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伊奈波神社の門前町……とは名ばかりの住宅街の中に、忽然とその店は姿を現す。
「こっ、こんにちは!」
看板が出ていないから、パッと見ただけでは店なのか個人宅なのかも分からない。
だが己の記憶が正しければここで間違いないはずだ、と己を鼓舞して、夢子は古民家の扉の引き戸を開いた。
薄暗い店内は間口が狭くて奥へ長く、右手にはカウンター、左手にはテーブル席。何の心境の変化なのか、坪庭の目隠しが外されていて、セイタカアワダチソウにもっさりと占拠された庭が入口から見えるようになっていた。前回訪れた時よりも冷房は控えめで、坪庭から入ってくる光のお陰なのか薄暗いなりに前回よりも採光は良くなっている。
「やぁ、夢子ちゃん。いらっしゃい」
そんな店の奥から、今日もカッコカッコと独特な足音を響かせながら楓太は姿を現した。無事にこの和カフェへ再来店できたことに、夢子はホッと安堵の息を吐く。
「楓太さん、ここ、分かり辛いですよ……。せめて看板くらい出してください。3周くらいグルグル回っちゃいましたよ」
「そんなに分かりにくい?」
「分かり辛いですよぉっ! ホームページもないし、地図アプリにもヒットしなかったんですからぁっ!」
そもそも店名を知らなかったからうまく検索できなかっただけなのかもしれないが、ズボラな楓太がホームページ開設などというマメなことをしているとも思えない。そう思ってカマをかければ、楓太は何とも言えない笑みを浮かべた。どうやら図星であるらしい。
「あ、ごめんなさい。別に、文句を言いたくて来たわけじゃないんですけど……」
そんな楓太を見て、夢子は楓太と顔を合わせてから文句しか言っていないことに気付く。
確かにここまで来るのにえらく手間がかかってしまったが、別に楓太に呼ばれてやってきたわけではなく夢子が自主的にここへ来たくて来たのだから、そのことに文句を言うのはお門違いだ。
「いえいえ。僕の方も、お客様を立たせたままでごめんね。こちらへどうぞ」
今日もイケメン対応で爽やかな笑みを見せた楓太は、コンコンッと指の背で自分の前のカウンター席を叩く。
──首元が伸びたTシャツじゃなくて、ぜひとも色の濃い着流しを着ていてほしかったです……。それが無理なら、せめて作務衣とか甚平とか……
そんな思いに苦笑を浮かべながら、夢子は素直に示された席に座った。今日も楓太は某有名ビールメーカーのプリントがうっすらと入ったグラスで水を出してくれる。キンと冷えた水は、適当なグラスで出されてもやっぱり美味しい。
「あの……、この間は、理由の説明もしないで急に帰っちゃって、すみませんでした」
喉を潤すとともに体の熱気も鎮めた夢子は、心持ち姿勢を正すと楓太に小さく頭を下げた。そんな夢子に楓太は穏やかに笑みかける。
「卒論のテーマが見つかったから、閃きが逃げないうちに形にしたかったんでしょう?」
どうだったの? ゼミ、と楓太は小首を傾げて続けた。
「大学帰りなんでしょ、今日。テーマ発表を終えて、すぐに来てくれたんじゃない?」
「っ!? どうしてそのことを……っ!? ……じゃなくて。気になるんですけど、そこじゃなくてっ!」
一瞬楓太の言葉に今日の本題を吹き飛ばされかけた夢子だったが、話が脱線してはマズいと慌てて己を引き戻す。大学帰り、おまけに道に迷っていたせいで、もう閉店時間まで30分を切っている。あまり長居をしては店終いをする楓太に迷惑だろう。
夢子は一度深呼吸をすると、通学鞄の中から1枚紙を引き抜いた。パソコンで打ち出した文字が並ぶプリントは、夢子が今日のゼミのために用意した卒論テーマ発表用のレジュメである。
タイトルは『金華山における景観問題について』。プリントされた文字の隙間に夢子の手書き文字で『その周辺』と書き足しがされている。
そのレジュメを手に取った楓太は、浮かべていた笑みをさらに深めた。
「教授からゴーサインをもらえたんだね」
「はいっ! 私の卒論のテーマは『金華山とその周辺における景観問題について』に決まりましたっ!」
『金華山の周辺には、岐阜城を始めとし、籠大仏で有名な正法寺や、由緒ある神社仏閣、また金華山山麓の岐阜公園では織田信長の居館跡が発掘されるなど、歴史的な建築物やその遺構が集まっています』
夢子は楓太と別れた後、岐阜公園を始めとする金華山周辺を徹底的に走り回った。その時に撮り溜めた写真でスライドを作り、このレジュメとともにゼミに乗り込んだのだ。
『しかし、その史跡への景観的配慮は十分とは言えません。一例として、金華山及びその隣の水道山を横切る鉄塔群、岐阜公園周辺から岐阜城を見上げた際、映り込んでしまう電線、また周辺建築物の目立つカラーリングや広告が上げられます』
夢子に閃きを与えてくれたのは、伊奈波神社の御神域の向こうにニョッキリ生えた鉄塔だった。あれさえなければ、というか規制的にどうなんだ、という不満が『問題点』に気付かせてくれた。
『これらの問題へのアプローチは、単に景観問題に留まるだけではなく、観光資源の有効活用にも繋がるのではないでしょうか。私はこの問題を提起することにより、より岐阜の魅力を生かす道を探りたいと思います』
「……なるほど。伊奈波さんが夢子ちゃんに力を貸してくれたんだね」
レジュメに目を通し、夢子の話に耳を傾けた楓太が柔らかく話を結ぶ。その温かさが嬉しくて、思わず夢子は口元をへにょっと笑みの形に崩した。
「楓太さんのお陰でも、ありますよ?」
「僕?」
「そうです。……あの時、楓太さんに助けてもらわなかったら、私が伊奈波神社へ行くこともなくて。翁様に出会うこともなくて。……それがなかったら私、このテーマに出会えなかったと思うから」
そして楓太の『話すは離す』という言葉がなかったら、夢子は今でも悶々と悩みを抱え続けていたかもしれない。
あの時は楓太の『お稲荷さん』発言に若干引いてしまったけれど。
「ありがとうございました。……楓太さんは、私の悩みを解決してくれた『頼れる神様』です」
思い切って伝えて、楓太を見上げる。
いつものように涼やかに笑っているとばかり思っていた楓太は、予想とは違った表情を浮かべていた。
目を丸くした顔は、笑みというよりも驚きに近い。だがそんな表情はすぐに笑みに崩れた。……涼やかさを感じるイケメンな笑みではなくて、心底嬉しくて仕方がないといった、とろけるような笑みに。
「どういたしまして」
その笑みに、夢子の心臓が、初夏の熱さとは違うものに跳ねる。
顔が熱いのはきっと、冷房の効きが弱いせい。深く透き通った漆黒の瞳から目をそらせないのは、単に楓太の瞳が綺麗だから。
「夢子ちゃんの願いが叶ったなら、もしかして僕のお願いも叶うかもしれないよね」
そう必死に言い聞かせていた夢子は、続いた楓太の言葉にハッと我に返った。慌てて水のグラスを手に取って中身を流し込めば、勢いが良すぎてちょっと鼻にまで水が入ってしまう。
「ゴフッ……! ……ふ、楓太さん、結局あの時、何をお願いしたんですか? ……あ。訊いちゃダメなんでしたっけ?」
「んー……毎日のようにお願いしてるんだけど、一向に叶えてもらえないし、案外教えちゃった方が叶うものなのかな?」
むせながらもなんとか平静を装って楓太に言葉を向ける。
そんな夢子にお稲荷さんスマイルを向けた楓太は、とんでもないことをサラッと告げた。
「早く店名が決まりますようにって、お願いしたんだ」
「……え?」
「いや、あのね。全然いい店名が思いつかないんだ」
ずっと名無し営業なんだよね、ここの店。
そんなことをサラリと言い放った楓太に、思わず夢子は手からグラスを取り落す。スコン、と垂直に落ちたグラスは、カタカタカタカタと微かな音を立てながら綺麗に着地を決めた。
「はいっ!?」
看板云々の前に、看板に書く内容が決まっていない。ホームページを作る前に、ホームページのタイトルが決まらない。地図アプリに登録しようにも、まず店名が決まっていない。
というよりも。
「営業許可とか法律的なことはどーなってるんですかっ!?」
「…………え?」
「えええええええええええええええっ!?」
名無しの和カフェ(仮)……のちに夢子によって『ふなば』と名付けられ、プロデュースされていく店とその店主は、こうして夢子と縁を結んだのだった。