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「楓太さんが気付かないなんて、意外でした」
花火大会が近くで行われていようとも、施設の運営には関係ない。
メディアコスモスの閉館時間は、花火大会の日でもいつもと変わらず21時だ。その21時というのは、花火がフィナーレを迎える時間帯でもある。
閉館時間を知らせる『蛍の光』の調べに追い出された夢子達は、施設の敷地内にしつらえられた植樹帯のベンチに腰かけていた。
夜になっても空気は変わらず熱気をはらんでいるが、川を模したせせらぎがしつらえられた植樹帯の周辺は流れる水が微かな涼をもたらしてくれる。本当は長良川の堤防を越えて川辺に出た辺りが一番風が涼しいのだが、熱中症で倒れかけた少女を花火帰りの人間がごった返す中、流れに逆らって歩かせるというのは酷な話だろう。
「私が熱中症で倒れかけた時には、一目で気付いて助けてくれたのに」
「確かに僕達は常に毛皮を被ってる分暑さには弱いけど、そこは神通力で何とでもできるから。お嬢様は最初からこんな態度だったし、顔も向けてくれないし、まさかこんなことになってるとは思ってなくて」
「あ、そこにも生きてくるんですね、お稲荷さん設定」
ぬるくなってきたスポーツドリンクをチビチビと飲みながら、美少女を間に挟んで隣に座る楓太を見上げる。
こんな時でもお稲荷さん設定を忘れない楓太は、確かにキッチリ浴衣を纏っていても汗の気配もなく涼やかな顔をしていた。風通しのいいTシャツとガウチョパンツ姿でも汗が引かない夢子とは大違いだ。
「それにしても、助かったよ。夢子ちゃんが着替えを持ってきてくれて」
「意図して持ってきたわけじゃなくて、たまたま入ってただけなんですけどね」
答えながら夢子は楓太と自分の間に挟まれて座る美少女に視線を落とす。
夢子のTシャツをワンピースのように着こなした美少女は、うっすらと氷が浮くスポドリのペットボトルを太ももの上に置いたままゼリー飲料をチマチマと必死にすすっていた。どうやらリンゴ味のゼリーがお気に召したらしい。
──ズボラな所が逆に役に立つなんて、思ってもみなかったなぁ……
夢子がわざわざリュックサックを背負ってきたのは、こういう事態を見越していたため……ではもちろんなく、前日に卒論のフィールドワークのために金華山に登っていて、その時の荷物を片付けないまま自分の部屋の床に放り出してあったから、だった。
財布をそのリュックに入れっぱなしにしていたから、楓太から電話をもらって家を飛び出す時にとっさにリュックごと掴んで家を出てきてしまったのだ。
真夏の登山に備えて着替えやらウエットティッシュやらクレンジングシートやらがギュウギュウ詰め込まれたリュックは、人混みの中で周囲に大変なご迷惑をかけただろうなと夢子は今更ながらに思う。
──TPOをわきまえてなかったのは反省点だけど、そのおかげでこの子は助かったわけだから、ちょっと許してほしい……かも。
楓太を施設内に入ったコンビニに向かわせた夢子は、近場にあった多目的トイレで美少女の着物をはぎ取った。
足袋も含めて着物をすべて脱がし、全身ベトベトに纏わりついた汗をウエットティッシュでぬぐい取り、化粧も問答無用でクレンジングシートでこすり落とした。
髪も飾りを取り除いて全部解いて、顔を洗うついでに頭も洗ってしまった。本当は公共のトイレの洗面台でやっていいことではないと分かっていたけれど、そこは緊急事態ということで許してほしい。
とりあえず全身をさっぱりさせた美少女に着替えとして持っていたロングTシャツを着せ、濡れた髪を適当にタオルで拭いてからポニーテールに結い上げてトイレから出た。
外で待っていてくれた楓太と合流してからは、冷えたスポーツドリンクのペットボトルで脇下や太腿を冷やしながら水分補給をさせ、後はひたすらベンチに並んで座って美少女の回復を待った。そのおかげで施設の閉館時間間際には美少女の顔色も大分マシになり、多少は表情も解れたように見える。
──本当は緊急搬送してもらった方が良かったレベルだったんだろうけど。……そうも言ってられない感じの存在っぽいもんね、この子。
「いやぁ、でもほんとに助かったよ。夢子ちゃんに気付いてもらえなかったら、大変なことになってた」
そんなことを思う夢子の傍らで、楓太は心の底から感心したといった感じで声を上げた。言葉を受けた夢子は嬉しさでへにょっと緩む口元を引き締めながら答える。
「顔面蒼白、肌の乾燥、痙攣、不機嫌って、熱中症の典型的な症状らしいですから」
「詳しいね」
「自分が倒れかけた後、改めて調べてみたんです」
「経験をきちんと学びに変えてる。偉いね、夢子ちゃん」
楓太はニコリと涼やかに微笑んだ。吊り目気味な目尻が下がって、いつもの愛嬌が麗しい顔一杯に広がる。どうやら楓太も一緒にひと休みしたことでいつもの調子を取り戻したらしい。そんな楓太に夢子も笑みを返す。
その瞬間、ツンッと、夢子のTシャツの裾が引かれた。
「ん?」
疑問の声とともに視線を落とすとバチッと視線が合った。
今まで夢子のことを見ようともしなかった美少女が、夢子のTシャツの裾を控えめに掴んで真っ直ぐに夢子を見上げている。
「どうしたの? えっと……豊川様の、お嬢様? まだ何か食べる?」
「……お前は妾の同族ではない。故にお前が妾を敬称で呼ぶ必要もない」
「じゃあ、何って呼べばいいの?」
「……好きにせよ」
何か言いたいことがあったから夢子の裾を引いただろうに、美少女の言葉は相変わらずつっけんどんだった。
それでも出会った当初よりも格段に心を開いてくれたことは拒絶がない空気で何となく分かる。
「え、じゃあ……、お豊ちゃん?」
「ブッ!?」
そんな自分の直感を信じてパッと思いついた呼び名を特にひねることなく口にしたのが、それを聞いた二人が示したリアクションは劇的だった。丸く見開かれた美少女の瞳が鮮やかな金色に染まる向こうで楓太が口にしていたスポーツドリンクを景気良く噴き出す。
「ゲフゴホッ!?」
「だ、大丈夫ですか楓太さんっ!?」
夢子は思わず腰を浮かすが、美少女が再度Tシャツの裾を引いたことで動きを止めた。慌てて視線を落とせば、金色に染まったと思った瞳は元の深い漆黒に戻っている。
──見間違いだった? 夜空にスターマインが上がったみたいで綺麗だったのに。
「良い、許す」
「!? ゴホッ!! グホゲホッ!!」
さらにむせ込む楓太を尻目に、真っ直ぐに夢子を見上げた美少女……お豊は、涼やかな声で夢子に答えた。
「夢子、礼を言う。主は妾の命を助けてくれた。……それに」
視線と同じく真っ直ぐな言葉を向けたお豊は、一瞬躊躇うように夢子から視線をそらす。
だがそれは本当に一瞬のことで、ひと呼吸入れたお豊はもう一度夢子を見上げると真っ直ぐに言葉を続けた。
「それに、無礼な態度を取ったことを詫びたい」
「無礼?」
「楓の呼び出しに応じてわざわざ駆けつけてくれた主に、妾は挨拶のひとつもせなんだ。これを無礼と言わずして何と言おう。許してほしい」
「え……えっ!? ぜ、全然気にしてないよっ!? 私を呼んだのは楓太さんであってお豊ちゃんじゃないんだし、いきなり知らない人が現れたらお豊ちゃんだって警戒するだろうし……」
思わぬ言葉に夢子は思わずあわわわっと胸の前で両手を振った。
本当にそんなことは気にしていなかったし、あの瞬間のお豊の体調が最悪だったことが分かっている今はお豊を案じることはあれども無礼な態度を取られたと思うことはない。
「……それよりも、訊いてもいいかな?」
夢子の言葉を受けたお豊は肩に入っていた力がほっと抜けたようだった。
どうしてお豊が心を開いてくれたのかは分からないが、お豊は夢子に謝罪を口にするくらいには夢子に気を許してくれたらしい。そして気を許してくれれば、初対面の人間にも礼儀正しくて律儀な子なのだということも分かった。
『今なら訊いても大丈夫かな』と判断した夢子は、施設閉館間際にもう一度コンビニに買い出しに行ってくれた楓太の戦利品袋をお豊に勧めながらソロリと言葉を差し向ける。
「どうして、しんどい体調を押してまでお見合い会場から抜け出したの? 多分だけど……会場にいた時から、もう体しんどかったんじゃない?」
「よう分かったな」
「そりゃあ、あれだけ着物が汗吸ってたし」
花火大会よりも七五三の方が似合いそうな着物は、お豊の背丈に合わせた子供サイズの物でありながら花嫁衣裳並みに豪奢で立派な仕立てがされていた。
刺繍、絞り、絵付けとどれをとっても華やかな着物は絹の袷。襦袢も肌着もキッチリ着付けられていて、帯も金糸銀糸が惜しげなく使われた重たい袋帯だった。
いくら正装用とはいえ、真冬の寒さでもしのげそうな装備であんなにギッチギチに帯を締め上げられていたら、たとえ冷房が効いた室内にいても自分の体温が外に逃げていかなくて熱中症になるだろう。
「室内にいる時から自分の体調を自分でどうにもできないコンディションだったなら、外に出たらこうなるって分かってただろうに。それでも外に飛び出さなくちゃいけない理由が……何かあったんじゃない?」
お豊からしばらく返事はなかった。
夢子に勧められるがままコンビニ袋の中を覗いたお豊は、無言で中身を吟味している。楓太は楓太で咳で荒れた呼吸をなだめるために己の喉と必死に戦っているようだった。
ドンッ、と、すぐ近くで上がる花火の衝撃が夢子の体を震わせる。ドンッという破裂音の後に微かにバミンッという妙な音が聞こえるのは、金華山で反響した音も一緒になって伝わってくるからだ。
──珍しいな、21時過ぎても花火が上がってるって。
もしかしたら、強風か何かトラブルでもあってスケジュールが押しているのかもしれない。シュワシュワシュワと夜空に火花が散っていく音を聞きながら、夢子はチラリとそんなことを思った。
「……この話は、誰が望んだものでもなくてな」
そんな花火の残響に混ぜるかのように、お豊はヒソリと囁いた。コンビニの袋から抜かれた手には焼きそばパンが握られている。体調が戻ったお豊はとにかくお腹が空いていたのか、それとも総菜パンが物珍しいのか、何かお腹に入れた方がいいと夢子が食べ物を勧めてからずっと総菜パンばかりを手にしていた。
「少なくとも、妾や、先方は望んでおらぬ。今となっては我が母もこの縁は期待しておられないご様子。……何のためにこんなことをするのかと思ったら、急にすべてが嫌になってしまっての」
パンッと袋の口を開けたお豊ははむっと焼きそばパンにかじりついた。モグモグときちんと口を閉じて咀嚼する様は上品だが、Tシャツ姿で焼きそばパンにかじりつく姿はどこからどう見ても小学生にしか見えない。
「……そんな場所に放り込まれて、嘲笑われて、嫌な思いをするくらいならば……いっそ、倒れてもいいから逃げ出してやろうと思ったのじゃ」
だが何かを諦めたように笑う表情と語られる言葉は、確かにお豊が言う通り大人にしか扱えない代物だった。
そんなお豊を見つめて、お豊の言葉を胸で受け止めた夢子は、素直に疑問を口にする。
「誰も望んでいないって話だけど、お見合いって、誰かがその縁を求めたからするものなんじゃないの?」
「確かに最初は誰かが求めたのであろう。恐らくは、妾の親族の内の誰かじゃ。しかし、話がこじれにこじれた今となっては、もはや誰が言い出した話なのかも分からぬ」
「えっと……。玉の輿狙いとか、そういう感じ、なのかな?」
「妾自身が求めた話ではないが、まぁ、簡単に言ってしまえばそういう物であろうな。より上位の存在との縁を求めて縁談を捻じ込む。そこはヒトも妾達も変わらぬもの」
「……ふーん?」
──つまり、お豊ちゃんにとっては望まない縁談で、政略結婚? みたいな?
お豊の親戚の内の誰かが企んで、相手側に無理を言ってお見合いにこぎつけた。『こじれにこじれた』はその過程でかなりの無茶を押し通した結果なのだろう。そんな風にセッティングされた席だから、相手側もお豊を始め、お豊の親族にも、この話自体にも良い印象を抱いていない。
恐らく、そういう解釈で大体合っているのだろう。
──お豊ちゃん、大変だっただろうなぁ……
お豊が置かれた状況を想像してみた夢子は、針の筵具合に思わずまったく関係ない自分の胃がキリキリ痛むのを感じた。
相手の方が格上のようだし、お豊の親戚の無茶通しや無礼があったならば、列席していた向こうの親族に冷たい視線を向けられることも、分かりやすい嫌味を言われる場面もあっただろう。
お豊当人がやったことではなく、ましてやお豊当人が望んだ席ではなくても、相手の敵意は分かりやすくお豊当人に向いたはずだ。
望まぬ席に連れてこられたあげく、そんな扱いをされたら、誰だってメンタルをやられて会場から死を覚悟で飛び出したくもなる。
──おまけに事を荒立てた親族当人達は、もう熱が冷めててどうでもよくなってて、援護射撃もなかったわけでしょ? そりゃもうやってらんないよ。
誰も望んでいない縁談。巻き込まれた側でありながら、後始末を全て押し付けられて、独りで矢面に立つことになってしまったお豊。
これはもうこのままお豊を実家に帰して、穏便に破談に持っていく道を考えた方が、みんなが幸せになれるんじゃないかと夢子は思う。
──ん? でも、ちょっと待ってよ?
「ねぇ、お豊ちゃん。先方の、縁談を受ける御本人とはお話できた?」
ふと疑問を抱いた夢子は、この問いも素直にお豊にぶつけた。また一口焼きそばパンにかじりついたお豊は、口の中の物をきちんと飲み込んでから夢子の問いに答える。
「しておらぬ。顔は合わせたが、直接言葉を交わせるような状況ではなかったでな」
「あの、もしかしたら、なんだけどさ……」
夢子は自分の考えを口にする前に一度チラリと楓太を見遣った。ようやく喉の調子が落ち着いてきたのか、楓太は小さくコホコホと咳き込みながらも夢子の言葉に耳を傾けている。
そんな楓太が、コクリと、夢子の背中を押すように小さく頷いた。その頷きに小さく頷き返した夢子は、お豊に視線を据え直して続く言葉を口にする。
「もしかしたら、先方のご本人は、お豊ちゃんと会うのを楽しみにしてたんじゃないかな?」
「え……」
「だって、お見合いって、就職面接みたいに一方的な希望で面会にこぎつけられるわけじゃないじゃん? こっちがいくら相手に会いたいって言っても、向こうが『会いたくありません、結構です』って言ったら、成立しないものなんでしょ?」
「しゅ、シュウショクメンセツ?」
夢子の言葉にお豊が目を白黒させる。
──あ。そういう存在でさらにお嬢様っぽいお豊ちゃんには、このたとえじゃ通じなかったかな?
だがまだ大学生である夢子にしてみれば『お見合い』という領域の方が未知すぎて分からない。お見合い結婚だった両親の話をチラッと聞いたことがあるのと、後はせいぜい漫画や小説に出てくるイメージが情報源で、リアルなお見合い事情なんてイチミリも知らない。
だからこの際、すれ違ったままでもいいかと考えた夢子は、ひとまず自分の考えを伝えてみることにした。
「だからさ、お相手側の誰もがお豊ちゃんに会いたくないって思ってたら、このお見合いはそもそもセッティングされなかったと思うんだ。向こう側にも誰か、このお見合いを受けるか受けないか口を出せる立場の人の中に、お豊ちゃんに会ってみたいって思った人がいるんじゃないかな?」
夢子の勝手な想像だが、お見合いは双方の合意がないと決行できないというイメージがある。
どれだけ話がこじれていようとも、お豊の親戚が話を捻じ込もうとも、先方にお豊に会ってみたいという気持ちがなければ、席が設けられることはなくこの話は終わったはずだ。
ましてや先方の方が格上でこじれにこじれた話ともなれば、向こうから一方的に『この話はもうなしで』と叩き潰しにきていてもおかしくはない。
つまり先方の誰かが……このお見合いの進行に口を出せるくらいには近しい誰かが、お豊と先方の縁を望んだということにはならないだろうか、というのが夢子の推察だ。
「その『誰か』が、お豊ちゃんの縁談相手御本人っていう可能性って、なきにしもあらずだと思わない?」
夢子の推論に耳を傾けてくれていたお豊は、夢子の問いかけに目を丸くした。
「え……いや、でも……」
「話が進むかどうかは別として、ご本人に会ってみて話をしてみるっていうのは損にならないと、私は思うんだけども……。話してみて、この人は嫌だって思ったら、キッパリ断るっていうのも手じゃないかな?」
それとも、お見合いというものは『会う』という行為それ自体が相手へのOKになってしまうものなのだろうか。夢子が知らないだけで、会ってしまったら最後、必ず結婚しなければならないものなのだろうか。
「……先方の御子息は、少なくともお会いできるのを楽しみにしておられたように思われますよ」
『お見合い』という未知数な物を相手に頭上に疑問符を浮かべる夢子の向こうから、スルリと静かな声が入り込んできた。その声にハッとお豊が楓太を振り返る。
「だから、私の主様も私の同席を許可されたのでしょう。……御柱名代の、私を」
楓太は静かな顔でお豊のことを見つめていた。初めて真っ直ぐに楓太を見上げたのであろうお豊は、そんな楓太に射すくめられたかのように身を強張らせている。
「ぬ、主の同席は、末光の手配で……橿森殿の方には、関係がなかったのでは……」
「お話自体は末光から回ってきたものですが、お相手がお相手でしたので。主様にご相談して、許可を頂いたうえで本日は同席させていただきました。私にとって貴女様方は確かに同族に当たりますが、関係性で言えば橿森様の方が私にとっては近しい御方ですので」
──ん? どゆこと?
いきなり飛び出てきた聞き慣れない名前に夢子は首を傾げた。
『橿森殿』やら『主様』というのは、一体誰のことを指すのだろうか。『末光』というのは、多分楓太を巻きこんだ御近所さんのことだと思うのだが。とりあえず、何やら楓太の方にも夢子に説明していなかった事情があるらしい。
──えっと、つまり楓太さんは、お豊ちゃんとはとても遠い親戚関係にあって、お相手側の関係者とは主従関係……? えっと、上司と部下とか、そんな感じでいいのかな?
閑古鳥の鳴く和カフェ店主に上司やら主やらなんているのだろうか。チェーン店ならSVやらエリアマネージャーやらがいるかもしれないが、『ふなば』がフランチャイズやチェーンであるという話は聞いたことがないし、それは絶対にないと思う。
──まぁいっか。今そこは重要じゃないし。
多分楓太は今回も詳しい事情を説明してはくれないだろうし、分からない部分は勝手に想像するしかない。想像ができなかったら勝手に納得するしかない。夢子は夢子で、自分の領域から勝手に援護射撃をするまでだ。
「お豊ちゃん。私、完全に部外者だし、事情も全然知らないから『何言ってんだこいつ』って思うかもしれないんだけど」
夢子は気になる楓太側の事情を一度頭から締め出すと、もう一度お豊に向き直った。ゆっくりと夢子に視線を据え直したお豊の瞳はユラユラと感情の波で揺れている。
「嫌なことって、『嫌だ』って言ってもいいと思う。だけど、その嫌なことが本当に『嫌なこと』なのかをきちんと確かめるより前に『嫌だ』って言っちゃうのは、何だか損をするような気がするんだ」
戸惑い、驚き、悲しみ、怒り。
お豊の瞳を揺らしているのは、一体どんな感情なのだろうか。
「あのね、私も最近教えてもらったことなんだけど。……他人って、案外、自分が思っているほど、自分に期待なんてしていないんだって」
夢子は、お豊のことを知らない。まだ初めて出会ってから2時間しか経っていなくて、交わした言葉だって少ない。
だけど夢子には、何となくお豊の心を塞ぐ感情の輪郭が、おぼろげにだが分かるような気がしていた。
「完璧も求めていない。最初から『こんなもんだろう』って思ってる。どれだけこちらが完璧だと思う振る舞いを見せても、失望する時は向こうは勝手に失望するし、逆にこっちが失敗したって思った時でも、すごいと思う時は向こうが勝手にすごいと思うものなんだって。初めて顔を会わせる相手だって、よっぽどのことがない限り、こっちにそんな期待をかけていることなんてないんだって」
敵地とも言えるお見合いの場。味方からの援護は絶望的。相手は自分に良い印象を抱いていないということが分かり切っていて、自分の親族が『もはや縁を望んでいない』とうっすら覚りつつも、複雑な成り行きと感情はお豊の肩に『この場を成功させなければ』という重い期待となってのしかかっていたはずだ。
完璧に振る舞わなければ。自分を良く見せなければ。
失敗すれば、きっと自分だけではなく、一族郎党まとめて相手に嘲笑われる。きっと後ろ指を指されて、お開きになった後には向こうの親族の間でクスクスと嗤われる。
自分の面子はどうなるのか。どんな顔をして自分は親族の中に帰っていけばいいのか。
──怖い、よね。
それは、勝手に湧き上がってくる感情だ。どれだけ考えてはいけないと押さえつけても、勝手に湧き上がる恐怖だ。『心配』よりも強く心を絡め取って、心を削っていく厄介な感情。
同じものが、最近まで……何なら今でも、夢子の中にもある。
「……ね、焼きそばパンも、コロッケパンも、ウインナーパンも、美味しかったでしょう?」
夢子はお豊の手の中に視線を向けた。お豊の手の中に残った焼きそばパンは、いつの間にか最後の欠片を残すのみとなっている。コロッケパンとウインナーパンは、もうとっくの昔にお豊のお腹の中だ。どれも最初は尻込みしていたお豊だったが、一口口をつけてからは目を輝かせて食べていた。
「でも、お豊ちゃんは、今日までどれも食べたことはなかったよね?」
「……ああ」
「お見合いもさ、きっとそんな感じだよ。直接口にしてみるまで分からない。もっと気楽に対面してみたらいいんじゃないかな?」
そう伝えて、夢子はチラリと楓太に視線を投げる。
──そうですよね? 楓太さん。
夢子の視線を受けた楓太は、お豊に気付かれないように夢子に笑みを返してくれた。涼やかさの中にいつもより多く嬉しさを混ぜた、とっておきの笑みを。
──そっか。楓太さんは、相手側とも繋がりがあったから、相手側がどう思ってるかも、事前にリサーチしてたんだ。
先程楓太は、お豊側とは親戚繋がりで、だが相手側の方がより関係が近しい、というようなことを口にしていた。
仮に先方の当事者がこのお見合いに乗り気でなかったとしたら、楓太はお豊の気持ちを察した瞬間にすみやかにこのお見合いの席が終わるように取り計らったことだろう。お豊が逃亡したら捕まえるどころか逃亡の手伝いくらいしたかもしれない。夢子が知っている楓太はそういう人だ。
楓太は、会ってみたいと望んでいる先方と、会った所で意味などないと最初から絶望していたお豊、この二人が出会う前からすれ違っていることに気付いていた。だからお豊のわだかまりを解して、先方に向き合ってもらいたいと願って、お豊と歩み寄ることを望んでいた。
──それが自力では難しいと判断したから、私を呼んでくれた。
今までお店で、一緒に事件を解決してきた時と同じように。
「会ってみて、やっぱり嫌だって思ったなら、そこで直接『この話はなかったことに』って伝えようよ。思っていたよりもいい人だなって思えたら儲けもんってことで」
「そんな、簡単に……」
「いいんじゃない? だって人生は一度きりで、その一度きりを私達は自分の責任で、後悔がないように生きていかなきゃいけないんだから」
夢子の言葉に今度こそお豊は言葉を失ったようだった。
そんな夢子とお豊を見つめて、楓太は心底嬉しそうな笑みを浮かべる。
「豊川様のお嬢様」
そんな楓太が、どこか誇らしげに声を上げた。
「彼女、すごいでしょ?」
その言葉に夢子は目を瞬かせる。
夢子にはなぜこの流れで楓太の口からそんな言葉が出てきたのかさっぱり分からなかった。だがお豊はその短い言葉で楓太が言いたいことが分かったのか、体中から空気が抜けていくんじゃないかと思うほど大きく息を吐き出す。
「主がなぜ夢子をこの場に呼んだのか、ようやく意味が分かったわ」
「あげませんからね?」
「取らぬさ。主の大切な宝じゃ。慈しめ」
──え、ちょっ!? どーゆーことっ!?
『なんかこんな掛け合い、前にも聞いたことあるな!?』と思いながらもいいツッコミが思い浮かばなかった夢子は無言のまま両手を胸の前でバタバタと動かす。
そんな夢子の動きで場が和んだわけでもないだろうが、何やら気負っていた物が消えた風情があるお豊が最後の焼きそばパンを飲み込んでから口を開いた。
「しかし、改めて臨もうにも、今日はもう無理じゃろうな。飛び出してきてから時間が経ちすぎた上に、どの面下げてあの席に戻れようか」
その言葉に夢子は思わず時計を探して首を巡らせた。
──えっと、今、何時?
夢子が合流してからすでに2時間近くが経つのだ。お豊がお見合い会場を飛び出してから楓太がどれくらいでお豊を確保したのかは分からないが、とにかく2時間以上先方を待たせてしまっていることは確かだろう。
そもそも2時間ともなると、待っていてくれているのかという所からしてもう怪しい。怒り狂った先方がすでに引き上げているという可能性もなきにしもあらずだ。
「それもありますし、できることなら親族やら関係者やらは抜きにして、御二方にはお互いだけで、肩肘張らずに素をさらけ出し合ってお話してもらいたいんですよねぇ」
お豊の声に楓太がさらに言葉を乗せる。
そんな二人の言葉に夢子はふむ、と考え込んだ。
──お豊ちゃんは乗り気になったけど、お見合い自体はもうお開きになっちゃってて、会場が残っていてもお豊ちゃんはそこに戻ると大バッシングを受けかねないってこと、だよね?
当事者二人だけでの顔合わせとなると、お相手だけをひっそり呼び出すことになる。そこは楓太が関係者のようだから楓太に何とかしてもらうとして、問題は場所だろう。
今の時間から二人がゆっくり話し合えるような場所がどこかにあればいいのだが、時間も時間なだけに、今から急に席を用意するというのはどこも難しいのでは……
「……あ」
その瞬間、夢子の頭に閃きが走った。
その勢いのまま夢子は楓太を仰ぎ見る。
「楓太さん」
「ん?」
「先方に連絡して、ご本人だけを呼び出すことってできそうですか?」
夢子の言葉に楓太がハタハタと目を瞬かせた。
だが楓太の顔に疑問が浮かんだのは一瞬だけだった。すぐに夢子が言わんとすることを察した楓太は大きく目を見開き、次いで嬉しそうに顔をほころばせる。
「大丈夫。何せ僕は、この町のお稲荷さんだからね」
『任せて』と微笑む楓太に笑みで答えた夢子は、ピョンッと立ち上がるとお豊の手を取った。夢子の手に引かれて立ち上がったお豊は一人会話から取り残されて目を白黒させている。
「仕切り直そう、お豊ちゃん。今からが本番だよ!」
「じゃ、じゃが……っ!」
「大丈夫! とっておきのお店を紹介するから!」
夢子の言葉に答えるかのように、花火大会の終幕を彩る特大スターマインが上がる。
「和カフェ『ふなば』、本日は今から開店ですっ!」




