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『岐阜』と聞くと県外の人が真っ先に思い浮かべるのは、高山とか白川郷とか、山奥の『岐阜』であるらしい。それが夢子には、ちょっと不満だ。
だって、岐阜市は美しい。
東、北、西の三方を山に囲まれた中を、長良川が滔々と流れゆく景色を金華山山頂にある岐阜城から眺めれば、きっと誰もが夢子の言葉に納得してくれると思う。
晴れれば青空と山と町のコントラストが美しく、雨が降れば雲に煙る山々が山水画のような景色を作り出す。
そんな景色を一望できる場所に、伊奈波神社の拝殿はある。神門の前に立って眼下を振り返れば、誰もがその景色に見とれるはずだ。
「……さて」
その景色を前にして、楓太は小さく声をこぼした。
左手には夢子からせしめた500円玉。その500円玉が楓太の親指に弾かれてピーンッ、ピーンッと澄んだ音を奏でながら宙を舞っては再び楓太の左手に落ちてくる。キラキラと差し込む光を反射させる様は、まるで500円玉そのものが光を放っているかのようだった。
そんな楓太を後ろから眺める位置に陣取った夢子は、雄大な景色と一体になった楓太の姿を腕に抱えた翁様と一緒になって見つめていた。大人しく夢子の腕に収まっている翁様は、隠れ家から引っ張り出してきたジャム瓶を抱えている。楓太が纏う雰囲気を変えたことに気付いたのか、翁様も先程から口を開くことなく楓太の後ろ姿を見つめていた。
石段の際々に不安定な下駄のまま立った楓太は、伏せていた目を静かに上げた。その動きに制されたかのように、今まで神門から吹き下ろすように吹いていた風が、不意に消える。
「始めますか」
楓太の手の中に戻ってきた500円玉が一際強く弾かれる。鋭い音を奏でながら弾かれた500円玉は、楓太の頭上を軽々飛び越えると空に吸い込まれていくのではないかと思えるくらい高く舞い上がった。その帰りを待つことなく両腕を広げた楓太は、真っ直ぐに前を見据えたまま鋭く両手を打ち鳴らす。
柏手。
人がヒトという器を得てからともにあった、最も単純で最も強力な神音。パンッと鋭く広がった柏手の音は、広がるのと同じくらい素早く楓太の元に返ってくる。
その音の波の中に、宙を舞っていた500円玉が落ちてくる。柏手が起こした波に触れた500円玉は、ユラリと輪郭を揺らすと光の粒に姿を変えて波とともに楓太の眼前に広がった。
「御柱名代『楓』の名において 黒龍の大神にかしこみかしこみ申す」
口をつぐんだまま目を見開くことしかできない夢子の前で、楓太はよく通る涼やかな声を張る。まるでその声が起こす『波』にさらわれたかのように、楓太の目の前を舞う光の粒子がユラリ、ユラリと広場の上空を舞っていく。
「今一度黒龍の大神の御力を以て 天駆ける天の恵みをもたらし給え」
光の波はユラリユラリとたゆたったかと思うと、フワリと広場の左手に……黒龍社がある辺りに吸い込まれていった。凜と空気が研ぎ澄まされ、ユルリと何か大きな気配がうごめく感覚が夢子にまで伝わってくる。
「……というか黒龍さん、事の原因はあなたの気まぐれな散歩のせいです。責任持って出てきてくださいっ!」
──って、楓太さんっ!?
だというのに、その空気を作り出した本人である楓太が厳かな空気をぶち壊した。
おまけにその言葉に怒りを露わにしたかのように、光が吸い込まれていった黒龍社の辺りから発生するはずのない水柱が勢いよく噴き上がる。
「っ……!!」
思わず夢子は翁様を抱えたまま必死に神門の奥へ身を引いた。そんな夢子に追い討ちをかけるかのように水柱が割れ、巨大な水塊がいくつも周囲に落ちてくる。
明らかに『普通に生きていたら遭遇するはずがない』ことに夢子は息まで止めて体を強ばらせた。恐怖に駆り立てられた心臓は勝手に鼓動を上げ、逆に全身からはザッと血の気が引いていく。ガタガタと震える体が止まらない。
だが夢子を恐怖から解放してくれたのも、また目の前で起こっている怪異だった。
ザァッと柔らかな風が吹き、水塊が水滴に姿を変えていく。その向こうに、七色に輝く何かがうねった。
──あれは……
言葉もなく目を見開く夢子の前、神域の広場を埋め尽くすように広がったうねりは、優雅に身をくねらせると楓太へ顔を向けた。
それは、龍だった。
黒い体に七色に輝く鱗をまとった、優雅で美しくて、圧倒的に強大な龍。金に輝く大きな瞳は瞳孔が縦に裂けていて、昼間の猫の瞳のようだと夢子は思う。
翁様を腕に抱えたまま言葉もなく立ち尽くす夢子に、一瞬だけ龍の金眼が向けられる。
──あ……
その瞳に、一瞬柔らかな笑みのような、夢子がイメージする『龍』よりも温かな光を感じた瞬間、龍は楓太に視線を向けていた。そんな龍に、楓太は静かに左手を伸ばす。額に置かれた楓太の手を静かに受け入れた龍は、楓太の手に身をゆだねるかのようにゆったりと瞳を閉じる。穏やかな空気を纏う龍は、まるで楓太の手から流れ込む思いを読み解いているかのようだった。
──言葉がないのに、楓太さんと龍神様が、会話してるのが分かる……
緩く吹き抜ける風に水滴が散る。その水滴によって散らされた光がキラキラとさらに龍神の七色の鱗をきらめかせた。そんな中でゆったりと瞳を閉じて心地良さそうにしている龍神と、龍神に手を添えたまま瞳を伏せる楓太の姿は、それだけでとても美しくて。
夢子は、瞳を吸いつけられたかのようにその光景から目をそらすことができなかった。
そんな時間は、ほんの数秒だったのか、あるいは数分のことだったのか。
不意にフッと龍神が瞳を開く。それにあわせて楓太も手を引くと一歩後ろへ下がった。
そんな楓太に礼を言うかのように一度体をくねらせた龍神は弾みを付けたかのように勢いよく天へ昇っていく。そんな龍神に追従するかのように、周囲を舞っていた水滴が空気を震わせながら舞い上がった。
「え……」
「夢子ちゃん、下がって!」
思わず夢子はその行き先を追おうと一歩前へ出る。だが駆け寄ってきた楓太はそんな夢子を慌てて軒下に押し込んだ。え、と夢子が再び間抜けな声を上げた瞬間、今まで鋭く差し込んでいた光がスッといきなり鳴りをひそめる。
「へ……っ!?」
代わりに大気を震わせながら降ってきたのは、バケツをひっくり返したような大雨だった。本当にこの周囲にだけ空から水をぶちまけられたんじゃないかと思うくらいの勢いで降り始めた雨は、空の下にいる人間の都合などお構いなく全てを祓い清めていく。
「わわわっ!?」
「大丈夫。黒龍さんの道行きの露払いだから。この雨は、黒龍さんが行く道を雨で祓い清めてるんだ」
だからすぐやむよ、と楓太は空を見上げて微笑む。そんな楓太はあれだけ水滴が暴れ回っていた中にいたというのにまったく濡れていないようだった。軒下にいた夢子はこの『露払い』とやらで靴やジーンズの裾を湿気らせてしまったというのに、なんだか理不尽だ。
そのことをどう口に出して訴えようかと思った瞬間、スッと雨音が遠くなっていく。どうやら本当に楓太が言う通りに雨が上がるらしい。
夢子は翁様を抱き締めたまま空をふりあおいだ。サァッと吹き抜ける爽やかな風に押し流されて、土砂降りの雨を降らせた雨雲が夢子達の頭上から払われていく。いくつもの光の柱が町に降り注ぎ、色を失っていた町にキラキラと澄んだ欠片を撒き散らす。
「……あ!」
その中に鮮やかな彩りを見つけた夢子は思わず声を上げた。
「すごい……」
流れていく雲の白と、顔を出し始めた空の青。チマチマと並ぶ町の灰色と、背後にたたずむ山の黒みを帯びた緑。
そんな景色を背景に、夢子達の頭上を横切って、大きな虹が空一杯にかかっていた。
「こんなにすごい虹、初めて見ました……!!」
「実はこれだけじゃ終わらないんだよね、この虹」
「え?」
感嘆の声を上げていた夢子は、聞こえてきた楓太の声に思わず視線を引き戻す。そんな夢子の隣に立った楓太は、口元に淡く笑みを浮かべて頭上の虹を見上げていた。
「なんせ黒龍さんが掛けた虹だから。時々、『素敵な宝物』が落ちてくるんだ」
「え……?」
「普段は空に溶けて消えてしまうモノなんだけど、今回はたまたま翁様が拾ったから、しばらく形を留めていたんだろうね。……ということは、『失くした』というよりは『消えちゃった』って言った方が正しいのかも」
「えっ、え? 楓太さん、それってどういう……!?」
意味が分からないまま取り残された夢子を放置して、楓太はスタスタと軒下から出ていく。その手の中にいつの間にか翁様の宝の瓶があることに気付いた夢子は、思わず楓太と翁様の間に何往復も視線を送ってしまった。
そんな夢子の視線の先で、楓太は宙に向かって瓶を差し出す。そのことに気付いた夢子は、楓太に視線を止めると瓶を伝うように上へ視線を走らせた。
その視線を導にしたかのように、空から何かが落ちてくる。
「! ……──」
キラキラしていて、透き通っていて、七色輝いているそれは、まるで自ら吸い込まれるかのように楓太が掲げる瓶の中に納まった。
息を詰めて見守る夢子達の前で瓶を大切そうに抱えた楓太は、二人を振り返るとニッコリと笑った。
「はい、翁様。今度はなくしちゃダメですよ」
差し出された瓶の中には、空から降ってきた時の煌めきをそのまま宿した小さな欠片が入っていた。水晶の欠片のように透き通っていながらユラユラと七色に色を変える欠片は、魚の鱗を大きくしたような形をしている。
──黒龍さんの道行の後に落ちてきた欠片……もしかして、翁様の『素敵な拾い物』にして『失くし物』って……っ!!
「黒龍さんの鱗が虹を吸い込んで結晶化したものなんだ。虹は、龍が掛けるものだから」
「鱗……虹の、欠片……?」
「翁様がプリズムに反応したことから、翁様の『失くし物』が虹の欠片だって分かったんだ。でも虹の欠片が地上まで落ちてくるなんて滅多にない。何か強い力を持ったモノを依代にしないとね」
その言葉を聞いて、夢子はふと胸につかえていたモヤモヤの正体に気付いた。
楼門をくぐる前、夢子の胸を占めていたモヤモヤ。
キラキラしていて、透き通っていて、でも七色に輝くモノ。
夢子はそれに心当たりがあるような気がしてモヤモヤしていた。『不思議なモノ』に縁のない自分には多分分からないモノなのだろうと勝手に思い込んでいたが、答えは夢子の知っている世界にもあるものだったのだ。
「龍が関わっていようといなかろうと、とりあえず虹が掛かるには急な雨が必要だから、夢子ちゃんにお天気を調べてもらったんだ。そしたらこの辺りにだけ予想外に降った急な雨だって話だったでしょ? これはもう黒龍さんの仕業に違いないし、黒龍さんが落としていった鱗なら、虹を吸い上げてしばらく形を留めておくこともできるだろうなって思ったんだ。だから黒龍さんに協力してもらって、もう一度鱗を落してもらったんだよ」
──いや、協力してもらったって……
黒龍社の御祭神は伊奈波神社がここに移される前からこの場所に祀られていたとされる古い神だ。その御神徳の絶大さはその手の話に疎い夢子でさえ知っている。
『そんな黒龍さんをご近所さんに頼み事をするかのごとく気軽に呼び出すとは何事か』とか『そもそも神様を簡単に呼び出せるなんてあなたは何者ですか』とかいう言葉が夢子の胸中に渦巻く。
が、何より一番ツッコミたいのは……
──私が一番知りたいのは翁様の正体なんですけどっ!! 私が揉みしだいちゃってたあのマスコット(仮)は一体何者だったんですかっ!? 私、祟られちゃったりしませんかっ!?
「いやー、『やっと』って感じではあるけど、無事に翁様の相談事を解決できて良かったよー」
だが聡いはずである楓太は、あえてなのか天然のなのか、夢子の内心を一切読まずに呑気にその場で伸びをした。楓太に向ける言葉の糸口さえ見付けられなまま口をパクパクさせていた夢子は、そんな楓太の姿に思わず毒気を抜かれてしまう。
「さて。遅くはなったけれど、御祭神様にご挨拶しようか。事件解決のお礼もかねて」
「……楓太さん、もう小銭、ないって言ってませんでした?」
「ん? ……まぁ、さっき放り投げちゃった5円をお賽銭としてカウントしてもうってことでいいんじゃないかな?」
「てっ……適当……!!」
「大丈夫だよ、夢子ちゃん。こういう時に大切なのは『気持ち』だから」
ニッコリとお稲荷様スマイルを浮かべた楓太はさっさと拝殿の方へ向き直る。
もう何から突っ込んだらいいかも分からず、一周回ってすべてがどうでも良くなってしまった夢子も、溜め息をつきながらそんな楓太に倣った。
お賽銭を投げないまま真剣な面持ちで威儀を正す楓太を尻目に、夢子は改めてお財布から1円玉を取り出すとそっとお賽銭箱の中に投げ入れる。
二礼、二拍手。
特に計ったわけでもないのに、楓太とピタリと動きが揃った。
──思いがけないことが続いて忘れちゃってたけど、そもそも私、卒論のテーマを見つけるために家を出てきたんだっけ……
少し頭を下げながら両手を合わせた夢子は、事の発端を思い出しながらチラリと楓太を盗み見た。さぞやイケメンらしくクールにお願い事をしているんだろうなと思っていた楓太は、残念なくらい眉間に皺を寄せて何やら必死に願掛けをしている。
──あ。お稲荷さん設定でも、願掛けは必死にするんだ。
そんな楓太に、思わずクスッと笑いが零れた。そんな自分の笑い声で自分自身の心がちょっと軽くなるから不思議だ。
夢子は静かに目を閉じると、心の中で願いを紡ぐ。
──翁様の相談事が無事に解決できて良かったです。ありがとうございました。同じように、どうか私の卒論にも、力を貸してください……
願掛けの言葉の後も少しだけ目を閉じたまま、神門の向こうへ思いを馳せる。その後静かに目を開いて一礼を結ぶと、先にお祈りを終えていた楓太が夢子に視線を向けていた。
「楓太さん、すごく必死に祈ってましたけど、何をお願いしてたんです? 楓太さん自身がお稲荷さんなのに」
そんな楓太を見つめ返し、夢子は意地悪く笑う。
だがそんな夢子にも楓太の涼やかな笑みは崩れない。
「お願い事は口に出すと効力がなくなっちゃうんだ。切実なお願いほど、心に秘めておかなきゃね」
「ふーん……そんなもんなんですか」
「そんなもんなんです」
軽やかに答えた楓太は夢子から神門の向こうへ視線を移した。その視線の先を追って夢子も風格のある拝殿へ視線を向ける。
──楓太さんがそういうこと言うと、本当にそうなのか、言葉をかわすための方便なのかも分からないんだよなぁ……
そんなことを思いながら、夢子はぼんやりと神門の向こうの景色を眺めた。
開いた神門を額縁、後ろに迫る山を背景にどっしりと構えられた拝殿は、ただそこにあるだけで厳かだった。この景色だけはきっと、どれだけ時代が進んでも変わることはないのだろう。
──きっと、何百年も前から変わってない光景……って、うん?
ふと、自分の視界と心の中に流れていたナレーションとの不一致に気付いた夢子は、はたはたと目を瞬かせると、もう一度注意深く景色を見つめた。
注視すべきは山の稜線。山が空を切り取るラインに、何だか無粋なシルエットが見えたような……
──……やっぱり。こう、拝もうと思って視線を向けると、どうしてもあのアンテナが視界に入る。
夢子の気を削いだのは、山の稜線からはみ出した鉄塔だった。どうやら送電用ではないらしく、ドーナツを重ねたような独特の形をしている。
──んもぅ! 御神域だってのに、建設当時に誰も反対しなかったわけ!? 京都とかだと景観条例とかあって色々規制がかかるのに……
「……あ!」
そんなことを思った瞬間。
不意に、夢子の脳裏に閃いたものがった。
「ん? どうしたの、夢子ちゃ……」
「見つかった!!」
「え?」
「すみません、楓太さん! 私、これで失礼しますっ!!」
「え、ちょっ……夢子ちゃんっ!?」
「願掛け、叶いました!」
楓太に一礼して返事も聞かずに石段を駆け下りた夢子は、神門前に取り残されたまま慌てる楓太を振り返ると弾けるような笑顔を浮かべた。
こんな風に笑えたのは、一体いつぶりなんだろう。これもきっと、伊奈波神社と黒龍社の御神徳に間違いない。
「私の卒論テーマは、これにしますっ!!」
その笑顔のまま、夢子は拝殿の向こうにある山並みを指さした。