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「涼しい……」
岐阜の真夏は、暑いなんて言葉じゃ言い表せない。何せ防災無線が『命を守るために日中の外出は控えて』だの『室内にいる時は必ず冷房の使用を』だのと呼び掛けるレベルだ。ナメてかかれば冗談ではなく本当に命を取られる。
「真夏の岐阜は、冷房が効いた室内にいるに限る……」
というわけで、夢子は冷房が効いた自宅のリビングでのんべんだらりとのびていた。
体を締め付けないTシャツにハーフパンツ。お腹にはタオルケットを乗せていて、寝落ち対策も万全だ。
決して怠惰に過ごしているわけではない。これはれっきとした『命を守るための行動』なのだ。
何せ本日は、日が沈んでからが本番なのだから。
夢子は床に転がったままリビングの窓の外を眺めた。庭の向こうの裏道は、まだ西日が眩しい時間帯なのに人通りがいつになく増えている。髪を結い上げて浴衣に身を包んだ女性陣は誰もかれもが楽しそうに笑っていた。そんな通行人を急かすかのように遠くからドンッ、ドンドンッと昼花火が上がる音が聞こえてくる。
7月最後の土曜日である本日。
岐阜市長良川近辺は、夏のビッグイベントである花火大会で盛り上がっていた。
──今日、用事がなくてほんと良かった。これ、帰れなくなる所だったわ……
岐阜市中心部では7月最後の土曜日と8月最初の土曜日、二週連続で大規模な花火大会が開催される。
最初の花火が全国規模の新聞社が主催する物で、後ろの花火が地元新聞社主催の物だ。
どちらも大変な人出で賑わうし、周辺は大規模な通行規制が敷かれる。名古屋方面からも人が流れ込んでくるから、この日が登校日だと夢子は毎年電車に乗るのも駅から自転車に乗るのも苦労していた。
──まぁ、でも、『大変』である以上に『楽しみ』なことなんだけどね。
この花火を見ないと夢子の夏は終わらない。生まれた時から長良川近辺に建つこの家に住んでいて、物心つく前から両親に連れられて花火見物をしてきた岐阜っ子の性というものだろう。
ちなみに夢子は8月の花火大会の方を贔屓にしている。父が主催会社の社員なので。
──夕飯食べて、日が落ち切ってから出かけよっかな。一人で眺めるだけなら、打ち上げ会場近くまで行く必要もないし……
ただ残念なことに、今年の夢子には花火鑑賞の連れがいなかった。今まで一緒に出掛けていた地元の友達はバイトに入っていたり、彼氏ができたりと忙しく、県外の友達も終わらない就活や卒業研究に忙殺されていてそれ所ではないらしい。
──楓太さんも、用事があるって言ってたしなぁ……
『夢子ちゃん。今度の土曜日、花火大会あるでしょう?』
楓太が夢子に今日の花火大会の話を振ったのは、数日前のことだった。
学校帰りのこと。真っ昼間を避けて店を訪れた夢子に、楓太はいつものように水を出しながら申し訳なさそうに表情を曇らせた。
『その日は臨時休業にしなくちゃいけなくなったんだ。だから、ここにきても僕はいないからね』
花火大会の話が出た瞬間『もしかして、もしかして……っ!?』という期待が膨らんだ夢子は、本当にその瞬間に期待を潰されて思わず真顔になった。上げて落とされるのがこんなにも早いとガッカリする暇も与えられないのかと妙な実感を抱いてしまったくらい、何と反応していいのかも分からない。
──いや、これは楓太さんの言葉の続きを聞かずに勝手に舞い上がって勝手に潰れた私が一方的に悪いんだけども。
『夢子ちゃん、もしかしたら会場に向かうついでにここに寄ってくれるかもって思ってたから、伝えておかなきゃと思って』
『あー……、はい。来たいとは、思ってました』
『ごめんね。用事が入らなかったら、花火が終わるまで店を開けていようと思ってたんだけど』
何となく、夢子ちゃんは絶対に来てくれると思っていたから、と続けた楓太は、本当に申し訳なさそうな顔をしていた。
そんな楓太の様子からその『用事』とやらに乗り気でない風情を察した夢子は、一瞬躊躇ったものの思い切って一歩踏み込む問いを口にした。
『あの……その用事って、何なんですか?』
『あー……いわゆる「お見合い」だねぇ』
『へぁっ!?』
思わず、変な声が出た。スコッと手の中から抜け落ちたグラスが垂直にカウンターに落ちてカコンッと妙に綺麗な音を立てる。
──お、おおおお見合いっ!? 誰のっ!? いや、この流れと乗り気でない雰囲気から言って、まさか……っ!!
『あ、いやいや! 僕のじゃなくてねっ!? 親戚……というか、親戚に近いご近所さんが関係しているお見合いに、なぜか僕も立ち会わなくちゃいけなくなってねっ!?』
夢子の奇声か、奇行か、表情か、そのどれから内心を察したのかは分からないが、とにかく夢子の驚愕に気付いた楓太は慌てて詳しい事情を説明してくれた。
曰く、遠い親戚にあたるご近所さんが仲間のお見合いを取り持つことになったらしいのだが、そのご近所さんは長い間仏法守護ばかりに専念してきたせいで男女の心の機微などとんと分からないのだという。
ならば断われば良かった話なのだが、そのお見合いはここまで話が進むまでに散々縺れた後だったそうで、誰も関わり合いを持ちたくなかったらしい。結局親戚や仲間内で押し付けあった末に楓太のご近所さんにお鉢が回ってきた。
断ることもできず、押し付けられそうな先も見つけられなかったご近所さんは、頭を抱えて悩んだあげく楓太に泣きついたらしい。
『お前にとっても親戚みたいなもんなんだから勝手に傍観決め込んでんじゃねぇっ!!』というのがそのご近所さんが振りかざした理論……もとい暴論だったのだとか。
確かに親戚……と言うにはちょっと遠すぎるのだが、同族と言えば同族であることは確かだし、揉めている当人達は楓太よりもはるかに格上の存在で、先方に名前を上げられてしまっては楓太に話を断る余地はない。
結果、そのお見合いの日……つまり今度の花火大会の日、楓太は店を閉めてお見合いの現場に付き添うことになった、というのが一連の経緯だった。
『ほんっと、迷惑な話だよ……。僕は御柱名代としてこの店を預かっているっていうのに……』
事情を説明している間にもさらに嫌気が増したのか、楓太は苦虫を噛み潰したような顔で呻くように呟いた。常に涼やかな風を纏う楓太でもここまで苦い顔ができたのかと、思わず夢子が目を丸くしてしまうような表情だった。本当に、心底、この話に巻き込まれたのが嫌で嫌で仕方がないのだろう。
『……本当に、憂鬱なんですね』
『うん。構想が固まったお手製のかき氷、夢子ちゃんに振る舞うの、ものすんごく楽しみにしてたんだよ、僕は』
その言葉に、今度は別の驚きで夢子は目を丸くした。
──わ、私との予定が潰されたから、そこまで不機嫌だったんですか……っ!? そ、そそそそんな風に捉えても良いんでしょうかっ!?
梅雨が明けるのとほぼ同時に、楓太の店には店名が刻まれた看板がかかった。
『和カフェ ふなば』
命名者は夢子である。
梅雨が明ける少し前、夢子がありったけの勇気をかき集めて提案した名前を、楓太は夢子の予想以上に気に入ってくれた。
あれだけ『神頼みしてもいい名前を授けてもらえない』と言っていたくせに、ビックリするくらいすんなり決まってしまったから逆に夢子は不安になったのだが、心底嬉しそうに鼻歌を歌いながら看板を自作する楓太を見ている内にそれも杞憂だったと納得できた。
夢子に気を使って妥協してその名前を受け入れたわけではなくて、楓太自身が心底気に入ってしっくりくる名前だったから採用してくれたのだということは、ルンルンといつになく浮かれる楓太を見ていたら分かった。あれだけ浮かれて社交辞令であったなら、夢子はもう誰も何も信じられなくなることだろう。
店名が決まったらやる気が出たのか、楓太は和カフェらしいメニューを作ろうと新メニュー作製にも着手した。
『かき氷』はそんな楓太が出したアイディアのひとつだ。
どうせならただのかき氷ではなくて『和カフェ』の名に恥じない看板メニューにしたいそうで、ここしばらく楓太は熱心にレシピを研究していた。そんな楓太を横目で見ながら店の坪庭のレイアウト図面や、いよいよ大詰めになってきた卒業論文の草稿を練るのが、ここ最近の夢子の店での過ごし方だった。
そんな楓太は、花火大会の夜、夢子を店に招いていよいよ完成した特製かき氷を披露してくれるつもりであったらしい。
──私の予定を確認してこなかった辺りが、いかにも楓太さんらしいんだけど……
その日、万が一夢子が店に来なかったらどうするつもりだったのだろうか。……いや、そんな可能性は考えるまでもなくなかったわけなのだが。
──信頼されてるからなのか、楓太さんお得意の推理で導き出した結論だったのか。
『夢子ならばイベント事がある日は必ず店に来てくれる』という信頼があって嬉しいと思うべきなのか、予定のない暇人であると確信されていることを嘆くべきなのか。
前者をすんなり信じる方が幸せになれそうな気がするし、今後の楓太との関係も円滑に進むような気がする。
そんなことを微苦笑とともに考えながら、夢子は楓太に慰めの言葉をかけた。
『花火大会の日にお店が開かないのは残念ですけど、特製かき氷のお披露目はとても楽しみです。今度、改めてお披露目会にお招きしてもらえますか?』
『もちろん。初披露の相手は夢子ちゃんって決めてるからね』
『ちなみに、そのかき氷を花火大会の日に披露しようと決めたのには、何か理由があったんですか?』
『それは秘密、かな?』
楓太はそう言うと、いつものお稲荷さんスマイルを浮かべたのだった。
──あの時、いつもみたいに笑ってくれたから、精神は持ち直したと思ったんだけど……。楓太さん、今頃上手くやれてるのかな?
それが前回お店に顔を出した時のことだった。
まあ、あの楓太が上手くやれていない所なんて想像ができないのだが。いつだって、誰にだって、そつなく心がこもった対応ができるジャパニーズ・クールビューティーなのだから。
──まともな格好さえしていれば、ね。
そんなことを思いながらゴロンとフローリングの上を転がる。
その瞬間、傍らに置いていたスマホがいきなりけたたましい着信音を鳴らした。
「ふぁぉっ!? なになになになにっ!?」
あまりに驚いたせいで、まな板に載せられた鯉のように体が跳ねた。さらに体を起こそうとした瞬間に派手に肘をぶつけてジーンッと腕全体に痺れが走る。変な風に体をひねったのか背中やお腹も痛いし、跳ねた体が着地した時にフローリングにぶつけた尾骨も痛い。
「んもぅっ!」
『まな板に載せられた鯉なんて実物見たことないんだけどっ!』と我ながらわけが分からない八つ当たりを胸中で叫びながらスマホを手に取る。そういえば誰からなのだろう、と思った時には、指先が勝手に通話許可ボタンをスワイプしていた。
「もしもしっ!!」
『もしもし、夢子ちゃん?』
胸中の驚きやら怒りやら焦りやら、とにかくグチャグチャな感情を全て叩き付ける勢いで第一声を口にする。
だがそんな感情は、電話の向こうから聞こえてきた声によってどこかへ吹き飛ばされていった。
「ふっ、楓太さんっ!?」
スマホの向こうから聞こえてきたのは、間違いなく楓太の声だった。この涼やかで、声だけでイケメンだと分かる声音を夢子が聞き間違えるはずがない。
『うん、楓太です。今、電話大丈夫?』
「は、はい! 大丈夫ですけど……」
──う、うわぁ……! うわぁ、うわぁ……っ!!
護国の一件の後、番号は交換していたのだが、こんな風に実際に電話がかかってくるのは初めてのことだった。
ちなみに夢子は楓太の個人の番号ではなくお店の固定電話の番号を教えてもらっている。スマホはおろか『携帯電話』と呼ばれる代物を一切持ったことがないらしい楓太に一番繋がりやすい番号が店の番号なのだとか。
他の人にそんなことを言われたら『個人の番号を知られたくないのかな』と勘ぐってしまう所だが、楓太が相手だと『生きる化石みたいな人だな』とすんなり信じてしまえるのだから不思議だ。
『ちなみに今って、暇?』
直接会って言葉を交わすのとはまた違う胸の高鳴りに思わずソワソワと居住まいを正す夢子の向こうで、妙に緊張感のある楓太の声が響いた。
その声に夢子は思わず首を傾げる。
「暇と言えば、暇ですけど……」
『助けてほしいんだ』
「え?」
思わぬ言葉に夢子はスマホを両手で握り込む。
そんなスマホの向こうから声を響かせる楓太は、緊張をはらんだ……だがよくよく聞いてみればそれ以上に疲労がにじんだ声で、夢子に助けを求めてきた。
『夢子ちゃん、年若い女の子の対処に慣れてたりしない?』
──そういえば、ここまでストレートに助けを求められたのって、初めてじゃない?
夢子は思わずその場に座り直すと、スマホを耳に当て直した。
「詳しい事情を伺ってもいいですか?」




