りは後で笑うから我慢しよう」
肩で息をしながら笑うのを先送りにするという人間に可能とは思えないことをやるつもりの人はすっと姿勢を正してわたしたちの方を見る。
「アナスタシウス。このような形で婚約などというのが気に食わんのはわかるがな、そもそもお主が言い出したことだ。余が出張って解決するものでもあるまい」
「…」
「あと、シルフェル鉱山の件はなんにせよ辞するつもりはない…そう睨むな。お主たちの婚姻1つで国境付近の問題が解決するなら安いものだろ」
そういわれるとそうだなと思うわたしとは違って、ハイド様の周りの空気はピリピリしている。
ハイド様、謁見の間だから帯刀してないんですよね?なのにどうして腰のあたりに手がうろうろしているんですか?強者にしか見えない剣がそこに在るのでしょうか。
「まあ…ことの次第では折れてやらんことはない」
「……と、仰いますと?」
絶対見えない剣があるんですよね。持ち手のある位置で握りこぶしを作ってますもん。
「祝儀としての形ではなく彼の鉱山をこちら側の物とすることができたら、さっさと周囲の誤解も婚約も解いてやるぞ」
「……それはその気がないということではありませんか!!」
違いましたか。普通に殴ろうとしていらっしゃるんですか。お待ちになって、流石にお父さんでも国王殴ったらまずいと思います。
「さっさと伴侶を決めないお前が悪い。小娘の方と言い、いつまでたっても後継が決められん」
陛下。ちょいちょいっと挑発の手仕草をするのはやめましょう。ハイド様ほいほい乗りそうです。今すでに玉座の方に歩み始めています。
「――その、シルフェル鉱山の問題を解決できればいいんですね?!やりましょう、ハイド様!」
「…は?」
「陛下も、何も問答無用で結婚しろとは仰ってないんです。逃げ道、ちがう、選択肢がありますでしょう?」
「お前、あの鉱山がどういった経緯でミネオーアとの火種になってるのか分かっているのか」
「全く何も!!」
玉座におわす方を殴り飛ばそうとする長身を、全身で引き留めにかかる。お返しにほっぺたをつぶされた。お父様がぎょっとした顔をしているのが視界の端に見える。可愛い。こんなに可愛いから、お母様もお父様を驚かせるのが大好きなんだろうな。
「安請け合いするとどうなるのかまだ学んでいないのか」
「何度か失敗しないと覚えられない頭なもので!」
晴天の色にほほをつぶされた残念なわたしの顔が映っている。こんな状態でよく話せるなと自分ながら感心してしまう。
「――ではまあ、婚約は決まりということでいいな。後は若い二人で頑張れ。ラルゴ、一応家のことだから後で話し合う体をとる。カティも呼んで来い」
「それはこの場の前にすることではありませんか」
「先に言ったら反対するだろう?言質もとれん」
「言質」
「小僧は予想通りの反応をして、御息女が期待通りの宣言をしてくれたからな。余は満足だ。これで長年の望みも叶うというものだ」
なんだかとんでもない発言が出てきた。ハイド様もわたしのほほを解放して呆然と玉座の方を向く。ふわっと、誰ともなく天使の様だと評した美しい笑みを浮かべた人が見える。
あの方は、お父様とお母様の大切なお友だち。
この国で唯一、赤と緑、青と白の新旧主神2柱の色全てをまとうことを許された人。
そうして、
「どちらとも後継に向くと言えば向くし向かないと言えば向かないからな。決め手に欠けていたが先に婚姻するならお主の方を太子にしよう」
「――お待ちください陛下、」
「ついでにもう直ぐ成人だしな。いっそ代替わりするか」
「陛下!!」
即位したときからずぅっと、隠居したいと公言してはばからぬわたしたちの王様。
…ん?つまり、陛下の出した条件が達成できなかったらわたしとハイド様は結婚して、結婚相手ができたということでハイド様が王太子になって…、って。
「え。無理です無理です王妃様なんて完全なる役者不足です無理です!!」
一拍遅れてのわたしの反応にも、先に気付いて抗議していたお父様たちにも全く動じないのは王者の風格というものなのかしら。
しかし、そんな風格を見せつけられてもわたしの主張は変わりません。
役者不足ですってば!!