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「……寒い」
ひんやりと肌を撫でる風。肌寒さに追い討ちをかけるかのように霧雨がしっとりと肌を濡らす。
「岐阜の梅雨、ナメてた……」
ゴールデンウィーク前くらいに一度ガツンと気温が上がる岐阜だが、梅雨入り直後くらいは数日、気まぐれのように肌寒い日があったりする。
岐阜の猛暑は日陰に入っても体感温度が変わらない、まさに『空気そのものが暑い』熱気なのだが、この時期はまだその暑さがない。暑さに体が慣れ始めたこともあって、日差しが陰ればその分体感温度が下がる日もある。今日はまさにそんな日だった。
「何なんだよぉー……。同じような天気でも、ムシムシあっつい日もあるのにさぁー……」
そんなシーズンには、サラリと羽織物を着て、体感温度によって調整できる服装をするといいと言われる。通気性の良い素材だと梅雨時の湿気も気にならなくて良い。
さらにシルエットが体に沿ったスッキリした型の物だと、動いた時に裾や袖が広がりにくくて雨に濡れにくい。かつ体に密着しすぎない形と素材であればベストだ。
だというのになぜか、今日の夢子の服装はポリエステル素材のふんわりとしたシルエットのブラウスにガウチョパンツという、何ひとつとして梅雨時に適していない格好だった。歩くたびに広がるガウチョパンツの裾はとうの昔に水気を吸いつくして足に絡まり、服と体の間の抜けていかない湿気は容赦なく不快指数を上げていく。
おまけに今朝久々に雨が降っていなかったことに油断して、大きい傘を持ってくるのを忘れてしまった。鞄の中に入っていた折り畳み傘でしのいでいるのだが、普段24本骨のどでかい傘を使っている夢子にしてみると、小さくて骨も少ない折り畳み傘はどうにも心もとない。
「……でも、どれだけ大きな傘を使ってみても、変わらず荷物が濡れちゃうのはなんでなんだろう」
傘の差し方が下手なのだろうか。思わず溜め息がこぼれる。
ひとつ溜め息が落ちると、まるでそれが引き金になったかのように憂鬱な事柄ばかりが脳内を転がり始める。背中に背負ったその『憂鬱』のひとつが溜め息を吸い込んでズシッと重たくなったような気がした。
「うーっ! ダメだダメだ、こんなに暗くなってちゃっ!!」
夢子はプルプルと頭を振ると重く沈んでいく気持ちを無理やり引き上げた。
──何のためにわざわざ家に向かうのと違う路線のバスに乗ったのか! その理由を思い出すんだ、小橋夢子!!
胸の内だけで呟いて顔を上げれば、目の前には雨でしっとりと濡れた石畳の参道が広がっている。いつもはポツポツと人影がある通りなのに、肌寒い空気と霧雨のためか夢子の視界に人影はなかった。それがかえって参道の景色を一幅の絵のように美しくしている。
──この景色を見ると、雨もいいかなって、ちょっと思えるんだよね……
霧雨を纏ってより一層鮮やかになった枝垂桜の葉の緑。艶々となまめかしく光る石畳。さらにその奥に薄雲を纏って鎮座する伊奈波の山。雨雲に光が薄く遮られて彩度を落とした景色は、山水画の世界から抜け出てきたかのように静謐な空気に満たされている。
その光景に目を奪われながら少しだけ空気を胸に落とし込み、夢子は止まっていた足を再び動かし始めた。
名鉄岐阜駅のバス停から長良橋経由のバスに乗った夢子は、伊奈波通りのバス停でバスを降り、伊奈波神社に向かう参道に沿って歩いていた所だった。その道を途中で折れて住宅街へ続く横道に入り、何回訪れても迷う道筋に今日も迷いながら、目的の店を探す。
「……あった!」
表通りから1、2本裏に入った、門前町とは名ばかりの古い住宅街。
パッと見ただけでは店なのか個人宅なのかも分からない、古い町家造りの古民家。最近その入口扉の上に小さなお狐様のお面がかかるようになった。
自分のために店主が用意してくれた小さな目印にへにょっと口元を笑みに緩め、数秒の後にそれをキリッと引き締めて隠してから、夢子は店の扉に手をかける。もちろん、傘から水気を切り、綺麗に畳んでおくことも忘れない。
古い引き戸に手をかけると、古びた見た目と今日のお天気に似合わず、扉はカラリと軽やかに開いて夢子を迎え入れた。
「こ、こんにちは……っ!」
いまだに上ずる第一声を上げながら扉の向こう側に足を踏み入れる。
古い町家造りをそのまま残した店内に今日もお客様の姿はない。そのことにホッとするような、『いやこれじゃ経営はどうなのよ?』と心配になるような複雑な思いを抱いていると、フワリと厨房とカウンターを仕切るのれんが揺れて店主が姿を見せた。
本日のお天気もものともせず、今日も今日とて涼やかな美しさを纏うイケメン店主は、来店した夢子を見つけるとつり目気味の目元を和ませて人懐っこく笑う。
「やぁ、いらっしゃい、夢子ちゃん」
名無しの和カフェの店主、稲波楓太。
「こんにちは、楓太さん。今日は、その……」
大学4年生、絶賛卒論と卒業制作に追われる女子大学生、小橋夢子。
「ん? どうしたの? 夢子ちゃん」
「……あの、言いづらいことなんですが……」
ひと月ほど前、この店の近くで熱中症で倒れかけていた夢子を助けてくれたのが楓太だった。その時、夢子は少し不思議な事件を解決するために楓太に協力している。
「何で、全身ずぶ濡れなんですか……?」
「え? さっき買い出しに行ってたんだけど、差していた傘に結構大きな穴が開いていたことを忘れててね」
「何で、買い替えてないんですか?」
「ほら、傘ってさ、使い終わったらしまっちゃうじゃない? だから、ついうっかりと忘れちゃうんだ。今回で、えーっと……3回目くらい?」
「なんってズボラ……っ!!」
その事件とその他諸々のお陰で、楓太と夢子は『閑古鳥が鳴く和カフェらしき店のほんのり残念なイケメンズボラ店主』と『そこに通う唯一の常連らしき客』として縁を紡ぐことになった。今では遠慮なくズバッと言いたいことを言える仲にまで成長している。
今日も残念なイケメンっぷりを発揮する楓太に溜め息をつきながら、夢子はジトッと楓太を見つめた。
「せめて着替えるとか、拭くとかしましょうよ。風邪ひいちゃいますよ?」
「いやぁ、タオルを取りに奥に引っ込もうとしたら、夢子ちゃんの声が聞こえたものだから」
「はいはい、言い訳しないで行ってくる!」
「夢子ちゃん、『はい』は一回だよ」
「はいはい」
普段は『はいはい』を注意される側である楓太は、夢子の返しにわずかに頬を膨らませながらも夢子の指定席であるカウンターに水のグラスを置いてくれる。だがふと何かに気付いたのか、少し意地悪そうな笑みを口元に浮かべるとサラリと夢子を流し見た。
「じゃあ僕、奥でちょっと着替えてくるけど、僕が奥に引っ込んだからって、勝手に帰らないでよ?」
ビシッ! と夢子に指を突き付けた楓太は、身を翻しながら意地悪そうな笑みを顔中に広げる。
「今日の夢子ちゃんは、何かに悩んでいたからここに来たんでしょう? 僕にはお見通しだからね」
「え……っ」
「欝々してるから、それを吐き出したくて来たんでしょ? 聴いてあげるから、絶対帰らないでよね」
「へっ、え……っ!? べっ、別に愚痴を聞かせるために来たわけじゃ……っ!」
「いいのいいの、僕が夢子ちゃんの悩みや愚痴を聞きたいだけだから」
驚く夢子に『してやったり』という表情を浮かべた楓太は、ちょんっと親指・中指・薬指を合わせたお狐様サインを向ける。
「『話す は 離す』を実践してくれる夢子ちゃんを、お稲荷さんは嬉しく思いますよ?」
そう言い残した楓太は、思わぬ指摘に焦る夢子を残してのれんの向こうに消えてしまった。まだ席にもつけていなかった夢子は、数秒そのまま固まってから思わず自分のほっぺをつねる。
「……私、そんな欝々とした顔、してた?」
──いや、気分転換に雑談できたらなぁとか、こういう気分の時はちょっと楓太さんと話したいなぁとかは思っていたけれど……。ほんと、お悩み相談をしたり、愚痴を聞かせるために来たわけじゃ……、あれ? でも言われてみれば、何かこう、前に卒論のテーマを閃いた時のような劇的なものを求めていたっていう気分もしないでもないような……。あれ? 私、もしかして本当は、楓太さんにお悩み相談がしたかったの?
いや、ほんとはどうなんだろう?
自分でさえ自覚できていなかった内心を言い当てられた動揺を抑えきれない夢子の向こうで、霧雨がお天気雨……『狐の嫁入り』に変わっていく。もしかしたら今日は、岐阜の町に虹がかかるかもしれない。
狐、……お稲荷さん。
そう、ここの残念なイケメンズボラ店主は、ただの『残念なイケメンズボラ店主』ではない。
『この町のお稲荷さんでいたい』と語り、実際に頼られれば事件を解決してしまう、不思議な店主なのだ。
実際にそんな店主の世話になったことがある夢子は、騒ぐ心を無理やり押さえつけると、ひとまず自分のために用意された席に腰を落ち着けたのであった。