2
「えっと……その。卒業制作に、行き詰っていて……」
濡れた髪をタオルで拭いて、服も着替えてきた楓太は、カウンターを挟んで夢子の前に陣取ると無言でお稲荷さんスマイルを浮かべて小首を傾げた。『さぁ、話して?』という無言の圧を感じた夢子はソロリと口を開く。
のだが。
──まさか、置いてあった着替えが作務衣だったとは……っ!!
『お待たせ』と言いながらのれんの向こうから現れた楓太は、濃紺の作務衣に身を包んでいた。てっきりいつも通り襟元が伸びたTシャツに色の褪せたジーパンで再登場するのだとばかり思っていた夢子は一瞬、思わぬ姿に言葉を失ってしまったのである。
──ヤッバイ、やっぱり和服、すごく似合う……っ! ズボラ臭が抜けてイケメン具合がグッと上がる……っ!
いつもより少し早くなった鼓動がちっとも落ち着いてくれない。作務衣でこれなら、着流しなんて着られた日には自分はどうなってしまうのだろう。心臓発作でも起こして倒れてしまうのではないだろうか。
──お、落ち着かない……! イケメン度が上がってて落ち着かない……っ!
チラリ、チラリと楓太の作務衣姿を盗み見しながら、夢子は何とかそれだけを口にした。
そんな夢子を前にした楓太は『ふむ』とさらに首を傾げる。
「卒業制作……夢子ちゃんは前に、庭の研究をする研究室にいるって言ってたよね? 庭の図面を作ってるってことでいいのかな?」
「あ……えっと……。卒業制作には、毎年決まった図面が課題に出るんです。公園か、屋上庭園かを選べて……」
楓太の柔らかな声に、夢子はハッと我に返った。
楓太は真剣に夢子の悩みを聴いてくれようとしている。ならば夢子もきちんとお悩み相談に集中しなければ楓太に失礼だ。
ズボラで残念なイケメンではあるけれど、楓太の心はいつだって優しくて真っ直ぐだと夢子は知っている。それを無下にするようなことも、踏みにじるようなことも、夢子は絶対にしたくない。
「屋上庭園は架空の場所で、公園は名古屋に実在している場所です。どちらも『自分が改修するならどうするか』っていう課題で、デザイン用の図面と、現状の詳しいデータが渡されます。自分のデザイン案をA0サイズの紙1枚にまとめて、提出するんです」
楓太の作務衣姿に盛り上がる脳内の自分を一回無理やり締め出して、夢子は自分の言葉に集中した。そんな夢子の雰囲気の変化に気付いたのか、楓太がふんわりと笑みを深くする。
「私は、公園の図面を選んだんですけれど……」
お悩み相談に集中してしまうと、ズンと心が沈んだ。店に入るまで抱えていた重みを思い出してしまった夢子は、視線をグラスに落とすと蚊の鳴くような声で呟く。
「どうしたらいいのか、分からなくなってしまって……」
「どうしたら?」
「これ、見てもらえますか?」
夢子はトートバッグからスマホを抜き出すと楓太に差し出した。スマホの画面には美しく彩られた図面の写真が表示されている。研究室の壁に貼られた去年の卒業制作を参考用に撮らせてもらったものだ。
「うわぁ、綺麗だね! 『図面』っていうイメージよりもすごく華やかだ。地図、というか、見取り図? の図面だけじゃなくて、説明のイラストとかも書いていいんだね」
「私達の研究室で引く図面は、施工用の図面じゃなくてデザイン用というか、プレゼンテーション用の図面なんです。実際の工事の時に使う物じゃなくて、説明用にイメージを伝えやすいように作る物で。メインのモチーフを説明するためにイラストを描いたり、眺めが分かるように風景画みたいなのを添えてみたり、文章を書き込んでみたり、色々やっていいんです」
画面をスライドさせていくと、美しい図面が何枚も表示されていく。元になった課題は同じなのに、どれも仕上がりの雰囲気は違っていた。そしてそのどれもが違った魅力を以って見る者に迫ってくるような作品になっている。
夢子は庭が好きだからこの研究室を選んだ。だけどその理由に加えてもうひとつ、夢子にはこの研究室に惹かれた理由があった。
色とりどりの美しい図面。
その中にあふれる夢。
デザイン用の図面と言いながらも、縮尺を元にして厳密に引かれた美しいライン。
自分も書いてみたい、と思った。自分の脳内にあるイメージを、こんな風に大きな紙に表してみたいと思ったのだ。
だが実際にそれをやれる段階になって、夢子はこんなにも憂鬱を抱えてしまっている。
「書いて、みたんです、実際に。……でも、ゼミのみんなや先輩方の作品に比べると、どうしても、見劣りしているような気がして……」
毎週ゼミで進捗報告会がある卒業論文と違い、卒業制作は締切が設定されているだけで特に制作過程をとやかく言われることはない。
最初の方にコンセプトの確認と図面の簡単なチェックはあったが、夢子は先日そのチェックを無事にパスしている。あとは自分が気に入るように作り上げ、前期期末考査に合わせて設定された提出期限までに教授の所に提出に行けばいい。
チェックを通過できた時点で作品としては問題ないということだから、提出さえできれば単位はもらえるだろう。
あとは自分の好きにやればいいという段階まで来ているはずなのに、夢子の手はそこで止まってしまった。
「他人と比べる必要なんてないって、分かっているんです。みんなも、そこまで他人の事なんて気になっていないって、分かっています。こんなの、私の自意識過剰だって」
自分にできる最高の作品を仕上げることが重要なのであって、他人の目なんて気にする必要もなければ、他人はそこまで夢子の作品に興味関心を抱いているわけではない。夢子だってそれは分かっている。
分かっている、はずなのに。
──こうじゃない。
──私が書きたかった図面は、こんなんじゃない。
そう思ってしまった。
それから手が動かなくなり、気付いた時にはピクリとも手を動かせなくなってしまっていた。
そして止まってしまったのは、卒業制作だけではなかった。
「それに……。進まない卒業制作が気になって、卒論の方も、進まなくなってしまって」
「卒論は、この間テーマが決まったやつだよね? 卒業制作とは別物の」
「はい」
夢子はコクリと頷くと、一度言葉を躊躇わせた。自分の悩みが、大学生が抱くには幼稚すぎる、甘えとも言えるものだと、自分でも分かっているから。
それでも勇気をかき集めて、夢子は重たい唇を開く。
「……金華山そのもののこととか、周辺のこととか、その辺りのことはまとめ終わって、問題点の提起もまとまったんですけれど。……その、問題点に関する現状というか、行政の取り組みについて……取材に、行かなきゃ、いけなくて……」
「取材に行く、勇気が出ない?」
問いを紡ぐ楓太の声は優しい。
その声に小さく頷きながらも、夢子は自分の情けなさに泣きたくなった。
「ネットと本だけじゃダメだって、分かってはいるんです。市役所の何課に行けば対応してもらえるのかも、調べてはあるんです。……でも」
うつむけてしまった顔を上げることができない。だけど言葉は止めたくなくて、涙で揺れそうになる声を必死に張って、夢子は自分の言葉を吐き出した。
「……でも、……大学生になってまで、何言ってんだコイツって、思われるかもしれないんですけど……」
「うん」
「……………私、怖くて。とにかく、怖くて……。できれば、行きたくないなって思ってしまって。足が、すくんでしまうん、です」
昔から夢子にとって『知らない人』はとにかく恐怖の対象だった。
なぜ、自分でもここまで、俗にいう『人見知り』が激しくなってしまったのかは分からない。いい大人になった今、こんなことを半泣きで人に訴えるなんて情けなさすぎるとも思っている。ましてやこれを理由に卒業論文に必要な調査を怠るなど、言語道断だとも分かっている。
それでも、そこまで自分で分かっていても、行動するための一歩が踏み出せない。
──情けないにも、程がある。
自分で自分に発破をかけるのに、どうしても前に進めない。その発破が最近自分自身に対する罵倒に変化していて、四六時中自分自身に責められているような気がして、それもつらい。
本当はそんな内心まで声に出してしまいたいのに、変に見栄があってそれもできなかった。それが余計に腹立たしい。
「夢子ちゃんは警戒心が強くして、失敗を人に見せたくない人間だもんね。それは夢子ちゃんの大切な性格であって、悪いことじゃないんだよ。克服したいって思ってることも分かるし」
言葉を切って涙ぐむ夢子に、楓太がフワリと言葉を向けてくれた。
「慣れない場所で勝手の分からないことをするのは、とんでもない失敗をしそうで怖い。知らない人だらけなのも怖い。勝手が分からなさすぎて頓珍漢なことを言ってしまいそうなのも怖いし、そんな状況になったらテンパってしまって切り抜けられそうにない。その全てが怖い」
続いてサラサラと言葉が続いた。
モヤモヤと胸を締めていた言葉にできない感情が急に言語化されたような気がして、夢子は思わず顔を跳ね上げる。
そんな夢子の視界の向こうで、楓太が柔らかく笑っていた。
「多分ね、夢子ちゃんが抱いてる恐怖の根本って、そういう所にあるんだと思うよ」
夢子が思っていた以上に近くにあった楓太の顔には、夢子を馬鹿にするような表情は一切浮かんでいない。
夢子を案じてくれていることが分かる、慈しみがにじんだ、声音通りに優しい表情を楓太は夢子に向けていた。
「……どうして」
……言葉にできない内心が分かったのか。
思わずこぼれた声からは、早くも涙の気配が消えていた。
そんな夢子に、楓太は浮かべた笑みの色を悪戯っ子のそれに変える。
「短い付き合いではあるけれど、夢子ちゃんの心の内に触れる機会は何回かあったからね。夢子ちゃんの為人は、少しだけど分かっているつもりだよ。……ちなみにそれを責めている訳ではないからね。夢子ちゃんの、大切な個性だから」
「……責められたわけでもなければ、揶揄されたわけでもないってことは、分かってます」
「良かった」
柔らかな声のままそう答えた楓太は、夢子に水のグラスを勧めてくる。
夢子が常連客になっても、この和カフェで出されるのは基本的に水だった。夢子から希望を出し、店に在庫があった時のみ、水以外の飲み物や食べ物が夢子の前に出される。
水だけで終わってしまった時、楓太は夢子から料金を受け取ろうとはしない。本当にそんなことでこの店は大丈夫なのだろうかと心配になった夢子はなるべくお金になりそうなものを毎回注文するように心がけているのだが、当の楓太がまず水のグラスを空にしてからでないと注文を受け付けてくれない。
──『少しだけど分かっているつもり』って。普通、そんな好意的に解釈してもらえるようなこと、言ってないと思うんだけど……
楓太の言葉は、不思議だ。自分の内心を言い当てられただけで事は何も解決していないのに、もうすでに自分の心はどん底から掬い上げられている。
──私も、楓太さんに、そうあれたらいいのに。
そんな自分の心がこぼす独り言に勝手に赤面しながら、夢子は今日も水のグラスを空にすべくグラスに口をつけた。
今日も出された水はキンと冷えていたが、水の冷たさは体を冷やすことはなく、夢子の中に溜まったモヤモヤを絡め取ってスッキリした心地にしてくれる。何だか自分が清められていくような気がして、二、三口口をつけた後にはホッと息がこぼれていた。
「卒業制作も卒論も煮詰まっちゃってたんだね。生真面目な夢子ちゃんには、とってもしんどい状態だったんじゃない?」
「私、生真面目なんかじゃ……」
「生真面目じゃない人間は、そもそも卒論のネタを求めて炎天下を自転車で走り回ったあげく、熱中症で倒れかけたりなんかしないんだよ」
「うっ……! その節は、ご迷惑をおかけしました……」
「迷惑とは思ってないけど、気を付けてほしいとは思ってるかな?」
サラリと付け加えられた言葉に夢子はさらに『うぐっ』と声を詰まらせると楓太からそっと視線をそらした。
そんな夢子に気付いているのかいないのか、カウンターに肘をついて夢子の話を聞いていた楓太は体を起こすと『ふむ』と何かを思案するような顔になる。ついでに銀のポットを取り上げた楓太は、カウンターに返された夢子のグラスになみなみと水を注いだ。振り出しに戻ったグラスに夢子は思わず恨みがましく楓太を見上げる。
「そういう時は、無理やり少しでも進めてみて、やっている間にやる気を出すっていう方法と、他のことをやってみて気晴らしをするっていう方法があるけど……」
ポットをカウンター内の定位置に戻した楓太は、片手を顎下に添えながら微かに小首を傾げて夢子を見た。
「『上手くいかない卒業制作で卒論の手が止まってしまった』っていう夢子ちゃんだと、気晴らしに何かしてみても悩みの種が気になって楽しめないばかりか、『こんなことをしている場合じゃないのに』って余計に気に病みそうだよね」
「うぅ……制作と卒論、どっちもうまくいかないことを、互いの言い訳に使っているだけのような気もするんですけど……」
「いいんだよ、そんな風に考えなくったって。現状がしんどいことに変わりはないんだから」
本当はこんな風に甘やかされていてはいけないんじゃないか、という考えが一瞬脳裏をよぎったが、口に出してしまうと楓太と水掛け論になってしまう。それは何だか申し訳なくて、夢子は口元を引き結んで無理やり言葉を呑み込んだ。
「と、なると、無理やり進めてみるかだね。『やる気は速度じゃなくて加速度』って言葉を聞いたこともあるし」
「速度じゃなくて、加速度?」
「そう。無理やり0から1に持っていくと、その後なんやかんやでやる気もついてくるってことを言った言葉らしいよ」
何となく、楓太が言わんとすることは分かる。でも、その『0から1に』というのが最大の難関だし、結局マイナスな気持ちに引きずられて思ったように進められなければ、無理やり引き出した1も0からマイナスへ戻っていってしまうのではないだろうか。
──って、そうやってウダウダしてるから何も進まなくなるんだよ、私のバカ!
「夢子ちゃん。その図面、今持ってるの?」
再び自己嫌悪のスパイラルにはまり込みそうになっていた夢子の思考を楓太の声がフワリと掬い上げる。その声にハッと顔を上げた夢子は、背中から下ろして鞄に引っ掛けるようにして置いていた図面ケースを慌てて引き寄せた。
「もっ、持ってます!」
「うん。じゃあ、ちょっと奥に来てくれない?」
楓太は坪庭の横にある通路を指さしながら言うとカウンターから出て自ら先に店奥に向かって歩いていく。カッコカッコという独特な足音に首を傾げながらも、夢子は図面ケースを片手にその後ろに続いた。
夢子の来店を機に目隠しのベニヤ板が外された坪庭は今、石灯籠だけがポツンと置かれた殺風景な空間になっている。
元々はセイタカアワダチソウにわっさりと占拠されていたのだが、何の心変わりなのか楓太は梅雨に入る少し前にそのセイタカアワダチソウを自力で駆逐したらしい。
『どう? 少しは庭っぽくなったでしょ?』と満足げに言った楓太に『庭っていうのは綺麗に整えてあって初めて(以下略)』という前回と同じお説教を見舞ったのは前回の来店の時であったか、はたまた前々回の来店の時であったか。
──ここの坪庭、きちんと整備するつもりなのかな? その時は私にも、デザイン案を出させてほしいなぁ。……なーんちゃって。
卒業制作ごときで行き詰っている自分が何を不相応なことを言っちゃってるんだか、と自嘲した瞬間、夢子は店奥の空間に足を踏み入れていた。
夢子の指定席は表側のカウンターだから、ここに足を踏み入れるのは初来店の時以来で2回目だ。照明が落とされた空間は坪庭の目隠しが外されていてもやはり薄暗い。だがマメに掃除はされているのか、前回よりも埃っぽさは感じなくなったような気がした。
「このテーブルだったら、A0紙でも広げられる?」
「え……」
そんな中、楓太が示したのは6人掛けのテーブルだった。表側のテーブル席は4人掛けだが、空間が広い奥の席はその分大きなテーブルが置かれていたらしい。
「た、多分……」
「ちょっとさ、広げてみせてよ。夢子ちゃんの図面」
「えっ!?」
「僕は全くの素人だけど、見て何を思ったかを伝えることくらいはできるんじゃないかなと思って」
思わぬ言葉に夢子は円柱形の図面ケースを握りしめたままギョッと目を見開いた。持ち運びやすいようにストラップが付けられた図面ケースは、夢子が背中にナナメ掛けにして持ち歩いていたせいでしっとり水気を帯びている。その水気が容赦なく手を濡らすが、今の夢子にはそんなことに気を回している余裕はない。
「夢子ちゃんが煮詰まっちゃってる原因のひとつに、ずっと一人で作業をしているってことがあるんじゃないかなと思ったんだ」
反応で夢子の内心が読めたのだろう。楓太は穏やかな笑みを浮かべて夢子に言葉を向けた。
「僕が感じたことを伝えて、夢子ちゃんが思ったことを返す。思考も気持ちも、中に溜めとくばかりだから煮詰まりやすくなるんじゃないかな?」
「……これも、『話す』は『離す』、ってことですか?」
「そうだね」
穏やかな笑みに、夢子は楓太の言葉を胸の奥で咀嚼してみる。
確かに同じゼミにめぼしい友達もいない夢子は、卒業制作も卒業論文も今までずっと一人で向き合ってきた。同級生達の卒業制作の進捗や卒論の進捗を知っているのは、ゼミでチラチラと見かけたり聞いたりするからであって、決して夢子が同級生達と一緒に作業をしているからではない。
家のリビングの机か研究室の製図板くらいしかA0サイズの図面を広げられる場所がなかったから、研究室が違う友人達の前で図面を広げる機会はなかったし、家にいる家族は夢子の図面にチラリと視線を向けるくらいであまり興味を示してはくれなかった。
図面を見せないままグダグダと愚痴を聞かせるのも生産性がないし、興味がない人にアドバイスを求めるのも気が引ける。だからずっと夢子は行き詰っている内心を誰にも打ち明けることなくここまでやってきた。
だから、楓太の申し出は、正直に言うとありがたい。だが『不出来』だと思っている物を見せることに抵抗がないわけではなかった。先輩達の図面の写真を見せてしまった後だから、抵抗というか、羞恥心というか、そういう感情は余計に強くなっている。
「あと、見せてくれたら、夢子ちゃんにとっておきのおまじないを教えてあげる」
だがそんな悩みは、楓太が付け足した思いもよらない言葉でスコンとどこかに抜けてしまった。
「お、おまじない……ですか?」
「そう。神頼み、とも言うかな?」
──具体的な解決方法じゃなくて、おまじない、ですか……
二十歳を過ぎた一応立派な成人女性を捕まえて『おまじない』とは何なのだろうか。一気に話が胡散臭くなったような気がするのだが。
だが、しかし。
──神頼みが効いた実績、本当にあるからなぁ……
夢子の卒論のテーマは、伊奈波さんへの願掛けの直後に見つかった。まさしく『天啓』とも言えるタイミングで。しかも楓太と関わった事件の後、楓太と一緒にお祈りをしたら、だ。これを『神頼みの実績』と言わずして何と言おうか。
──自称『お稲荷さん』な楓太さんが言うおまじないなら、効果はある、かも……?
葛藤がジワリと羞恥を越えたのを感じた夢子は、手を緩めて図面ケースの筒先を手元に寄せると軽くひねってキュポンッと口を開けた。そんな夢子にニコリと楓太が笑みを広げる。
「ほ、ほんっとに、不出来ですから……。さっきの写真みたいなの、期待しないでください……」
「比較なんてしないよ。それよりも、その筒に図面が入ってたんだね。見慣れない物を背負っていたから何かなぁとも、カッコイイなぁとも思ってたんだ」
「そ、そこを、褒められても……」
──う、嬉しいんですけどもっ! で、でも今は、中身の図面の問題でしてっ!
楓太の褒め言葉に頬が熱くなるのを感じながら、夢子は机に歩み寄った。
ケースを逆さまにして、丸めて中に入れた図面を取り出……
「イナバさんイナバさんイーナーバーさぁぁぁぁぁぁぁぁんっ!!」
……そうとした瞬間、何やら店表で姦しい声が響き、ガラピシャッと手荒く表扉が開かれた音が聞こえてきた。
思わず体をビクつかせる夢子に対し、『おや?』という顔をした楓太は慌てず騒がずカッコカッコと足音を響かせながら店表へ顔を出しに行く。
「イナバさぁんっ!! いたっ!! 良かったっ!!」
「護国さん? どうし」
「助けてくださいぃぃぃぃぃいいいいっ!!」
夢子は反射的に筒を反対側に傾けて図面を元通りに収納すると、ケースに蓋をはめながら店表に向かった。何事かと顔をのぞかせれば、一足先に店表に向かった楓太が見慣れない男性客に文字通り絡みつかれている。
──へっ!?
「あー、夢子ちゃん、大丈夫だよ。不審者じゃないから」
夢子はとっさに図面ケースを竹刀のように構える。それだけで夢子の危惧を察したのか、楓太は慌てて夢子を止めると男性客を引き剥がしにかかった。
「同業者というか、何というか……。とりあえず、知り合いなんだ。それに夢子ちゃん、そのケース、研究室から借りてる備品なんでしょ? 中に大切な図面も入っていることだし、武器として使うのはどうかと思うよ?」
「ど、どうして備品だって分かって……!? じゃなくて!」
楓太の言葉にワンテンポ遅れて反応した夢子は、戸惑いとともに図面ケースを下ろした。
「知り合い……ですか?」
「そう。おまけに、何か今日はっ、相談事つき、みたい、だねっ!!」
ベリッと男性客を引き剥がした楓太は、軽く息をつくとジットリした目で男性客を睨む。それから大変申し訳なさそうに夢子へ視線を向けた。
「夢子ちゃん、ちょっとコイツの話を先に聴いてもいいかな? 何だか、緊急事態みたいだから」
「え、……も、もちろんそれは、構いませんけど……」
「夢子ちゃんも、待つついでに一緒に聴いてやってくれない? 一人で待たせちゃうのも申し訳ないし」
──……あれ? こんな感じの流れ、何か前にもなかったっけ……?
カウンターの中に戻った楓太は、男性客用に新たな水のグラスを用意すると夢子の隣の席に置く。
お取り込みなら出直しますけど……という台詞を口に出す隙を与えられなかった夢子が戸惑っている間に、楓太から引き剥がされた男性客は大人しく用意された席に着いた。
「夢子ちゃん、さぁ座って座って。……で? 護国さん、そんなに慌ててどうしたんですか」
カウンター内の定位置に陣取った楓太は、夢子を急かすとさっそく男性客に疑問を向ける。
──いや、楓太さん、私まだ、いいとも悪いとも答えてない……
答えていないが、この流れでは『撤退』という道は許してもらえないだろう。
楓太の強引なマイペース加減に呆れながらも、夢子は諦めの溜め息をこぼしながら自分の指定席に再び腰を下ろしたのだった。