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岐阜の梅雨は、肌寒い。
ただしそれは『雨が降っている間は』という限定がかかっていて、雨間に太陽が出ている時には適用されない。
梅雨明けが近いことを思わせる青空の下、夢子は護国神社の境内に立っていた。濡れた石畳が太陽の熱を受けて『これでもか!』と言わんばかりに湿度を上げていくのが分かる。まだ朝と言える時間帯でこれなのだから、日中の気候が今から怖くて仕方がない夢子だ。
通学鞄を右肩に、製図ケースを左肩から背中を渡すようにナナメにかけた夢子は、両腕をプルプルさせながら水で満たしたかわらけを運んでいる最中だった。
社務所で説明を受けた時には簡単だと思っていたのだが、想像していたよりもかわらけの底が浅いせいなのか、これが思っていた以上に難しい。かわらけ自体が水を吸うせいで満たした水は刻一刻と目減りしていく。だからなるべく早く足を進めたいのだが、焦って歩を進めるとそのせいで水をこぼしそうだ。
──焦っても仕方がない。集中、集中……
そう言い聞かせながら、なるべく心を無に近付けて足を運ぶ。
余計な力が入っていると気付いた時には、ちょっとだけ足を止めて意識して肩の力を抜くようにしてみた。この間楓太に諭された時のことを思い出して数度深呼吸をしてみると、何となく緊張も紛れていく。
ロープウェーの発着場でグダラさんと再会できた護国は、楓太と夢子に深く一礼するとグダラさんを連れて戻っていった。
護国が用意してくれた傘を借りた夢子と楓太は、岐阜公園から店まで歩いて帰ることにした。
楓太に頼めば行きのように護国神社から神庭を使って店まで飛ぶこともできたのかもしれないが、夢子は何となく歩きたい気分だった。
そんな夢子の内心を汲んでくれたのか、それとも楓太も歩きたい気分だったのか、楓太は夢子が何かを言うよりも早く、夢子と並んで護国神社とは反対方向に向かって歩き始めていた。
二人で結構な距離を歩いたけれど、その間特に言葉を交わすことはなかった。夢子は何だか口を開くと大切な何かが漏れ出てしまいそうな気がしていたし、楓太は楓太で何やら物思いに沈んでいるように見えた。カッコカッコという楓太の足音だけが二人の間に響いていたけれど、夢子には決してそれが気詰まりではなかったということだけ覚えている。
あの時、何が自分の胸をふさいで口を閉ざさせたのか、夢子には言葉にすることができなかった。
切なさとも、悲しさとも違う感情。
多分、あの老夫婦とグダラさんのことだけじゃなくて、楓太に勇気づけられた就活生のことや、夢子が直接楓太からもらった言葉や温もり。そういうものが複雑に絡み合って、あの何とも言えない気持ちを湧き上がらせたのではないかと、夢子は思っている。
あれから一週間が経った。だけど、夢子はその間一度も店に行っていない。
顔を出しづらいとか、そういったマイナスな感情があったわけではない。
あの日、胸を満たした言葉にできない感情が夢子の心にしっかり吸収された時に、やってみたいことができたから。
──ずっと、『私なんかに』って思ってきたけれど。でも。
その『やってみたいこと』を形にした物は今、製図ケースと通学鞄の中に入っている。だから、今日はゼミが終わり次第、楓太の所に顔を出すつもりだ。
──そんな私だからこそ、飛び込んでみたいんだ。
その前に最後のひと押しが欲しかったから、学校に向かう前、普段よりもかなり早く家を出て、夢子は護国神社に寄り道をしている。
「……ふぅ」
拝殿よりもさらに山際。拝殿を奥に回り込んだ、巨石に囲まれたかわらけ割り祭場に辿り着いた夢子は、一息ついてから自分が運んできたかわらけを覗き込む。
作法としては『祭場に着いたらかわらけの水面に己の姿を映して厄を移し』とのことだったが、水面がかなり下がったかわらけでは中に何が映っているのかもよく分からない。木々の影が映り込んでいるような気もするし、何となく自分の顔が映っているような気もしないでもない。
「……ん! いいことにしよう!」
しばらくかわらけの中身とにらめっこしていた夢子は、自分の気持ちに踏ん切りをつけると改めて足場を確認した。
祭場の地中から顔を出した御神石に向かってかわらけを落とし、かわらけを割ることで厄払いは終了となるわけだが、思っていた以上にその御神石が遠く見える。両肩に荷物がかかっている夢子は、きちんと足場を確保しないと己の顔面から御神石に向かってダイブしそうだ。
「……よしっ!」
狙いを定め、もう一度足場を確認し、少しだけ力を込めて手の中のかわらけを落とす。
『踏ん切りのつかない自分と縁が切りたい』
底に願いが書き込まれたかわらけは、夢子が思っていた以上に簡単に砕け散った。あんまりにもあっけなさすぎて、割れた音が響いたはずなのに一瞬後にはどんな音が聞こえたのかさえ忘れてしまっている。
──多分、厄を引き受けた証に、グダラさんが音も持ってっちゃったんだ。
御神石の周りにはかわらけの破片が無数に折り重なっていて、自分が割ったかわらけの破片がどれなのかさえも分からない。
形あった物が、たった一瞬で自分の視界から消える。
その感覚は楓太と話していた通り『消えた』ということが実感できて、何だかそれだけでご利益に恵まれた気分になれた。
「……さて!」
祭場から山の緑をグルリと見回して声を上げる。差し込む光が雨の名残に反射して、新緑はいつになく清々しく輝いていた。
その景色に、いつになく心が跳ねているのが分かる。
「仕方がないから、ゼミ行きますかね!」
伸びを、ひとつ。その動きにつられて、製図ケースと通学鞄が揺れる。
楓太の店の坪庭のレイアウトを勝手に引いた図面と、『和カフェ「ふなば」についての提案』と勝手に題された提案所が入った通学鞄が。
「神頼みで延々店名が決まらないなら、私が勝手に決めてやるんだからっ!」
みんなの心の荷上場『舟場』になるような。地域で一番頼りにされる一(いち)の御社『いなば』に続けるような、『自称・お稲荷さん』が営むふたつ目の御社。あとは『楓太』の名前の音からも一文字、という意味も込めた。
だからあのお店の名前は『ふなば』。楓太が自力で決めないから、勝手にそう命名することを夢子は決めた。
楓太が自分の中に踏み込んで心を軽くしてくれたように、夢子も勝手に楓太の中に踏み込んでやろうと、決めた。徹底的にお節介を押し付けてやろうと、決めてやったのだ。
夢子はもう一度深呼吸をすると、口元に笑みを広げてみせた。
「こうなっちゃったことを恨むなら、私にかわらけ割りをオススメしちゃった自分を恨んでよね、楓太さん」
夢子はもう一度口元に笑みを刻むとピョンッと地面に飛び降りた。
そんな夢子の姿を、山裾に鎮座まします愚多羅愚多羅の神像が、納曽利や蘭陵王に似た鬼のような顔をほころばせて見守っていた。




