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「すみませんっ! 遅くなりましたっ!」
夢子がメディアコスモスに駆け込んだ時、周囲は夕焼けの残光をうっすらと残してほとんどが宵闇の中に沈んでいた。
楓太から電話をもらって、部屋着から着替えてすぐに家を出たのだが、いよいよ多くなってきた花火見物客を抜けて橋を渡ってくるまでに大分時間がかかってしまった。
自転車を使えば10分とかからない距離なのだが、これだけ人でごった返している中では自転車に乗った方が逆に時間がかかる。人混みを避けて歩いてきたのだが、気付けば電話をもらってから30分近く経ってしまっていた。
1階にホールや市民交流センター、2階に市立図書館が入った市の複合文化施設であるメディアコスモスは、外が花火大会の熱気で賑わっていても落ち着いた空気を湛えていた。普段より若干人出は多いが、人の熱と昼に蓄えた太陽の暑さで蒸し返す外よりは断然居心地がいい。
曲線を多用したデザインと壁が少なくて天井が高い造りは現代的で開放的だ。建てられてからまだ新しいせいか、空間が広いのに空調はきちんと効いていて、建材に使われているヒノキのいい香りが心地よく来館者の胸を満たしてくれる。
「ううん、いきなり呼び出してごめんね」
そんな中、外の植樹帯の緑も美しい窓際にたたずんでいた楓太は、夢子の姿を見つけると曇らせていた顔にパッと笑みを咲かせて手を振ってくれた。
そんな楓太の姿を見た夢子は、衝撃に思わずそのまま崩れ落ちそうになる。
──ゆ、浴衣ぁぁぁぁぁっ!! まさかの浴衣ぁぁぁぁぁぁぁっ!!
本日の楓太が纏っていたのは、薄墨色の地に裾の方にだけ白く流水紋が染め抜かれた涼やかな浴衣だった。帯は黒で、足元もいつもの適当な下駄ではなく白木に黒い鼻緒の二枚歯下駄を履いている。さらにトドメに帯には鈍く金色に光る扇子が差し込まれていた。
──あああああありがとうございます……っ!! ありがとうございますぅぅぅぅっ!!
作務衣であれだけの破壊力があったのだから、浴衣など着てこられた破壊力は計り知れない。もはや夢子の乙女メーターは木っ端みじんだ。『萌え死ぬ』という感覚を、夢子はこの時初めて体感した。
──素敵すぎる……逆に普段がああいう適当な格好で良かった……初手からこんな格好された日には、熱中症じゃなくて萌えの過剰供給で死んでたわ……
「こんな時に頼れるの、夢子ちゃんしかいないから……」
そんな『楓太・夏の萌え祭』で勝手に壊れかけていた夢子は、楓太の弱り切った声で我に返った。
──い、いけないいけない。楓太さんが困っているのにこんなことでは……っ!
夢子は一度目を閉じると深呼吸をして跳ね回る心を落ち着ける。数度そのまま深呼吸を繰り返すと、なんとか平静を保てるテンションまで心をなだめることができた。そんな自分を確かめてから、夢子はゆっくりと目を開く。
そこでようやく夢子は、楓太の隣にあるベンチに腰掛ける少女の存在に気付いた。
──うわぁ……こちらもすっごい美人さんだ……
畳敷きの大きなベンチの端にチョコンと腰かけていたのは、どこか楓太に雰囲気が似た絶世の美少女だった。慌ただしく登場した夢子に一切視線を向けることなく凜と背筋を伸ばして座り、わずかに瞳を伏せたその容貌はまさに『日本人形のような』という形容そのままの美しさだ。
恐らく彼女が楓太のご近所さんの遠い親戚にしてお見合いに臨む張本人……なのだろうが。
──え? いや、でもこの子……
「……楓太さん」
夢子は思わずスススッと楓太の傍に寄った。夢子が言いたいことをすでに察しているのか、楓太は若干やつれた顔で夢子の方へ頭を傾けてくれる。
そんな楓太の耳元に口を寄せて、夢子はヒソヒソと囁いた。
「あの、……彼女、お見合いに臨むには、ちょっと……」
「……うん。言いたいことは分かる。すごーくよく分かるよ、夢子ちゃん。でも……」
「見目が幼く見えるからと言って、実年齢まで幼いわけでない。我らの間ではよくあることぞ」
「ひゃいっ!?」
不意に会話に割って入ってきた耳慣れない声に夢子は思わず肩を跳ねさせた。あまりに勢いよく跳ねさせたせいか、つられて楓太の肩までビクリと跳ねる。
そんな二人に視線も向けないまま、声の主である美少女は淡々と言葉を続けた。
「楓、それくらいのこと、連れ合いならば教えておけ」
「連れ合いというわけではないんですが……」
その声に楓太が小さく反論する。だが美少女はゆったりと瞳を閉じて反応しない。そうしているとまるで等身大の日本人形が座っているかのようだ。
そう、お人形。
少女は美しかったが、まさにそんな表現が似合う、文字通り年端も行かない少女だった。
──10歳いってないよね? この感じ。小学校低学年って感じ、かな?
今宵の楓太の付き添い相手である美少女は、こんなに暑いのに豪華な振袖に身を包んでいた。
部分的に結い上げて流した黒髪には大きな摘み細工の髪飾り。帯回りもどうやって結んでいるのか分からないくらい華やかで、きっちり足袋を履いた足は底が高い木履に通されている。宙に浮いたままの足先は綺麗に揃えられていて、淑女として申し分ないその挙措が余計に外見とのアンバランスさを浮き彫りにしていた。
──『我らの間ではよくあること』って……やっぱり今回もそういう方々絡みなんですね……
「『外身は幼子でも中身は大人』と仰るなら、それ相応の行動を取っていただきたいのですが?」
『そしてそんな方々と遠縁とはいえ親戚関係にある楓太さんは一体何者ですか?』という疑問を胸の中で転がす夢子の隣で、楓太が苦虫を噛み潰したような顔で口を開いた。
「気が乗らないからって『少し外の空気を吸いたい』なんて言って会食の場から逃げ出すのが、いい歳した大人のやることなんですか? 私達がどれだけ必死に探し回ったと思っているんです」
「……末光だけなら撒けたものを。余計な見張りを増やしおって」
「豊川様のお嬢様?」
相変わらず美少女は楓太の方を見ようとしない。ここまでそんな美少女に散々振り回されてきたのか、楓太は常にないほど圧のある声で美少女の名前らしき物を呼ぶ。それでも反応しようとしない美少女に楓太がツイッと瞳を細めた。
──怒ってる……これは間違いなく楓太さん怒ってるよ……っ!
そんな二人の様子にヒャッ! と夢子の胸が冷える。
そもそもの前提として、楓太は最初からこの用事に乗り気ではなかった。それでも親戚筋のお偉いさんが相手だったから、溜め息をつきつつも表面上は穏やかに少女と顔合わせをしたのだろう。
楓太が少女に付き従っているということは、本日の楓太のお役目は『お見合い現場の立ち合い』というよりも『美少女の世話役』だったのではないだろうか。楓太の言葉遣いからも、この美少女が楓太から見てかなり目上の存在であることは分かる。楓太は乗り気ではなかったものの、それでも引き受けたからには精一杯美少女をもてなそうとしたはずだ。
だが今までの態度と会話から察するに、美少女はそんな楓太に応えることはなく、今に至るまで険悪な姿勢を貫いてきたのだろう。あまつさえ楓太の目を盗んでお見合い会場から逃走し、楓太の手を煩わせることになった。
──そういえば、あの手……
よくよく見て見れば、先程から楓太の片手がずっと美少女の後ろ衿近くに固定されている。不自然な角度だな、と疑問には思っていたのだが、あれはもしかしたら美少女が再び逃げ出そうとした瞬間に衣紋が抜かれた後ろ衿に指を突っ込んで捕獲できるように備えているのではないだろうか。もしかしたら二人の関係は見えている以上に険悪なのかもしれない。
──多分、顔を合わせた瞬間から歩み寄れてないんだろうな、この感じ。
だから美少女を確保した楓太は、夢子に助けを求めたのだろう。自力では美少女の心を開くことはできないと考えたから。
そんな風に困った時に、楓太が自分のことを思い浮かべて頼ってくれたことが、夢子にはジンと心に染み入るくらい嬉しかった。
同時に夢子は、自分が呼ばれた『理由』を考える。
──つまり楓太さんには、この子に歩みよりたい『事情』が、何かあるんですね?
ずっと、家を飛び出した瞬間から考えていた。
なぜ楓太は、わざわざ夢子に助けを求めたのだろうかと。
──だって、ただ連れ戻すだけなら、わざわざ私を呼ぶ必要性なんてないもん。
美少女を確保して会場に連れ戻すだけならば、捕まえた瞬間に腕力に物を言わせて強制的に連れ帰って、以降は会場の警備を強化してしまえば事足りる。
楓太は夢子に電話をした時点ですでにこの美少女を捕獲していた。つまり楓太は美少女の確保・連行以外のことで助けが欲しくて夢子を呼んだのだ。
ならば何を意図して、楓太は夢子を呼んだのか。
『夢子ちゃん、年若い女の子の対処に慣れてたりしない?』
そのヒントは、楓太が電話を掛けてきた時に口にした言葉にあると思う。
あとは楓太の今までの行動と、性格から、『こんな時に楓太だったらどう考えるか』と考えると。
──この子の心をほぐして、解決してあげたい問題が、何かあるんじゃないかな?
夢子が知っている楓太は、目の前に明らかに何か問題を抱えている人がいたら、相手が誰であれ放っておくことができない人だ。
それこそ、見ず知らずの女子大学生が熱中症で倒れかけていたら迷わず声を掛けて、さらにはその女子大学生が悩みを抱えていたら話を聞こうとしてくれるくらいには。
このお見合いの話はすでに相当揉めていると楓太は言っていた。
もしも楓太が美少女と接する中で自分の助力で解きほぐせる『何か』を見つけたならば、その『何か』をほぐして美少女やその周りの心を軽くしてあげたいと願い、動いたはずだ。
──楓太さんは『身近にある、頼りになるカミサマ』だから。
おまけにちょっとお節介気質な。
──逆、かな? そういう楓太さんだからこそ、『身近にある、頼りになるカミサマ』なんだ、きっと。
たとえ気が乗らない用事の元凶が相手だったとしても。その相手が自分を煙たがっていようとも。自分がそんな相手に振り回されて腹を立てていても。
目の前に困っているヒトや心を痛めているヒトがいたら、放ってはおけない。それが、夢子の知っている楓太だ。
そんな楓太だったから、夢子は救われた。そんな楓太だったから夢子は楓太の役に立ちたいし、頼られたら嬉しく思う。
──さて。じゃあ私には、何ができるだろう?
困っている人がいるなら助けたい。それは夢子も一緒だ。
だが夢子には特殊能力があるわけではないし、コミュニケーション能力で言えば平均を割っているという自覚がある。見ず知らずの美少女といきなり引き合わされて心を開いてもらえるかと問われれば、かなり苦しいというのが正直な本音だった。
──どうしたもんかな……
夢子は内心だけで呟きながら、改めて美少女に視線を向ける。
その瞬間、夢子は違和感を覚えて目を瞬かせた。
──……顔色、悪い?
美しい横顔ときっちり施された化粧にばかり目が行って気付いていなかったが、少女の顔は全体的に血の気が下がって青白くなっていた。そのせいか肌の乾燥が妙に目に留まる。
ひとつ気付くと連鎖的に他のことにも気付くものなのか、よくよく見ると化粧が汗でよれていた。その割に今、露出している少女の肌に汗の気配はない。施設内の冷房で汗が引いたと考えるには妙に不自然な乾き具合だ。
──! もしかして……っ!
「失礼しますっ!」
目に入る情報をしばらく頭の中で転がした夢子は、ある可能性に思い至って慌てて少女の額に手を伸ばした。楓太に何を言われても凛としていた美少女もさすがに驚いたのか、ずっと伏せられていた瞳が丸く見開かれて夢子に向けられる。
その瞬間、傍から見ても分かるくらい大きく美少女の瞼が痙攣した。夢子が触れた額は人肌とは思えないくらい熱を発している。
──やっぱりそうだ……っ!
「楓太さん! そこのコンビニでスポドリ買ってきてくださいっ! あるかどうか分からないけど、できれば凍ってるやつ2、3本と、冷えてるやつが2本くらい欲しいですっ!」
夢子は背負ってきたリュックサックの中から自分の財布を抜き出すと楓太に押し付けた。そして自分は有無を言わさず美少女を肩に担ぎ上げる。抱えて持ち上げた少女の体は思っていた以上に軽くて、信じられないくらい熱くて、着物の上からでも分かるくらいじっとりと湿気っていた。
「私はその間にそこのトイレでこの子を少しでも涼しい格好に着替えさせますっ!」
「え……え!? もしかして……っ!」
「はい、そのもしかして、です!」
夢子の言葉と慌てぶりから事態を覚ったのか、楓太がサッと顔色を変える。そんな楓太に夢子は頷いて答えた。
「この子、熱中症になってますっ!」




