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『伊奈波さん』という愛称で親しまれている伊奈波神社は、美濃国三宮であるらしい。
元々は金華山の中腹にあった神社なのだが、かの戦国大名・斎藤道三が金華山山頂に稲葉山城……のちに織田信長によって『岐阜城』と改名されることになる城を築く時、『神の御社を人間の城より下に置く訳にはいかない』という理由でグルリと山裾を回った今の場所に移動させたという話が伝わっている神社だ。
社伝によれば、その歴史は1900年余り。
御祭神は古の皇族で御名を五十瓊敷入彦命と申し上げ、第十一代垂仁天皇の御長男、第十二代景行天皇の兄君にあたる方である。
「……という話を、今更スマホで調べて知った私って……」
伊奈波神社の入口、善光寺さんが本堂を置く隣に立った夢子は、大きな石造りの鳥居を見上げて呟いた。
「物心つく前から毎年初詣は伊奈波さんだったけど、そんな由緒正しい神社だとは知らなかった……」
「この辺りの人の初詣は、伊奈波さんかおちょぼさんが人気だもんね。御縁起を知った上で願掛けをした方がお願いも届きやすくなるし、身近な神社の御祭神様のことや歴史のことは、知っていて損にはならないよ」
そんな夢子の隣に立った楓太は、夢子に変わらない微笑を向ける。どうやら楓太にとって夢子が今知ったことは『知っていて当然のこと』であったらしい。
ちなみに夢子は毎年の初詣だけではなく、お宮参りも七五三も厄年の御祓いもずっと伊奈波さんで行っているはずなのだが、御祭神が皇孫系であったことさえ今の今まで知らなかった。楓太が上げたおちょぼさん……日本三大稲荷の一角である千代保稲荷神社のことも、もちろん詳しいことは一切知らない。
──帰ったら、ちょっと勉強しよ。
楓太の言葉に思わず『ぬぐっ』と呻いてしまった夢子である。……いや、別に御利益を求めている訳ではないのだが。
──お願いする相手のことを何も知らないくせに身勝手にお願いばっかり押し付けるのも、何だか失礼な気がするもんね。
そんなことを思う夢子の隣に立った楓太も、夢子と同じように大鳥居を見上げている。
夢子が伊奈波神社へ行く決意を伝えると、楓太も店を閉めて夢子と翁様に着いてきてくれた。翁様と二人で行くつもりだった夢子はそんな楓太を慌てて止めたのだが、『今日はもうどうせ開店休業状態だし』という何やらさっきも聞いたような気がする言葉に押しきられ、結局三人でくることになってしまった。『事件が早く解決すればまた店に戻るよ』と楓太は言っていたし、夢子としてはますます早く事件を解決したい所である。
そんな決意も合わせて胸に抱く夢子を知ってか知らずか、楓太は視線を夢子に戻すと穏やかに言葉を紡いだ。
「さて。本来ならきちんと上まで上がって御祭神様にご挨拶申し上げてから探索に取り掛かりたいところだけど、上まで上がると結構あるし、体力はなるべく温存したいからね。無礼を承知で、翁様の歩いたルートを逆向きに辿りながら上を目指そうか」
「はい!」
元気に答えた夢子は楓太の腕に抱えられた翁様に視線を落とした。そうやって誰かの腕に抱えられていると、ますます翁様がぬいぐるみかマスコットのように見えてくる。
「失くし物に気付いたのは、善光寺さんの軒下に着いた時だったんですよね? どの辺りですか?」
「ちょうどその辺りじゃ」
翁様はピョンッと楓太の腕から飛び出るとピョコピョコと善光寺へ跳ね寄った。
伊奈波神社の参道にいる夢子達の横には、善光寺の本堂へ上がる急な階段が伸びている。こちらの階段は横手から直接本堂に上がる階段だから、感覚的に言うと裏参道的なものだろうか。まず善光寺に参ってから伊奈波神社に上がる参拝客は、正面から緩やかな階段を上って善光寺にお参りをして、この階段を降りて伊奈波神社の大鳥居をくぐることが多い。
「ここじゃ、ここじゃ」
翁様が示したのは、そんな階段の横手、伊奈波神社の参道側から見ると坂上に当たる角だった。なるほど、そこなら参拝客に間違って蹴り飛ばされる心配もないだろう。
ひとまずその周囲の地面を見回してみた夢子は、鞄の中からペンライトを取り出すと周囲の地面を照らしてみた。だがまだ日の高い時間帯にそんなことをしてみても、特に目立った変化は見られない。
「夢子ちゃん、何してるの?」
「失くし物がキラキラした物なら、強い光を当てたらきっと輝きますよね? 地面とは違う輝きを探せば、目印がない地面を探すよりも目星がつけやすいんじゃないかなって思ったんです」
階段の角隅や、少し離れた茂みにまでペンライトを向けていた夢子は、一度ペンライトのスイッチを切るとヒラヒラとペンライトを振ってみせた。
「うちの車庫、夜は鍵穴が見つけにくくて。その時用にいつもペンライトを持ち歩いているんです。前はスマホのライトを使っていたんですけど、充電を切らした時に大変だったから」
「なるほど。賢いね」
ペンライトを持ち歩いていることを褒められたのか、今の探索方法を褒められたのかは分からない。だけど、楓太に褒められるのは何だか誇らしかった。
──頭のいい人に褒めてもらえるの、こんなに嬉しいことだったんだ……
「さ! サクサク進めましょう! 翁様、ここへたどり着くまで、どんな風に歩いてきたんですか?」
へにょっと笑み崩れる口元を意図して引き締めながら夢子は翁様に向き直った。そんな夢子に楓太が笑みを深めたのが分かったが、その笑顔を直視するのは何だか恥ずかしくて夢子は意図的に楓太を視界から締め出す。
「ここの道沿いの茂みを、ずっと進んできたのじゃ」
夢子の言葉を受けた翁様はピョコピョコと跳ねるように参道の際を進み始める。再びペンライトをつけた夢子は、翁様が歩く周囲をペンライトで照らしながらゆっくりと歩を進めた。さらにその後ろに楓太が続く。
伊奈波神社の拝殿は、緩やかな坂と急な石段を上った上にある。参道を歩いている時はあまり上っている感覚がないのだが、拝殿前から参道を振り返ってみると岐阜市街を一望することができるから、多分夢子が思っている以上に拝殿の標高は高いのだろう。
参道の左右は深い山の緑に包まれていて、時折茶室や休憩所、駐車場や末社・摂社へ続く脇道がポコポコと現れる。翁様が進む沿道左手側は茶室や休憩所、さらに登れば大きな参集殿や、お守りやお札を取り扱う社務所があるエリアだ。
「娘子の手の中から降ってくる光は、まるで柱のようじゃの」
石垣と、日々緑を濃くしていく草木の間をちょこちょこと進んでいた翁様が、不意に夢子を振り返って目を細めた。
「わしはよく拝殿の屋根から町を見下ろしておるのだが、時折こんな風に光の柱が降りている所を見かけるぞ」
「あ! それ、私もここから見たことがあります! 『天使のはしご』って言うらしいですよ」
翁様の言葉に、夢子は思わず声を弾ませた。
分厚い雲の切れ間から光が柱のように降り注ぐ現象を『薄明光線』と呼ぶ。『天使のはしご』はその俗称だ。
本来ならば朝方や夕方、日が傾いている時間帯によく見られる現象らしいのだが、ここの拝殿前から町を眺めるとまだ日の高い時間帯でも『天使のはしご』に遭遇できることがある。
西に連なる伊吹山や養老山脈を背景に、薄く曇った町にサッと光のはしごが降りている様はとても神秘的で、眺めているだけで心が洗われるような光景だ。
「そのはしごと一緒に、『素敵なモノ』は落ちてきたのだ」
昔自分が見た光景を思い出して和んでいた夢子は、翁様の口から飛び出た言葉に慌てて意識を引き戻した。
「え? 一緒にって、空からその『素敵なモノ』は落ちてきたんですか?」
「いかにもいかにも。その時、拝殿の屋根の上に宝の瓶を運び上げていたのは実に僥倖であったわ。わしはその瓶を掲げて、その中に空から落ちてきた『素敵なモノ』を受け止めたのだから」
──落ちてきた? 空から?
想像もしていなかった言葉に、夢子は思わず楓太へ視線を投げた。楓太も今の言葉は初耳だったのか、大きく目を見開いて驚きを露わにしている。
「翁様、僕と一緒に探していた時はそんなこと一言も教えてくれなかったじゃないですか」
「そうだったかのぉ? 楓のはわしの話を適当に聞き流してしまうからの。しっかり話を聴いてくれる娘子には、わしも話す気が向いたのやもしれん」
その言葉に、思わず楓太と夢子は揃って眉間に皺を刻んだ。
──自分から失せ物探しをお願いしておいて、その発言はさすがにないんじゃ……
期せず内心を重ねた夢子と楓太は、言葉もなく参道を登っていく。ゆるく微かな左カーブを描く石畳の坂道は徐々に傾斜角を上げていて、登るのは地味にきつい。参集殿前にある二の鳥居の前まで来た時、夢子は肩で息をしていた。
「そ、そんなに登ってるつもりないのに、結構、しんどいですよね……っ!?」
「ここまででも、随分上がってるからね」
そう答えたくせに、当の楓太は息を乱すどころか汗のひとつさえかいていない。足元は安定性の悪い下駄であるくせに、まるで店の中を歩いているかのように身のこなしは軽やかだ。
──くそぉ! ズボラな癖に、そんな所はイケメン補正を効かせてくるんだからぁっ!!
「なんじゃ娘子! これごときでバテるとは情けないっ!!」
左手に続いていた石垣と緑は、社務所と参集殿の出現を受けて一度途切れる。
人の出入りが激しい場所をどうやって切り抜けるのかと視線を落とせば、翁様は不意にピョンピョンピョーンッと参道の真ん中に躍り出た。いきなり跳ねた体に『え、』と夢子が目を瞬かせている間にもうひとつ鳥居を潜り抜けた翁様は、立ち入り禁止の木枠を飛び越え、意気揚々と鳥居と楼門を結ぶ丸いお太鼓橋……神橋を渡っていく。
「ちょっ……ちょっと翁様っ!?」
「わしはこんなにも元気なのだぞ娘子! お前さんも見習うといいっ!!」
「そ、そういうことじゃなくて……っ!!」
神橋は、その名の通り神様がお通りになる橋。だから参拝客が通れないように通行止めの柵を設けている神社も多いと聞く。
──い、いくら翁様がヒトじゃなくても、これは……っ!!
「まぁ、あの上を確かめることは、僕達じゃ無理だよね」
夢子が何に焦っているのかもお見通しのくせに微妙にポイントがずれたコメントを述べた楓太は、元気に神橋を渡っていく翁様に生ぬるい視線を向けていた。
『もうこの件に関しては匙を投げたよ……』という内心が駄々洩れている楓太を見た夢子も、この件に関しては突っ込んでも無駄なのかと早々に翁様をいさめることを諦めた。
「だから僕達は、大人しく回っていこうか」
その言葉に従って、夢子達は左回りに神橋を迂回した。
神橋の下にはお隣にあるお稲荷さんの傍らを流れる小川へ続く小さな池があって、気持ち良さそうに鯉が泳いでいる。一応池の中や周囲、橋桁にも目が届く範囲にはペンライトを向けてみたのだが、輝いて見えるのは参拝客が投げたお賽銭ばかりで翁様の失くし物らしきものはちっとも見つからない。
「楓太さん、どう思いました? 拝殿の屋根の上にいた翁様の上に、空から降ってきた『素敵な物』って……」
神橋を迂回した先には、ちょうど手水舎がある。
手水舎に立ち寄って柄杓を手にした夢子は、翁様が傍を離れた隙にコソッと楓太に問いを投げた。
「拝殿の屋根って、結構高いよね。ガラス片やビー玉が落ちてくるような場所だとは、ちょっと思えないかな」
「カラスとか鳥がたまたまひかり物を落としていった……ってのは、さすがに都合が良すぎますよね」
「完璧にないとは言えないけど……。それよりも、木の実みたいなのが落ちてきたって考える方が自然じゃないかな?」
「でも透き通っていて、七色に輝く木の実なんてあるんでしょうか?」
「それも、ない、とは言い切れないけど……」
柄杓を手にした楓太は、手水鉢から水を掬うと流れるように優雅な所作で両手と口を清めた。
右手に柄杓を持ってまず左手、柄杓を持ち換えて右手。さらに右手に柄杓を持ち直して左手に水を溜めて、左手のお皿溜まった水で口をすすぐ。この一連の動作を柄杓一杯の水で行う。
それくらいは夢子も知っているし、実際にしている所作なのだが、同じことをしているはずである楓太の挙措にはなぜか夢子にはない気品を感じる。
「パッとは思いつかない、ですか?」
そんな楓太を眺めながら、夢子は楓太の言葉を引き継いだ。
最後に柄杓を立てて残った水で柄杓自体も清めた楓太は、視線を伏せたまま夢子の言葉に頷く。
「もしかしたら、普通に落ちてくる物だとは考えない方がいいのかもしれない」
「普通に落ちてくる物?」
「そう。翁様が拾った物は、『常の物』じゃなくて、『常ならざるモノ』だったのかもって」
「? それって、どういう……」
タオルハンカチで手をふきながら夢子は首を傾げる。
だが『おぉい』と呼ぶ声が密談の中に飛び込んできて、楓太はそちらに視線を向けてしまった。
「いつまでそこでそうしておるのだ! 早く行くぞっ!!」
いつの間に神橋を渡り終えていたのか、楼門へ続く階段の下に立った翁様がブンブンと勢い良く手を振っている。何だか翁様は伊奈波神社の境内に足を踏み込んでからやたらと元気だ。
「はいはい、今行きますよ」
「『はい』は一度だ、楓の!」
「はいはい」
そんな翁様に呆れ気味に答えた楓太は、濡れた手を振って乾かしながら手水舎の外へ踏み出す。傍らにある小さな大黒社を素通りした楓太の後ろに続いた夢子は、大黒社に小さく会釈をしてから二人の元へ駆け寄った。その時にはもう翁様は石造りの階段を軽快にピョンピョンと登っている。
「こんなに跳ねてたら、反動で瓶から中身が飛び出ちゃってる可能性、なきにしもあらずですね」
「ここから先は階段が多いし、注意して見ていこうか」
夢子の言葉に楓太も頷く。
そんな楓太に頷き返しながらも、夢子の頭の中ではさっき楓太がこぼした言葉がグルグルと回っていた。
──『常ならざるモノ』ってつまり、『普通にはないモノ』ってことだよね?
そもそも翁様がもう『常ならざるモノ』であるわけだし、そんな翁様の拾い物が『常ならざるモノ』であったとしても確かにおかしくはない。むしろ拝殿の屋根の上にいた翁様のさらに上から降ってきたとなると、そう考えた方がすんなりと納得できる。
──でも、『常ならざるモノ』って、そもそもどんなモノなんだろう?
自慢じゃないが夢子はこの22年、お化けを見たこともなければ神様に出会ったこともない。今日出会った翁様が、初めて見たそういう類の存在だ。
だからお化けや神様といった目に見えない存在は『いた方が世界が広くていい』とは思っているが、実際に見たことはないから具体的に想像することができない。『常ならざる拾いモノ』と言われても、ピンと来るものが何もなかった。
「キラキラしていて、透き通っていて、七色に輝いている……」
ピンとは来ないのだが、なぜか見たことがあるような気がして、その感覚がひどく引っかかる。
まるで出かかった言葉が喉にでも引っかかっているかのような……
「……んー」
そんなモヤモヤを抱えたまま階段を上り終えた夢子は、もやっとした心境のまま楼門の前に立った。立派な造りの楼門を抜ければ、ちょっとした広場に出る。拝殿前へ出る最後の階段はこの広場を真っ直ぐに抜けた先だ。頭で考え事をしながらも楼門をくぐる時に一礼を忘れなかったのは、毎年の初詣で染みついた習慣がなせる業なのだろうか。
「翁様、拝殿って、きちんとあちらの拝殿のことですよね? 黒龍さんや東照宮様の方じゃなくて」
そんな風に考え込んでいたせいか、いつの間にか翁様達と距離が開いていたらしい。二人は広場を抜けた先、拝殿を囲む神門へ続く最後の階段の前に立っている。
夢子は一度モヤモヤを胸の中にしまい込むと深く深呼吸をしてみた。
夢子の勝手な感想なのだが、楼門をくぐると何だか空気が変わるような気がする。いよいよ御神域という印象が強まるからかもしれない。
今のこの広場は、澄んだ光と若芽から新緑へ、さらに緑へと色を変えていく木々に彩られる季節だった。
初詣の時期はこの広場も人でごった返していて、縁起物を売るテントなどが張られて騒然としているのだが、今の季節はとても静かで、その分空気も澄み切っている。『あ、いい空気』というのが夢子にも分かる空間だ。立て看板に書いてある『背中を押してくれるパワースポット』という言葉も伊達ではないような気がする。
「そうじゃ。あちらの拝殿の屋根の上にわしはおったぞ」
「ますます頭上には空しかないじゃないですか……」
楼門をくぐって真っ直ぐに進み、正面の階段を上れば拝殿、広場の途中で右に折れ、山際の石灯籠とせせらぎを越えて小さな鳥居をくぐれば黒龍社と、様々な神を合祀したお社がある。そちらは山の木々の間に溶け込むようにしてお社が置かれているのだが、谷筋のどん詰まりに御社がある御本殿の上にはスッキリと空が広がっていた。
「とりあえず、登りましょうか。ここまで来ちゃいましたし、この周辺を探す前に、ご挨拶しましょうよ」
ついでに、いい加減何か事件解決に繋がるヒントをくれたりしないかな、なんてまさしく『神頼み』を思いながら、揉めている二人に夢子は声をかける。
もとより二人もここまで来ておいて挨拶なしというのは考えていなかったのだろう。夢子の声に応えた二人は、揉めているともじゃれているともつかない口調で言葉を交わしながら拝殿へ続く最後の石段を登っていく。
夢子も注意深く足元に視線を落としながらそんな二人の後に続いた。
「あ。ここの中って、普段は入れないんですね? もしかして開いてるのって、三賀日だけなんですか?」
石段を上がり切ればいよいよ拝殿なのだが、その拝殿前を囲うように築かれた神門は入口に賽銭箱が置かれて通れないようになっていた。左右にある脇戸も鍵が掛けられているようで通れそうな気配はない。初詣の時はこの門も左右の扉も開放されていて、神門の中にある拝殿まで進めるのだが、今日は神門の手前からお参りするしかないようだ。
「三賀日以外でも、何か祭祀が執り行われている時は開いていることもあるけどね。普段はこんな感じだよ」
「……楓太さん、ほんと詳しいですよね。近隣住民の方にとっては、やっぱり『知っていて当然のこと』なんですか?」
「『近隣住民だから知っていて当然』かどうかは分からないけれど。僕にとっては『知っていること』だったね」
夢子の言葉にサラリと答えた楓太は、ズボンのポケットから小さな小銭入れを取り出すと5円玉を一枚取り出した。それを見て夢子も鞄の中から財布を取り出して小銭を漁る。
いつも家族でお参りに行く時は『5円』と『御縁』をかけて5円玉がいいと母に言われるがまま5円玉を投げる夢子なのだが、残念なことに夢子の財布には5円玉が入っていなかった。というよりも、手頃なお値段の10円、50円、100円玉もない。あるのは数枚の1円玉と、500円玉硬貨だけだ。
しばらく迷った夢子は、奮発して500円玉をつまみ上げた。真剣な頼みごとをするのにさすがに1円玉はダメだろうという考えが勝った結果である。
「ただ、知らなかったからどうとは思わないかな。『知らなかったこと』を『知っていること』に変えて、さらにそれを自分の中で咀嚼して吸収して『知っていて当然のこと』にする。当然のことになったら、それを知らない人に教えてあげる。そんな流れが色んな所に生まれていけばいいなとは思っているけど」
その言葉に夢子は目を瞬かせた。
「流れ、ですか?」
「そう。『知らない』から『知っていて当然』へ続く流れ」
財布をしまって顔を上げると、楓太は5円玉を手の中で弄びながら夢子に視線を落としていた。
「最初は誰もが『知らない』状態なんだよ。知らなければ、決められもしない。判断材料がないわけだから。でもね、僕はその状況を、悪いとは思わないんだ」
その言葉に、夢子の中の何かがサワリと動いた。
夢子の心の中に琴があったならば、今がまさしく『琴線に触れた』瞬間だったのだろう。
「『知らなかったこと』を『知っていること』に変えて、何かを『決めて』いく。その過程はね、多分悩みが多くて大変だと思うけど、それができるって、とても実り多いことでもあると思うんだ」
目を見開く夢子に、楓太は涼やかに笑みをこぼした。
クールな顔立ちにほんの少しの幼さと愛嬌、さらに慈しみに似た優しさを混ぜた楓太は、言葉もなく楓太の声に耳を傾ける夢子に柔らかく言葉を向ける。
「夢子ちゃんにも、たくさんの実りを得られる時が来るよ」
まるで、お狐様の託宣のような。
そんな楓太の言葉を噛みしめるように、夢子は500円を握りしめる手に力を込める。
「あああああっ!!」
だがそんな静謐な空気は足元から響いた素っ頓狂な声に破られた。
「うわっ!?」
「えっ!? 楓太さんっ!? あっ、お賽銭……っ!」
突然響いた絶叫に肩を跳ね上げた楓太はバランスを崩したのかそのまま後ろへ倒れ込む。そんな楓太の手から吹っ飛んだ5円玉は綺麗な放物線を描き、神門も賽銭箱も通り過ぎて拝殿の方へ転がっていった。
どちらを追うべきなのかと忙しなく首を巡らせていた夢子は、次いで自分の足元に走った衝撃に慌てて体勢を立て直す。
「あった!」
「へっ!?」
「あった! あったぞっ!!」
夢子の体勢を崩したのは翁様だった。あんなに小さくてモフモフした触り心地をしているのにどうやったらあんな威力でぶつかってこられるのかと夢子が驚いている間も、翁様は落ち着きをなくした猫のように夢子と楓太の足元を走り回っている。
「これ! 逃げるでないわっ!! むぅっ!! 落ち着きのないっ!!」
「えっ、あったって、翁様、失くし物あったんですかっ!?」
そしてそれは、そんな逃げ回るようなものだったんですか? 初耳なんですけど。
夢子は手の中の500円玉を必死に握りしめたまま足元を走り回る翁様の動きを追う。だがそんな翁様が何を追って走り回っているのかが分からない。よくよく目を凝らしてみれば、確かに何かキラキラした物が翁様の前を舞っているような気がしないでもないが……
「…………」
「え? 楓太さんっ!?」
そんな翁様の姿が、不意に夢子の視界から消えた。少し地面から視線を上げてみれば、不機嫌そうに目をすがめた楓太が片手で翁様の襟首を吊り上げている。そんな状態になってもジッタバッタと手足を振り回している翁様は、まるで吊り上げられたばかりの魚のようだ。
「ぬぅっ!? 楓のっ!! 何をするっ!!」
「『何をする』、はこっちの台詞ですよ。人をすっころばっせておいてその態度ですか」
そう言いながらも、楓太は真剣な目つきで翁様が走り回っていた周囲を見つめている。夢子も楓太の視線を追ってみたのだが、さっきまで見えていたような気がしたキラキラはすでに夢子の視界からは消えていた。
──見間違い? それとも、本来人の目には映らない『何か』だった……?
「うーん……」
地面を見つめていた楓太は、次いで夢子に視線を走らせた。
文字通り翁様に足元をすくわれた楓太は、尻餅をついた態勢のまま翁様を片手で掴んで夢子を見上げている。イケメンはやっぱりどの角度から見てもイケメンなんだなぁと場違いな感想を抱く夢子を見上げた楓太は、おもむろに翁様を掴んでいる手とは反対側の手を夢子へ差し出した。
「夢子ちゃん」
「はい?」
「……いや、そうじゃなくて」
「え?」
てっきり立ち上がるのに手を貸してほしいのかと思ったが、そうではなかったらしい。
夢子が何の疑問もなく差し出した手をやんわりと押し返した楓太は、夢子の肩にかかった鞄を示した。
「鞄についてるストラップを貸してくれないかな?」
「これですか?」
早とちりに赤くなりながら、夢子は鞄に付けていたバックチャームを楓太に差し出した。
夢子が普段使っているトートバックには、柳ケ瀬にあるハンドメイド作品が集まる店で購入したバックチャームが掛けられている。銀のチェーンと大振りの水晶をメインに水滴をイメージして作られた作品のようで、水晶片とスワロフスキービーズが散らされたチャームは動くたびにキラキラと光を反射させている。
夢子からバックチャームを受け取った楓太は、座り込んだままチャームの水晶を覗き込んだり、日の光に透かしたりしていた。
「楓太さん?」
何度もかざしてはひっくり返しを繰り返していた楓太は、不意に動きを止めると親指と人差し指でチャームの水晶をつまんだ。その指先をそっと体の前に差し出した楓太は、水平に構えていた腕をゆっくり起こして徐々に角度をつけて水晶を太陽にかざしていく。
「……あっ!」
その瞬間は、唐突に訪れた。
「ぬ! ようやっと大人しく現れおったか! 逃げるでないぞ!! すぐに捕まえてやるっ!!」
チャームの水晶を通過した光が、サッと楓太の前に鮮やかな色彩を広げる。
キラキラしていて、透き通っていて、でも七色に輝いているモノ。
地面に現れた小さな虹を見つけた翁様は、楓太の手に吊り上げられたまま一層激しく手足をバタつかせた。
「翁様の『素敵な拾い物』って、虹だったんですか……っ!?」
太陽光はたくさんの色を含んでいる。ガラスや水面、水晶などにその光を通すと、光の屈折率の違いを利用して光が含む色を分散させることができる。その現象が自然界で起きた結果、発現するのが虹だ。楓太が今作っている虹も、夢子のバックチャームの水晶を使って生み出した人工の虹と言える。
「夢子ちゃん。4日前の天気って、覚えてる?」
楓太の言葉に夢子は視線を宙にさまよわせた。だが結局思い出すことはできず、鞄の中から取り出したスマホで気象情報を検索する。
「えっと、昼前から昼過ぎ……大体11時から3時くらいまで雨が降っていたみたいです。夕方にはスッキリ晴れたみたいで、夕焼けが綺麗に見えたみたいですよ」
「ちなみにその雨、予報されていたものかどうかって、分かる?」
「えっと……。ちょっと待っててくださいね」
実際の天気のデータを表示したブラウザとは別のブラウザを立ち上げ、天気予報を呼び出す。
古いデータが残っているものなのかと疑問には思ったが、幸いなことにそれらしきページを発見することができた。
「この日は一日晴れ予報だったみたいです。岐阜市街とその周囲だけ、予想外に降ったみたいですね……。これは洗濯物の被害が大変だっただろうなぁ……」
そういえばこの間、『せっかく乾いたと思ったのにぃっ!』という母の悲鳴を聞いたような気がする。あれが4日前のことだったのか、と夢子は納得すると同時に日付感覚を失いつつある自分に戦慄した。
「……なるほどね」
楓太は小さく呟くと軽やかに立ち上がった。ついでとばかりにポイッと放り出された翁様は器用に空中で態勢を整えて着地を決める。
そんな翁様に向かって、楓太は瞳を煌めかせながら言葉を向けた。
「翁様、宝の瓶、持ってきてください」
「楓の! お前はもっと年寄りに優しく……って、うむ?」
「だから、宝の瓶です。詰め直しますよ、『素敵な拾い物』」
ひどい扱いに小言を口にしようとした翁様がキョトンと首を傾げる。
そんな二人を前にした夢子は、ぽかんと口を開けていた。
「ふ、楓太さん、詰め直すって……!?」
虹って拾うとか以前に触れられないじゃないですか! と言いかける夢子に、楓太は笑みを向けた。
親指・中指・薬指をチョンッと合わせたお狐様サイン付きで。
「この町の『お稲荷さん』である僕に任せて」
「えぇ?」
「で、そのお稲荷さんから、夢子ちゃんにお願いがあるんだけど……」
──その設定、今出しちゃって大丈夫なんですか? 結構重大な場面ですよ?
内心でそんな不安の声を上げながらも、夢子は一応傾聴の姿勢を見せる。
「その500円玉、僕にくれない? さっきの5円で最後だったんだよね、僕が持ってた小銭って」