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和カフェ『ふなば』の楓太さん  作者: 安崎依代
和カフェ『ふなば』春夏冬中

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21/22


 伊奈波(いなば)神社の門前町とは名ばかりの住宅街の中。岐阜城下の古い町家建築が残された一帯に、最近新しく手作りの看板がかかった場所がある。


『和カフェ ふなば』


 暖簾(のれん)がまだないその店は、開店の目印として看板の横にチョコンと狐のお面が掛けられる。


 古い引き戸の扉をカラリと開けば、中は奥へ細く伸びる鰻の寝床。右手側にはカウンター、左手にはテーブル席。突き当たりに見える坪庭は石灯籠と鉢植えの朝顔があるだけの殺風景な物だが、店内はよく掃除されていて、穏やかな照明に抱かれた空間は思わず時を忘れてくつろぎたくなる雰囲気に満たされている。


「ようこそ、いらっしゃいませ」


 カウンターの中にいた店主と、玄関の(かたわ)らに控えていた店員が声を揃えて客を出迎える。店の制服なのか、二人は色違いの浴衣(ゆかた)に身を包み、揃いの前掛を締めていた。


「こちらへどうぞ」


 にこやかに客を出迎えた女性店員が坪庭前のテーブル席を身振りで示す。


 その案内に従って、今宵の客は店の奥へ足を踏み入れた。




  ※  ※  ※




 ──こ、これでいいんですよね楓太(ふうた)さん……っ!


 楓太が用意した浴衣に身を包み、急遽『ふなば』の店員となった夢子(ゆめこ)は、緊張ですっ転びそうになる足を何とか動かしてお客さんを席に案内していた。


「楓太さんは和カフェの店主さんなんだよ。楓太さんのお店なら、今からでもゆっくり時間を取ってくつろげると思う。楓太さんのお店で、お(とよ)ちゃんとお相手の方、二人きりで腹を割って話してみたらどうかな?」


 夢子の提案に、お豊は当初、戸惑っていたようだった。


「じゃが……しかし」

「そもそもの確認を忘れてたんだけど、お豊ちゃんって、向こうの方とお話してみたかった? それとも、お話しするのも嫌なくらい、お見合いは嫌だった?」

「それは……っ!  は、話くらいは、(わらわ)もしてみたかったが……」


 戸惑うお豊に夢子はグイグイと迫る。そんな夢子に押し負けたお豊はおずおずと自分の心の内を口にした。


「だったらやっぱり、お話もできないままこの話をうやむやにしちゃうのは良くないよ。(えにし)が始まるにしろ終わるにしろ、キッチリ決着はつけなきゃ気持ち悪いじゃない」


 こじれた話はスパッと当人達が話し合って終わらせるのが一番早い。


 ──周囲が作り出したゴチャゴチャした難しい話なんて、気にしなくても良くない?


 だって結婚して一番大変なのは、一緒に暮らしていく当人同士なのだから。


 家同士の繋がり、という面ももちろんあるだろうが、やっぱり一番そこが大切で、そこさえスッキリ解決していれば後はどれだけ(もつ)れていて面倒なことになっていても、二人で力を合わせて頑張っていけるのではないかと夢子は思う。


 ──もしかしたら、現実を知らない私がそう夢見ているだけなのかもしれないけどね。


「で、でも……。先方は、もう妾にウンザリしておるかもしれぬ。こんな無礼な真似をしでかした妾になど、もう会いたくないかも……」

「そこは楓太さんに確かめてもらうってことで……」


 夢子が視線を向けると、楓太はいつものように涼やかな笑みを浮かべて小さく頷いてみせた。


「任せて。連絡も付けるし、お店も、とっておきのメニューも用意するから」


 自信に満ち溢れた声で答えた楓太は体重を感じさせない動きで立ち上がった。一度カランッと下駄を打ち付けた楓太はスイッと帯から扇子を抜き取る。『何をするのだろう?』と夢子が首を傾げた時には、腕を伸ばした楓太がパンッと扇子を広げていた。


「でも、言い出しっぺの夢子ちゃんには、しっかりお手伝いしてもらおうかな」


 金縁に白地の紙が張られた扇子の中では、流水の中に楓が躍っていた。


 その模様が、楓太がフワリと扇子を振り抜いた瞬間、ブワリと扇子から飛び出して夢子達の周囲を取り囲む。


「わっ!?」


 まるで金の光が流れる川に呑まれたかのような景色だった。夢子もお豊もその景色に丸く目を見開く。


「じゃあ、僕はひとまず御子息様に連絡を取るから、夢子ちゃんは制服(・・)に着替えてね」


 光の清流はほんの数秒で夢子達の周囲から流れ去っていった。


 扇子が閉じるパチンッという音に夢子が目を(しばたた)かせた時、一行はすでに『ふなば』の店内に立っていた。うだる外の熱気も、花火見物客の姦しさも、もうどこにも感じられない。


「えっ!? えっ!? ええええっ!?」

(かえで)……っ!」


 いきなり遭遇した『現実ではありえないこと』に夢子は混乱の声を上げる。そんな夢子に構うことなく、楓太はカウンターに入るとさらに厨房への暖簾(のれん)をくぐって姿を消そうとしていた。


 そんな楓太を咎めるようにお豊の鋭い声が飛んだ。その声に、楓太の足が止まる。


「お前……っ!」

「大丈夫ですよ、夢子ちゃんなら」


 お豊が何を言おうとしたかは分からない。お豊が続きを口にするよりも楓太がお豊の言葉を制する方が早かったから。


 暖簾に微かに表情を隠しながら振り返った楓太は、いつもの涼やかさの中にわずかに凄みを落とし込んで笑っていた。


 ゾクリと背筋が震えるような、普段は感じさせない色香を含んだ笑み。その笑みは護国(ごこく)に『あげないからね?』と言って微笑んだ時と同じ温度をはらんでいる。


 その笑みの中からお豊が何を感じ取ったのかは分からない。だがお豊は一度ビクリと体を振るわせてから挑むように楓太を睨み上げ、それからわずかに楓太から視線をそらした。


「……妾も、店の支度を手伝いたい。何かさせてくれ」

「え? お豊ちゃんも、着替えた方が……」

「良い、夢子。このままの姿でいさせておくれ」


 楓太とお豊の間でどんな感情のやり取りがあったのかは分からない。だが夢子を見上げたお豊は外見相応に不安に揺れる表情を浮かべていた。


「この姿のままの方が、素の妾のままでいられるような気がするのじゃ」


 そんなお豊の様子に、何だか夢子はホッとしてしまった。


 何ひとつ問題は解決していないのに、何だかさっきよりもずっとこの一件がうまく運びそうな予感がしたから。


「じゃあお嬢様は机を拭いといてください。台拭き持ってきますから。夢子ちゃん、制服は奥のテーブル席の所に置いてあるから。庭と反対側の隅なら表から見えないから、安心して着替えて」


 そんな一行に再び楓太の指示が飛び、三人はそれぞれ支度にとりかかった。


 夢子は『制服』という言葉に首を傾げながらも店の奥に向かったわけだが。


 ──まさか私用の浴衣が用意されてるとはね……っ!


 そこで夢子を出迎えたのは、楓太が着ている浴衣と色違いの女物の浴衣だった。


 浴衣らしい藍色の地に裾の方にだけ入った白抜きの流水紋。


 用意されていた帯は鮮やかな赤色が印象的な兵児帯(へこおび)で、ガラス細工も涼やかな帯留めが通された白い帯締めと、髪に添えるための赤い花飾りが揃えて置いてあった。


 赤い鼻緒と白木で作られた舟形下駄まで用意されていて、全て装着すると上から下までバッチリ浴衣美人の出来上がりだった。ご丁寧に腰に巻いて使うソムリエエプロンまで揃えられている。


 ──普段の自分の格好はあんっなにズボラなくせに、こんな所でセンスを発揮してくるなんて、ほんっと反則すぎ……っ!


 楓太が何を思ってこんな一式を用意したのか、正確な意図は夢子には分からない。


『ふなば』のプロデューサーである夢子にゆくゆくは店を手伝わせようと思っていたのか、あるいは……


 ──あーあーあーっ!! 今は考えないっ!! かーんーがーえーなぁーいっっっ!!


 とにかく、お豊の再お見合いの場に立ち会うならば雰囲気作りは重要だ。この装備はその点で役に立つ。


 ──その他の意味は考えない!


 そう割り切って無理やり思考回路を切り替えた夢子は急いで浴衣に着替えた。一年に一回着るだけの浴衣を自力できちんと着付けることができるか不安はあったが、適当に結んでも様になる兵児帯と締めるだけでキリッと印象が引き締まる帯締めのお陰で何とか見苦しくない程度に体裁を整えることはできた。


 さらにその上からソムリエエプロンを締めて表に戻ると、楓太とお豊は全力でお客さんを出迎える準備に走り回っていた。そんな二人に加わった夢子もバタバタと忙しく立ち回り、落ち着いたのはつい数分前のことである。


 ──そんな中でもきちんと『似合ってるね』って褒めてくれた楓太さんは、ほんっとにイケメンだと思います、はいっ!


「……楓が店を預かるようになったとは聞いていたけれど、実際に足を運んだのは初めてだね」


 ヤケクソのように内心だけで叫んだ夢子の後ろで、お客さんがポツリと呟いた。


『30分後に来てくれるってさ』という楓太の言葉を(たが)えず店の扉を開いたのは、楓太よりも若干年上に見える青年だった。


 長い艶やかな黒髪を後ろでひとつに束ね、夏の(もり)を思わせる深い緑色の着物に身を包んだ青年は、夢子について歩きながら温和な顔に控えめな笑みを浮かべて楓太のことを見遣る。


「私も御子息をこの店にお招きする日が来るとは思っていませんでしたよ」


 夢子が椅子を引くと、青年は軽く会釈をしてから夢子が引いた椅子に腰を下ろした。そんな青年の前に楓太は黒塗りの盆に乗せて運んできた水のグラスを置く。


 そんな楓太にも会釈を返してから、青年は目の前に座したお豊に視線を向けた。凛とした、と形容するにはいささか肩に力が入りすぎたお豊は、まだ青年に視線を向けることができないのか、自分の前に置かれたグラスに視線を落としたまま固まっている。


 そんなお豊の姿を見つめた青年は、ふんわりと柔らかな笑みを浮かべた。


「ようやく落ち着いてお話ができますね、豊川(トヨカワ)のお嬢さん」

「あっ、ぅ……」


 そんな青年の声にお豊は弾かれたように顔を上げた。やっと真っ直ぐに青年を見たお豊は必死に何かを口にしようとするが、口はパクパクと動くばかりで肝心の声が出ていない。


「今回のことで、嫌な思いをたくさんされたことでしょう。私がもっと配慮することができていれば、こんな風に貴女に大変な思いをさせることもなかったでしょうに」

「そっ……!」


 ──頑張って、お豊ちゃん……っ!


 ひとまず青年はお豊のことを(うと)んじているわけではなさそうだ。そのことに夢子はほっと安堵(あんど)の息をつく。


 同時に、ガッチガチに緊張してしまったお豊の方には心配になった。今までの言動から見てもっと冷静に切り抜けられるかと思っていたのに、予想に反してお豊は顔を上気させたまま固まってしまっている。


 ──場を用意することは私達にできても、そこから先は私達には何もできないんだよ、お豊ちゃん……っ!


「まぁまぁ御子息。そんなに焦ることないじゃないですか」


 カウンター前まで下がった夢子は思わずキュッと両手を握りしめる。


 そんな夢子の(かたわ)らにカウンターの中から身を乗り出した楓太は、手にしていた器をコトリとカウンターに置いた。


「まずはうちの新メニューを楽しんでいってくださいよ」


 いつも通り涼やかな声を上げた楓太は、チラリと夢子に視線を向けた。『さぁ、仕事だよ、夢子ちゃん』という声を聞いた気がした夢子は、気を引き締めてから楓太の視線に応える。


 用意されていたお盆に楓太が出したふたつの皿を乗せ、二人が座るテーブルに向かって進む。慣れない下駄に慣れないお盆での配膳であるためか、たった数歩の距離が妙に長い。


「お待たせ致しました」


 何とか二人のテーブルの前まで無事に歩を進めた夢子は、そっと二人の前に皿を降ろした。そんな夢子の手元に二人の視線が集まる。


「『ふなば』オリジナル、『花火かき氷』です」


 切子細工も涼やかな皿にこんもりと盛られていたのは、フワフワに削られたかき氷だった。


 上から夜空を思わせるシロップがかけられたかき氷には、小さくカットされたフルーツや銀色に輝く小粒のアラザンが散らされている。


 その様は店の照明をキラキラと弾く氷と相まって、まるで切子細工の上に夜空が盛り付けられたかのようだった。


 氷が溶けかけてシロップが薄まった周囲は暗い青から赤みを帯びた色に変化していて、それが夜空から長く尾を垂らす打ち上げ花火のようにも見える。


 ──楓太さんが花火大会の日に新作かき氷のお披露目をしたかったのは、かき氷のモチーフが花火だったから、なんだね。


 新作メニュー実食者第一号になれなかったのは残念だが、二人の大切な席に彩りを添えられたならば本望だ。きっと楓太もそう思っているに違いない。


御二方(おふたがた)とも、ありがたく噛みしめて食べてくださいよ。僕、本当は夢子ちゃんに食べてもらうまで、これを他の人に振る舞うつもりは全っ然なかったんですからね」

「って楓太さんっ!?」


 ……などと思っていたのだが、楓太の内心は違ったらしい。


 キレッキレの本音をぶちまける楓太に思わず夢子は()頓狂(とんきょう)な声を上げる。そんな夢子と楓太に二人が揃ってキョトンと目を丸くした。


 ──目上の二人にそんなこと……っ! てかそもそも知り合いであってもお客さんなんだからそんなこと言っちゃ……っ!


「……噛みしめるまでもなく、かき氷は口に入れた瞬間に溶けてしまう物であろうて」


 思わず、と言った感じでお豊が言葉をこぼす。それにフフッと青年が笑い声をこぼした。


「言われてみれば、そうですね」


 青年がこぼした声にハッと顔を振り返らせたお豊は、柔らかく笑みこぼす青年を見上げると不器用に微笑み返す。そんなお豊の照れが伝染したのか、青年の頬にもほんのりと赤みが差したような気がした。


 互いに照れ笑いを向け合った二人は、添えられた銀の匙を手に取るとそっと両手を合わせる。


 二人の声が、綺麗に揃った。


「いただきます」


 そっとカウンターまで下がった夢子は、息をひそめて二人がかき氷を口にする瞬間を見つめる。フワリ、と軽やかに掬われたかき氷は、スルリと二人の口に吸い込まれていった。


「……美味しいですね」


 最初に感想を口にしたのは青年の方だった。フワリと目元を(なご)ませた青年は次のひと口を掬いながら言葉を続ける。


「果実の甘みと氷の冷たさが、口の中を何とも幸せにしてくれます」

「しかし、この銀色の粒は余計だったのではないかえ?」


 対してお豊が口にしたのはダメ出しだった。カリッと口の中で何かを噛み砕いたお豊は眉間にうっすらとシワを寄せている。


「氷は優しく口の中で溶けていくのに、この粒は固い感触が残る。見目は良いが食感が好かぬ」

「おや、どれどれ?」


 お豊の言葉を受けた青年が今度はアラザンがかけられた部分を狙って匙を入れた。ガリガリとアラザンを噛み砕いた青年は穏やかに頷きながらもお豊とは違う感想を口にする。


「これこれでいいと、私は思いますけどねぇ」

「そうかえ? 他の物は全部シャリシャリと心地良い歯ざわりなのに、こやつだけ異質ではないか?」

「ひとつだけ違うというのも、私は面白いと思いますよ」


 二人はかき氷を咀嚼(そしゃく)しながら互いに感想を言い合う。自然に生まれた会話は穏やかに二人の交流の口火を切ってくれたようだ。


 ──食べ物の力って、すごい。


 そんな二人の様子に夢子は思わず口元を緩めた。


 二人が肩書きや形式を気にすることなく素のまま言葉を交わしていることが嬉しいし、そのきっかけになったのが楓太お手製のかき氷だということも嬉しい。


「……橿森(カシモリ)殿。本日は(わらわ)の勝手でせっかくの席を台無しにしてしまった。詫びても許してもらえぬこととは分かっているが、それでも詫びさせてほしい。本当に、申し訳なかった」


 お豊が口火を切ったのは、二人の皿がもうそろそろ空になるだろうかといった、そんなタイミングだった。


 ポツリと呟いたお豊はコトリと匙を机に置くと居住まいを正して青年を見上げる。そんなお豊の様子に青年がわずかに目を(みは)った。


「無礼のついでに、率直に伺いたい。橿森殿は、今回のこの話をどう思っておいでなのだろうか」

「どう、とは?」

「今回の話は、豊川側が無理に捻じ込んだものだと聞いておる。橿森殿側の皆様がこの話に良い印象を抱いていないということも。橿森殿にとっては、やはり迷惑な話であったのだろうか?」


 愚直とも言える真っ直ぐな切り込み方に夢子は思わず息を詰めた。楓太はお豊がこう切り出すことを予測していたのだろう。驚きはないものの、二人の会話に耳を澄ましているのが分かる。


「橿森殿とこうしてお話をすることができたから、妾は橿森殿がとても優しい御方であることが分かった。妾は橿森殿にとても好感を抱いておる。だからこそ、ご迷惑はかけたくない」


 お豊が紡ぐ言葉は、真っ直ぐすぎるほどに真っ直ぐだった。駆け引きも、社交辞令も何もない。だからこそ、当事者ではない夢子の胸にまでお豊の言葉は真っ直ぐに刺さる。


「橿森殿ほどの御方ならば、妾などよりよほど素敵な方を迎えることもできよう。好きこのんでこんな子狐を(めと)られる用もない。橿森殿にとってこの話がご迷惑になるならば、豊川側は妾がどうとでもする(ゆえ)、率直に教えてほしい」


 心を開いて話し合って、青年の為人(ひととなり)が分かったからこその結論、なのだろう。これが本来のお豊の性格で、お豊が尽くせる誠意なのかもしれない。


 夢子は思わずコクリと息を呑んだ。


 青年にはお豊の誠意に応えて率直な気持ちを答えてもらいたい。


 だけど、それを聞くのがちょっとだけ夢子は怖い。


「……話がこじれにこじれたことは、確かです」


 そんな夢子の心境とお豊の心境には似たようなものがあったのだろう。言葉を言い切ってからたまらず顔を伏せてしまったお豊が、青年の静かな言葉を受けてビクリと体を震わせる。


「そのこじれた部分が煩わしい、というのが、私の率直な感想です」

「……では」

「ですが、貴女に好感を抱いた。そこは私も同じです」


 その言葉にお豊は弾かれたように顔を上げた。目の際に涙を浮かべていたお豊は信じられないといった顔で青年を見上げる。


 そんなお豊に青年は穏やかな笑みを向けた。今までの笑みよりも少し、熱が多めに溶けた笑みを。


「こじれた部分を清算するために、一度この話は破談にしましょう。その上で私は、もっと貴女自身とお話がしたい」


 青年のそんな笑みを直視してしまったお豊が頬を真っ赤に染める。そんなお豊の様子に青年はさらに笑みを深めた。


「お話を重ねて、為人を知って、その果てに出来上がる形が夫婦(めおと)か友人かは分かりませんが……。形が定まった時に、もう一度しかるべき席を(もう)けるというのは、どうでしょうか? ……私にとって都合が良すぎる話だと、軽蔑しますか?」

「し、しないっ!!」


 ピョンッと、お豊の体が跳ねる。テーブルの上に身を乗り出したお豊は、幸せそうにはにかんでいた。


「むしろ、嬉しい。妾自身のことを、もっと知りたいと言ってもらえたことが」


 そんなお豊に目を瞠った青年は、もう一度顔中に穏やかな笑みを広げた。その笑みを受けたお豊も照れたように笑いながらソファーに腰を戻す。


 ──良かった……っ!


 温かい空気が広がった二人に夢子は思わず涙ぐんだ。あれだけ張り詰めていたお豊があんなに自然体で幸せそうに笑ってくれていることが、何だか我がことのように嬉しい。


「ねぇ、夢子ちゃん。感動しているところ悪いんだけども」


 そんな夢子の肩が控えめにチョンチョンとつつかれた。指先で目尻の涙をぬぐいながら振り返れば、カウンターに肘をついた楓太が壁掛け時計を指さしている。


「時間、大丈夫?」


 ──時間?


 その動きを追いかけて壁掛け時計を見上げた夢子は、ヒュッと息を呑むと手にしたお盆を取り落とした。


「まっ……ずいっ!」


 現在時刻はすでに23時に近かった。ろくに事情を説明しないまま家を飛び出してきてしまった夢子を家族は心配していることだろう。


 花火が終わるのが21時だから、帰宅時間を加味して22時までの外出なら『友達に急に呼び出されて花火に行ったのかしら』『いやいや、もしかしたら彼氏がいたのかもしれないじゃーん』と母と妹が笑い話で済ませてくれるかもしれない。だがさすがに23時近くまで連絡なしというのは遅すぎる。気が短くて心配性な母は勢い余って警察に相談の電話を入れそうだ。


「浴衣はそのまま着ていって。元々一式プレゼントする予定だった物だから。荷物は家まで送ってあげるから、今日はもうそのまま帰っちゃって」

「すみません楓太さんお先に失礼します……っ!」

「むしろ僕の方がごめん。送ってってあげたいんだけど、僕じゃ夢子ちゃん()の方に通路を繋げられなくて……」

「夢子っ!!」


 慌てて駆けだそうとした夢子をお豊の声が止めた。夢子が振り返るよりも早く夢子の元に駆け寄ってきたお豊は、早口で(ささや)きながら夢子の手に何かを滑り込ませる。


「今日のこと、心の底から礼を言う。全て夢子のお陰じゃ」


 夢子が自分の手の中に視線を落とすと、そこにはお豊がつけていた髪飾りが握られていた。


 そんな夢子の手に自分の手を重ねて、お豊は真剣な眼差しを夢子に向ける。


「この髪飾りに妾の力を込めた。我が眷属が使う裏道を、妾の加護で安全に通り抜けられる。店を出たらもう夢子の家の前じゃ」

「え」

「物は返さずとも良い。代わりに、この装束は妾がもらっても良いだろうか?」


 そう言われて初めて、夢子はお豊に自分のTシャツを貸していたことを思い出した。


 慌てていてそれどころではなかったというのもある。だがお豊がTシャツを着ていても違和感が何もないくらい、今のお豊には夢子のTシャツが似合っていた。


 夢子は顔一杯に笑みを広げると、お豊と繋がった手にギュッと力を込めた。


「じゃあ、交換ね?」


 そんな夢子にお豊も嬉しそうに笑う。


 その表情が不意に真剣になった。


「夢子、狐は受けた恩を忘れぬ。夢子が何かに困ったら、豊川(とよかわ)の地を訪ねるがよい。妾が必ず力になろう」

「お豊ちゃんも、また遊びに来てね。このお店で、楓太さんと一緒に待ってるから」

「ああ、必ず」


 お豊の言葉をしっかり受け取った夢子は、青年へ会釈を向けるともう一度楓太に視線を送る。『大丈夫、後のことは任せて』と笑った楓太がヒラリと手を振った。


「またね、夢子ちゃん」


 みんなに見送られながら夢子は表口を出る。その瞬間、金の燐光を帯びた風がサッと夢子の体を撫でた。


 強い風に思わず目を閉じた夢子は、風が過ぎ去ってから目を開いて、目の前にある見慣れた扉にさらに大きく目を見開く。


「……本当に、一瞬で帰れた」


 驚きにポカンと口を開いてから、それどころではなかったことを思い出す。慌てて玄関のドアを引いた夢子は中に飛び込みながら声を上げた。


「ただいまっ!!」


 こうして、夢子の長い一日は終わった。


 花火大会が終わった夜空には、スターマインの名残を惜しむかのように微かな金の燐光が舞っていた。


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