孤独な反省文
我ながら酷く、日頃にも増して稚拙なことをしてしまったと反省している次第である。もっとも、その元凶がこの世から消え失せればそれ程に嬉しいことはないし、私がそんなことする必要はなくなるわけで、やはり世の中からその忌まわしい存在は抹消すべきものであり、万死に値すると言ってもいいかもしれない。そう言っても、決してたとえ話ではないのだ。私は心底彼らを憎み、嫉み、嫌っている。そうなるのも無理はない程、私の人生は余りにも彼らとはかけ離れたものだった。
昔から、恋人に憧れていた。恋人ができれば、自分の心にぽっかりと空いた穴、自分と他者を分断する深淵を埋められると、そう信じてきたからであった。要するに他力本願なわけだが、それでも、恋を成就させ、性別を超えた、友情よりももっと深い仲にある2人は、いつも和やかに笑っているようで、その笑顔がとても眩しかった。私も、そちら側へ行きたいとひどく渇望したものである。
しかし、私の周りでそんな幸せな偶像は、一瞬たりとも実現したことがなかった。いつも片思いに敗れ、どれだけ私が恋焦がれようと、その曲がった性根と器量の悪さから、私が思い描く理想の恋愛というものは、呆気なく散りゆくものであった。告白されたことも、好意を寄せられたことも、片手で数えられる程度であったが確かにあった。しかし、相手に私の理想像を投影しても、とてもそれは似つかわしくない、慰み物にもならない代物が出来上がるだけで、到底思い描く幸せな交際とやらを踏襲できるものではなかった。
なので、自分が想いを寄せる者と交際できたとしても、なんか違う、と言ったことが日常茶飯事で、それは向こうが、ただ私のことを愛していない故のことなのに、それを煙に巻くように相手はそれをひた隠しにし、それでおいて恋人らしいことはしようとするのだ。簡単に言えばそれは男女の営みであり、彼らは性的な好奇心のみに私を利用しようとするのが、それは余りにも見え透いていて、付き合うのも阿呆らしくなり、結局私の方から離れて行くばかりであった。
その結果、私の性根と自尊心は屈折に屈折を重ね、嫉妬の渦へと誘われることになる。
街中には、私が思い描く理想像が、表面上だけでも見受けられる機会が多々あって、皆お互いを見つめ合い、屈託のない笑顔を称えているのであった。それがどれだけ私を不快にさせたか、想像するのは極めて容易いことである。憤慨したとも言わしめるほど、外に出る度に蛆虫のように湧き出るそれらに、対処の仕様もなくただひたすらその心を悲観に晒すには十分すぎるものだった。
食事中に小蝿が飛んできたら折角の料理を目の前にしても興醒めするように、まさに、私にとってそれは、小蝿同然、下手したら蜚蠊にも劣らなかった。
人間、楽な方に流れたがる。自分で努力してそれ同然の恩恵を受けるよりも、妬んで不幸を願う方が楽なのだ。とはいうものの、努力にだって限界はある。それだけ頑張って、心を燃やすようにしてまで誰かを愛しても、その誰かは呆気なく私の側から離れ行き、私よりもずっと器量がよく、素直で愛嬌があり、可愛らしい娘の元へ去って行くのだ。花は蜜蜂を最も容易く寄せ付けるが、雑草にそれはできない。私は、生まれながらの雑草であった。
その癖、理想像だけは高望みするものだから、釣り合いが取れないのだ。雑草に寄ってくるのは、精々油虫などの類であって、蜜蜂ではない。
雑草は花にはなれない。稀に、雑草にもその好機があると思われるが、それは雑草に分類された花であり、元は立派な学名のついた花なのだ。
そんなに残酷な現実を物語っていても、幾らこの世を嘆いたところで何も変わらない。
そう、何も変わらないのだ。幾ら私が彼らに羨望の眼差しを向けたところで、幾ら彼らに嫉妬と憎悪を振りまいたところで、何も変わらない。
しかし、そんな現実を憎まずにいられるだろうか。このあまりにも不平等で、不公平な世の中を憎まずに、一体私はどう生きようというのだろうか。浮世を憎むことで、浮世になんとかしがみついているような、それが私を私たらしめるものなのかもしれない。
ここまで愚痴愚痴と語ってきた訳だが、あくまでこれは前置きに過ぎず、本題はここからである。
私が憎む幸せな偶像は、ひらりひらりと、春に舞い散る桜の元に佇んでいるかのように私の前に幾多と現れるのであった。それが当たり前の風景で、例えば、外へ踏み出したそれだけで、下手をすれば近所のコンビニとの往復だけで、私はその花弁を見た。
あくる日であった、信号待ちをしていると、向こうにまた、花びらが一枚、こちらに向かって風に吹かれるかの如くしてやってくるのだった。
自分は、どうにもそれを見るのもバツが悪く、また花びらも、自分達の幸福を見せつけているかのようであった。たとえ向こうにそんな気がなくても、薄紅色の鮮やかな色彩は、あまりにも眩しく太陽に照らされて見えるものなのだ。
私はその眩しさに直視することができず、ずっと横を見やっていた。信号機が青く染まり、白黒と交互に配色された道路を渡るときですら、私はずっと、向こうのバス停を見ていた。そこに意識を集中させ、出来る限り、その幸せそうにお互いを見つめ、炎天下のなか手を繋ぎ、互いの温もりを確かめ合う2人から目を背けていた。
そのまま直進すれば、その片方とぶつかることも、なんとなく想像がついていた。両目を彼方へ向けた私の目は、近接した距離感を把握するには余りにも足らなかったが、それでも、このまま歩みを進めれば、私か向こうが避けなければ、衝突は免れないことを確かに認識できた。
しかし、私に避ける気はなかった。なにせ、その舗装された歩道を2人分陣取っているのは向こうであったし、私は横を向いていたわけだし、しかし今考えればどう考えても私が真ん中に寄りすぎていると思えなくもないのがまた悔しいところであるが、まあしかし互いに避けられるほどのスペースは空いていて、一体どちらが避けるかとなった時に、向こうにも避ける気配がないことに私は気付いた。このままでは私と片方は肩がぶつかり合う程度ではあるが必ずぶつかる。しかし、避けられないのが何処か挑発めいた感じがして、私は威信をかけて避けないと心に決めていた。全く、余計な意地を張ったものだとつくづく思う。相手としても、私の思惑は大体理解した上で、精神的にゆとりがある故に、私のそのささやかな抵抗に乗ったのだと想像できた。
互いの思考の読み合いをしたところで、不利になるのは明らかにこっちであった。身長も体格も、どう考えても分が悪すぎる。
ここで当たり屋のようなことをされても、恐喝めいたことを言われても仕方がないと思ったが、今更顔を正面に向ける勇気も、大人しく端による軟弱さも持ち合わせていなかった。私は小心者のくせに、やけに強情なところがあるのだ。そのおかげで、後先考えずに足を進めて、寸前のところであった。相手方の女性が彼をそちら側に引き寄せて難を免れた。多分、向こうの女性も、私が近づいてきていることも、お互い避けずにこのままだと衝突することも、気付いていたのだと思う。あの時一番冷静で、賢明な判断をしたのはあの女性であった。私は、心のどこかで負けた、と思った。嫉妬から挑発を仕掛けた自分の幼心を心底憎んだ。私は幼稚で、彼女は大人だった。それをまざまざと見せつけられたようだった。子供がいくらその小さな腕力を振るっても大人には遊び事のようにしか思われないように、私は彼らに遊びを仕掛けたに過ぎなかったのだと思った。
そして、子供の遊びに大人は手加減をする。それが大人の対応というものである。
私が彼らの存在を憎むのなら、彼らを無きものとして、大人にならなければいけなかったのだ。
私は、手加減されて運良く見逃された稚児に過ぎなかった。それに気付いた時、私は迫り上がってきた恥に耐え得ることが出来なかった。私と彼の衝突は、余りにも稚拙な子供同士の喧嘩のように、彼女には思えたに違いない。
ところで、私はあの男性と衝突しかけた寸前に、初めて彼の顔を見やった。あの時、彼の顔は歪んだ微笑を浮かべているように見えた。その顔が今でも脳裏に焼き付いている。