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フッと目を開いた瞬間、真っ先に耳に届いたのは空気に溶け込むように流れるピアノの音だった。
ゆっくり目をしばたたかせてみても強烈な日差しのまぶしさを感じない。冷えすぎだと思えるほど強烈な冷気が体に吹き付けていて、今はそれが心地よく思える。
夢子はぼんやりしたままコテン、と首を横に倒した。
奥に向かって伸びるカウンターと、その前にお行儀よく並べられたスツール。反対側の壁際にはテーブル席が3つ。
間口に対して奥行きが長い、いわゆる『鰻の寝床』と言われる家の造りは、岐阜城下の古い町家に見られる典型的な造りだ。
「……っ、!?」
そこまで思ってから夢子はハッと我に帰った。反射的に立ち上がろうとするが、派手に膝をテーブルにぶつけて逆にソファーに身を沈めてしまう。入口横の空間に店表の壁に接するように配された席であるためか、スペース的な問題でどうやら他の席よりソファーとテーブルの配置が窮屈であるらしい。
──どうなってんのっ!? ここどこっ!? 喫茶店……!?
「……やぁ、目が覚めたみたいだね」
突き抜けるような膝の痛みと入った覚えのない喫茶店に思わず半泣きになった瞬間、カウンター奥にかかったのれんがサラリと払われた。
その向こうから現れた人物が目に入った瞬間、夢子はポカリと口を開いたま固まってしまう。
「気分はどう? 気持ち悪かったりしない?」
のれんの向こうから現れたのは、スラリと背の高いイケメンだった。
サラリと揺れる漆黒の髪も、切れ長でつり目気味な瞳も常に涼風を感じさせるような、まさに『ジャパニーズ・クールビューティー』を絵に書いたようなイケメンが、ラフな格好に似合わない黒塗りの盆に、水が入ったグラスを乗せて夢子の方へ歩み寄ってくる。
──そんな高級品のお盆を給仕に使うなら、Tシャツにジーパンより和服姿の方が似合うと思いますよ?
そんなどこかずれた感想を胸中で転がす夢子に構わずカウンターを出て夢子がいるテーブル席まで寄ってきた青年は、静かな挙措で夢子の前にグラスを置くとわずかに顔を曇らせた。
「まだまだ初夏といえども油断は禁物だよ。特に今シーズンはまだ暑さに体が慣れてないからね。暑さに耐性のある生粋の岐阜市民であっても、この時期は弱いんだよ」
しっとりと耳に優しい声まで、どこか涼やかだ。
この声を、この店に入る前、どこかで聞いたような……? と首を傾げた夢子は、すぐに気を失う前の事を思い出した。
反射的に立ち上がろうとするが、今度はクラリと視界が揺れてソファーに逆戻りしてしまう。
「だから、無理しないで。君、僕が声をかけた時も、そんなフラフラな状態なのに『いえ! 大丈夫ですから!』なんて言ったんだよ?」
「そ……そうだったんですか?」
「あれ? 覚えてない? 『せめて涼んでいってください』って言葉を振り切ろうとしたことも?」
「す、すみません……」
まったくもって覚えていない。内心では盛大に助けを求めていたのに土壇場ギリギリでも『大丈夫です!』と言っていたとは、さすがに自分でも予想していなかった。
──なんっていうか……これが世に言う『体面を気にする悲しい日本人の性』ってやつ?
「何はともあれ、こうして助かったんだから良かった。良かったらお水飲んでね。しっかり涼んでいって」
「ありがとうございます……」
夢子がそっと頭を下げると青年はニコリと笑みをこぼした。笑みまで涼やかな青年に夢子の心臓が暑気とは違うものに飛び上がる。
──つり目なのに笑うと幼く見えるイケメンさんって、ちょっと反則じゃないっ!?
……たとえ足元がトイレに置いてありそうな下駄を適当につっかけただけという、適当きわまりない姿であろうとも。
バランスの取りにくそうな下駄を器用にカッコカッコと鳴らしながらイケメンは店の奥へ引き返していく。その姿を横目で眺めながら、夢子はテーブルに置かれたグラスを手に取った。喫茶店よりも居酒屋にあった方が似合いそうなグラスは、よくよく見ればうっすらと有名ビールメーカーのロゴが入っている。
──これ、プリントしてあったロゴがはげてるよね? ……かなり、使い古してる?
高い位置に取られた窓から淡く降り注ぐ光にコップを透かしてみてから、夢子はありがたくグラスに口をつけた。キンと冷えた水がまだ熱さを残す夢子の体を内側から冷やしてくれる。
「あー……おいしいっ!!」
「生粋の岐阜っ子でも、ただの水道水に対してそう思える瞬間ってあるよね」
「他の地域だと飲み水は買ってくるもので、水道水は飲まないってこともあるらしいですもんね」
「ずっと長良川水系にいる人間には、馴染みのない習慣だよね」
「ほんとにそうで……って」
そこまでノリと勢いで答えた夢子は、ふと疑問を覚えて言葉を止めた。そんな夢子に疑問を投じるかのように飲み干したグラスの中でカランッと氷が音を鳴らす。
「どうして私が『生粋の岐阜っ子』って分かったんですか?」
「ん? 岐阜っ子でしょ?」
「そ、そうですけど……」
思い返せば目が覚めてすぐの発言でも『この時期は生粋の岐阜市民でも』というようなことを言っていた。
気を失っていた夢子は出身地はおろか名前さえ名乗っていなかったはずなのに、なぜこの青年は夢子が長良川水系……長良川から取水した水が自宅の水道から出るエリア、すなわちこの周辺に住んでいる、生まれも育ちも岐阜市の人間であるということが分かったのだろうか。
──まさか私、正体なくしてた間にそんなことまで喋ってたっ!?
「ん。最初にそう思ったのは、君が乗ってた自転車を見た時」
顔色をなくした夢子を心配したのか、単に空になったグラスに水を注ごうと思っただけなのか、青年は注ぎ口が優雅な曲線を描く銀のポットを片手に再びホールに出てきた。カッコカッコと独特な音を鳴らしながら器用に歩く青年は、特にもったいぶることもなく夢子に『謎解き』を披露してくれる。
「後輪のカバーの所に、駅の市営駐輪場のシールが貼ってあるのを見たんだ。7月期限までのね。駅に駐輪場の定期契約をしているということは、通学か通勤に自転車を使っているということ。通勤に使っている社会人さんなら、一番割引が効く6ヶ月契約か、交通費の申請の都合で1ヶ月契約かなって。4月から3ヶ月で契約するのは、7月半ばから試験や夏休みで駅を利用しなくなる大学生さんが多い。つまり自転車の主は、JRか名鉄の駅まで自転車で通える範囲に住んでる、地元っ子の大学生である可能性が高い」
テーブルの隣に立った青年は、細く優雅な曲線を描くポットを傾けてグラスに水を注いでくれる。水滴をまとった銀と、汗をかいたグラスで複雑に反射した光が、どことなく季節はもう春ではないのだと主張しているような気がした。
そんな光景とカラカラと氷が立てる涼やかな音に引き込まれていた夢子は、ふと意地の悪いことを思いついて口を開いた。
「それだけで判断するの、早すぎません? 逆の可能性だってあるじゃないですか」
「逆?」
「電車で岐阜まで来て、自転車で目的地に向かってるって可能性もあるじゃないですか。夜間契約で駐輪場を使ってる高校生、結構いっぱいいますよ? 高校生だって7月末から夏休みだから、4月から3ヶ月契約をして、夏休みの駐輪場代を浮かせようとすると思います。今シーズンに7月期限の駐輪場のシールが貼ってあっても、それがこの辺りに住んでいる大学生だって断言するのは早すぎるはずです!」
「あぁ、なるほど。駅から自転車で学校に通っている高校生さんや大学生さん、確かにいるもんね」
我ながら筋の通った反論に『どうだ!』と思わず胸を張る。そんな夢子の反論を受けた青年はポットを持っていない方の手をあごに添えると、宙に視線を投げてしばらく考えに沈んだ。夢子の反論にきちんと答えを考えてくれているらしい青年に、夢子の胸はワクワクと弾む。
『さぁ、どう返す!?』と期待に満ちた目を向ける夢子の前で数秒物思いにふけった青年は、ニコリと再び穏やかな笑みを宿すと夢子へ視線を戻した。
「でもやっぱり、それはないかな」
「どうしてですか?」
「岐阜県警の防犯登録と、柳ヶ瀬にある自転車屋さんのステッカーが貼ってあったから、君が乗ってた自転車はここの近場で買われた物だ。車体が新しかったら通学のために現地調達した物かもって思うけど、あの自転車、綺麗に手入れしてあるけど、ペダルのすり減り加減からして相当乗り込んでるよね? 随分昔にこの辺りで買った自転車を、駅に定期契約で停めて通学に使っているのは、やっぱりこの周辺に住んでる生粋の岐阜っ子だと思わない?」
「……生粋かどうかは」
「まぁ、可能性を上げだしたらきりがないから、最終的には勘というか、最初に言った時は『多分そうだろうなぁ』っていう程度だったんだけども。確信に変わったのは水の話になった時かな。『他の地域だと飲み水は買ってくるもので、水道水は飲まないってこともあるらしいですもんね』って、随分他人事な言い方をしていたから」
それに、夜間契約の自転車だとしたら、夏休み中ずっと駐輪場に停めておくわけだから、長期休暇中ほどしっかり定期料金を払っておくと思うんだよね。長期休暇中に更新月を過ぎちゃうと定期料金未納って判定されて強制撤去されちゃうわけだし、と青年は謎解きをしめくくった。
『どうかな?』と小首を傾げて楽しそうに微笑む様も、謎解きの内容にもぐうの音も出なかった夢子は、ここでようやく青年に対して白旗を上げる。
「完敗です……。意地悪なことを言って、すみませんでした」
「いえいえ。随分利発なお嬢さんだなって、思わず感心したよ」
──『お嬢さん』ってなによー!! そんなに歳変わらなさそうなのにぃっ!! くぅぅっ!! 私、意地の悪い反論して楽しんでたのに、そんな私のフォローまでしてくれるなんて、性格までイケメンかよっ!?
頭の回転が早くてイケメンでおまけに性格もいい人間なんて、テレビかネットの中にしかいないと思っていた。……目の前にいるイケメンは、足元というか全身の格好に、ほんのりズボラさ加減がにじみ出ているような気がするけども。
何だかいたたまれなくなった夢子は、ヤケ酒ならぬヤケ水を勢いよくあおる。そんな夢子を眺めてまた青年がニコリと笑った気がして、夢子は必死にグラスの中の氷に意識を向けてほてりそうになる自分をごまかした。
──あれ? そういえば、こんなイケメンの店員さんがいて、今日は祝日で休みだっていうのに、どうしてここにはお客さんがいないんだろう? 近所で評判になっててもいいだろうに……
「それで? どうしてそんな利発なお嬢さんが、熱中症になりかけながらこんな時間に出歩いていたの?」
ふと疑問を抱いたが、夢子がその疑問を口に出すよりも青年から問いが飛んでくる方が早かった。
グラスをテーブルに戻しながら声の方へ視線を投げれば、青年は再びカウンターの中に立っている。カッコカッコと独特な足音を響かせながらカウンターに入った青年は、先ほども見せた『どうかな?』な微笑みを再び夢子に向けていた。微かに微笑みながら小首を傾げて人の答えを待つのは、もしかしたら彼のクセなのかもしれない。
「あれだけの切り返しを見せた君が、こうなることを予想できてなかったとは思えないんだけども?」
「あ……その……」
思いがけず親しげに問いを投げてくれるイケメンに、今更どうやって答えればいいのかと夢子は視線をさ迷わせる。
『関係ないですよね?』と冷たく返すには遅すぎるような気がするし、何より命の恩人にそんな失礼な受け答えはしたくない。かと言って熱中症で倒れかけた理由を……最近の夢子の悩みを打ち明けるのは、何だか違うような気がする。何より、いくら話好きな人であっても、出会ってまだ1時間も経っていないような人間からこんな話を聞かされるのは迷惑ではないだろうか。
言葉に迷う夢子の手の中のグラスが、カランッといい音を立てる。
「……卒論の題材が、決まらなくて……」
その瞬間、言葉は勝手に夢子の唇からこぼれ落ちていた。思わず反射的に唇に手を当てて無理やり動きを止めるが、言葉を発してしまったあとでは遅すぎる。
まるで氷の音に呼ばれたかのように、夢子の悩みは勝手に夢子の口から飛び出ていた。慌ててカウンターの中の青年に視線を向ければ、青年は夢子の言葉に目をしばたたかせている。
「卒論の題材?」
「え、う……、はい」
「卒論って、卒業論文ってやつだよね? 理系の学生さんが、卒業する時にやるやつ」
「あ……文系でも、時々、ある、らしい……です」
──なんで!? 何で私言っちゃった!? 言わない方向でいこうと必死に考えてたはずなのにっ!!
「僕、大学には行ってないから、そういうことってよく分からないんだ。良かったら、詳しく教えてくれないかな?」
「え……でも、お店……」
「元々ヒトの来ない店だし、ましてやこの暑さだから。今日はもう開店休業状態だと思うよ?」
「う、あ……た、楽しい話じゃない……です……」
「僕ね、この町の『お稲荷さん』でいたいんだ」
「へ?」
必死に話さなくていい方向への反論を考えていた夢子は、突拍子もない言葉に気の抜けた声を上げていた。
今、このイケメンは何と言ったか。何だかナナメ45゜以上上の言葉が返ってきたような気がしたのだが。
『お稲荷さん』って、あの朱色の鳥居がたくさん並ぶあの神社のことだろうか。まさかお寿司の方じゃあるまいな、と怪訝な表情を向ける夢子に、青年はまたあの微笑みを浮かべながら小首を傾げた。おまけに今度は親指・中指・薬指の先をちょんっと合わせたお狐様サインつきで。
「みんなの身近にある、頼りになるカミサマ。とりあえず近所のお稲荷さんに祈っておけば、何だかいいことがありそうな気がしない?」
「……お稲荷さんの得意分野は、商売繁盛とか五穀豊穣とか、そういう系のことだったと思うんですけど」
学業に関することなら、菅原道真公を御祭神に祀る天神さんの専門分野ではないだろうか。ここから一番近い天神さんだと、長良天神になるのだろうか。それとも加納天満宮か。残念ながらこの辺りの天神さんにお参りしたことがないから分からない。
「まぁまぁ、そうつれないことを言わないで。よく知らない相手にだからこそ、話せることってあるでしょ? 『話す』は『放す』。話すことで悩みを少しでも手放せたらいいと思わない?」
「は……はぁ……」
『話す』は『離す』。
確かに、悪い夢を見た時は人に話すと正夢にならないというし、話すことで感情の整理がつくこともある。
青年の言うことにも一理あるのか、と思った瞬間、夢子の負けは決まったようなものだった。
納得しかけた夢子の内心を短い相槌で察したのか、青年はあの独特な笑みを深めるとコンコンッと指の背で自分の目の前のカウンターを叩く。どうやら『ここに座り直して話せ』と主張しているらしい。
「……本当に、面白い話じゃないんですからね」
最後の抵抗とばかりにグラスを両手で握りしめて青年を見上げる。だがそんな夢子の苦い声にも青年の笑顔は揺るがない。
「面白い話ばかりじゃつまらないじゃない。人生と一緒」
そう言ってまた小首を傾げる青年にじとっとした視線を向け、夢子は溜め息とともに腰を上げた。
そういえば、と思い立ったのは、立ち上がった衝撃でグラスの中の氷がまたカランッと澄んだ音を立ててからだった。
「私、小橋夢子っていいます。お名前、うかがってもいいですか?」
「あぁ、まだ名乗ってなかったか」
若干なげやりぎみな夢子の言葉に、青年はわずかに姿勢を正した。
感情の色と雰囲気をわずかに変えた青年に思わず夢子まで姿勢を正すと、青年は涼やかな声で夢子に名前を……己と繋がる縁を教えてくれる。
「僕の名前は、稲波楓太。名字で呼ばれるのは恐縮しちゃうから、名前で呼んでね」
「名字が恐縮……?」
「ほら、この辺りで『イナバさん』だと……」
「……あぁ、伊奈波神社」
「そ。末社でしかない僕が主祭神様と同じ音で呼ばれるなんて、立場上マズいじゃない?」
この一帯で一番大きな神社の愛称と音が被って恐縮だから、名字で呼ぶのはやめてほしい。
微笑みながらも真剣にそう主張する青年……楓太に、夢子はもうひとつ溜め息を転がした。
「……お稲荷さん設定、そこでも引きずってるんですね……」
そういえば伊奈波神社の境内の中に小さなお稲荷さんがあったよな、と思いつつも、夢子の内心を満たしたのは店内にお客さんの姿が見えないことへの納得だった。
──きっと、この浮世離れした変人さ加減が原因に違いない。
そう決めつけながらも、夢子はカウンターを挟んで楓太の正面に座ると、最初の縁の糸となる言葉を紡いだのだった。