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「……これから、どうしましょうか?」
二人並んで雨に霞む景色を眺める。こんな状況でも、雨の景色は美しく夢子の目に映った。『雨の日は憂鬱』と言う人もいるが、やっぱり夢子は雨の日を嫌いにはなれない。
「んー……。ひとまず護国さんに状況報告の連絡が取りたいけど……この雨じゃねぇ……」
夢子の隣に並ぶ楓太も、夢子と同じように雨に煙る景色を眺めているようだった。片手で前髪をかきあげて小さく息をついた楓太は、何か考えに沈んでいるようにも見える。
「どうですか、楓太さん。雨、やみそうですか?」
「それは僕には何とも、ねぇ……」
「前に伊奈波さんにいた時は分かったじゃないですか」
「あれはちょっと特殊な状況だったでしょ」
「そうでしたっけ?」
「そうですヨ?」
「じゃあ今は、楓太さんでも打つ手はありませんか」
「雨は龍神の管轄だから、お稲荷さんの僕には、ちょっと、ねぇ……」
二人並んで、視線を交わすことなくゆるゆると軽口を投げ合う。
それだけで夢子の心はほっと落ち着いた。少し前の自分なら焦りで発狂していてもおかしくなかったのに、今はサァサァと降り注ぐ雨音に耳を澄ます余裕がある。
「まぁ、お稲荷さんな僕には、ちょっとした裏技が使えるけどね」
そして何気ない軽口の効果は、夢子だけではなく楓太にもあったようだ。
何事かに悩んでいた風情だった楓太からフッと気負っていた物が消える。その気配に視線を上げると、楓太は前髪をかきあげていた手を下ろして唇の前に人差し指を立てた。そのまま夢子に視線を流した楓太は、怪しげな艶を潜ませた笑みを浮かべる。
「夢子ちゃん、知ってる? お稲荷さんってね、全国で一番たくさん祀られてる神様なんだよ?」
数え方が色々あって、場合によっては一番じゃないことも多々あるらしいんだけど、と言葉は続いたが、楓太が浮かべた笑みは消えない。何が言いたいのだろう? と首を傾げながらも、興味を引かれた夢子は素直に拝聴の姿勢を取る。
「お社はたくさんあるんだけど、祀られている神様は大体みんな宇迦之御魂神っていう同じ神様なんだ。僕達社付のお稲荷さん達は、宇迦之御魂神様の御本霊とお参りしてくれる人とを橋渡しするのがお役目のひとつでね。ひとつひとつのお社が、みんなそれぞれ御本霊様と繋がっているんだ」
「……はぁ」
「つまり、僕達町のお稲荷さんはみんな、御本霊様を通じて繋がっているんだ。町の片隅の至る所にあるお稲荷さんひとつひとつを中継点にして、お稲荷さんネットワークが張り巡らされているんだよ。お稲荷さんが『みんなの身近にある、頼りになるカミサマ』な所以だね」
──お稲荷さん、ネットワーク……
夢子の脳内に地図が広がり、基地局の代わりにポコポコとデフォルメされた楓太の姿が増えていく。地図の至る所に現れた楓太はそれぞれ電波を発し始めるとお決まりのお狐様サインを片手に『コンッ!』と一斉に鳴いた。
──ってイヤイヤイヤイヤ!
「お参りする人は御本霊様への一方通行の念話しか使えないんだけど、社付のお稲荷さん達はそのネットワークを横へ……周囲のお稲荷さん達と双方向に使うことができて、直接顔を合わせなくてもある程度意思の疎通が取れるんだ」
あわあわと自分の妄想を振り払う夢子の傍らで説明を終えた楓太はスゥッと深く息をする。それだけで周囲の空気がピンと張り詰めたような気がして、夢子は思わず息を詰めた。
そんな夢子に笑みを深めて、楓太はひそやかにささやく。
「今から僕がやることは、夢子ちゃんだけの秘密にしてね。本当は、ヒトに見せちゃいけないものだから」
楓太の声に払われたかのように、雨の音が夢子の耳から遠ざかっていく。それを確かめるかのようにそっと瞳を閉じた楓太はダラリと両手を体の横に垂らして自然体で立った。
スゥッと深く静かに繰り返される呼吸に引き込まれたかのように楓太の周囲を風が流れ、髪や作務衣の裾がソヨリと微かに揺れる。その風が先程までと纏う温度が違うように思えるのは、雨が降り始めたせいなのだろうか。それとも、楓太の纏う気配に呑まれてしまっているせいなのだろうか。
風を侍らせた楓太は、息を詰めて見守る夢子の前で静かに瞳を開くとスッと両腕を上げた。その動きに呼ばれたかのようにフワリと、風の中を微かな燐光が舞い……
プッ……プッ……トゥルルルルッ!!
「へふぁっ!?」
唐突に、すぐ側から、大音響でサイレンが鳴り響いた。
「なっ、なになになにっ!?」
続くモーター音に体をビクつかせながら周囲を見回せば、さっきまで止まっていたゴンドラがフワリと宙に舞い上がった所だった。太いワイヤーに吊り下げられたゴンドラは夢子が見つめている前ですぐに姿を消してしまう。
どうやら今のサイレンは、ロープウェー出航の合図であったらしい。
「び……ビックリしたぁ……」
思わず腰が抜けそうになった夢子は、よろめきながらも何とか両足を踏ん張って己の体を支える。
そんな夢子の視界の端で、カクリと楓太がつんのめった。
「って、楓太さんっ!? 大丈夫ですかっ!?」
どんな悪路を行っても微塵も揺るがなかった楓太が、何もない所で、動いてすらいないのにくず折れかける。慌てて伸ばされた夢子の腕にすがって何とか膝をつくことはまぬがれたものの、予想以上の重みを支えることになった夢子はとっさに足を踏み込み直して全身に力を込めた。
──全力ですがられてるっ!?
「……ごめん、夢子ちゃん。何か、ガックリきちゃって……」
ふぎぎぎぎ!! と全身をプルプル震わせながら支えること数秒。
何とか己を立て直したらしい楓太は、己の足に力を入れ直すと溜め息とともに自力で体勢を整えた。
「すごく集中してた所にあのサイレンでしょ? 何というか……溜め込んでいた気合とか集中力が、爆発させる前に抜けちゃって……」
「と、とりあえず……、怪我がなくて、良かった、です……」
予期せぬタイミングで全身の力を使ったせいでいまだに体がプルプルと震えているが、楓太の怪我を防げたならば良しとすべきだろう。
『さっきから大事な所でばっかり邪魔が入るんだよなぁー』と内心だけでぼやきながら夢子はロープウェーの先を見上げる。
すぐに角度を上げてしまうせいで見上げてみても太いワイヤーと急峻な山肌しか見えないのだが、重いモーターの音が響き渡るのを聞くと思わず見上げずにはいられない。
──これに乗ると、3分くらいで頂上まで行けるんだっけ?
金華山の標高は300mちょっと。数字上では東京タワーと大体同じくらいの高さがあるらしい。
いくつかある登山道の中には園児が遠足で登るようなコースもあるが、基本的に道はどこも険しく長い。長良川の花火を山頂から見ようとする浴衣姿のカップルや、初日の出を山頂から見ようとやってくるお年寄り、子供を連れて山頂のリス村や岐阜城に遊びに行こうとする家族連れにとって、ロープウェーは気軽に使える良い手段なのだろう。
──結構なお値段がするからあんまり乗ったことないけど、景色すごく綺麗なんだよなぁ……
一番最近乗ったのは、成人式の引出物の中に入っていたロープウェータダ券を消費するために来た時だったか。
夢子の家は父が風邪を引くたびに母が『気合が足りんのだ! 金華山でも登ってこいっ!!』と一喝を飛ばす体育会系の家で、金華山は小さい頃から己の足で登るものだった。だからロープウェーにはとんと縁がなくて、初めてロープウェーから金華山や岐阜市街の景色を眺めた時はものすごく感動したことを覚えている。
──そういえば最近、お父さんと山登りもしてないな。気分転換に今度誘ってみようかな。
インドア派の自覚がある夢子だが、金華山登山は嫌いではない。卒論のフィールドワークで登りたいと思っていた所だし、ちょうどいいから誘ってみようかという思いつきが頭の片隅を転がっていく。
それがこの気まずい空気からの現実逃避だと分かっていながらも、あえてその思いつきを頭の中で転がす。
「あの……。楓太さん」
だがいくら現実逃避をしていても、状況は何ひとつとして変わらない。
そのことを数十秒かけて噛み締めた夢子は、気まずい空気の中、ソロソロと口を開いた。
「お稲荷さんネットワーク、接続できそうですか?」
「……ごめん。しばらく無理そう……」
「デスヨネ!」
自力でしっかり立ち上がったもののガックリうなだれたままの楓太を見ればそのことは一目瞭然だ。楓太が何をしようとしていたのかは結局分からずじまいだったが、アテが外れた上に気合やら気力やらが根こそぎ抜かれてしまったことは見ていれば分かる。
──今日は、知らない楓太さんがたくさん見える。
このひと月くらいの付き合いで知った楓太は、ジャパニーズクールビューティーを絵に描いたようなイケメンで、でも残念なくらいにズボラで、頭の回転が早くて聡明で、ちょっとミステリアスな所とネジが飛んで浮世離れした所がある、頼りになる自称・お稲荷さんだった。
でも今日の楓太は驚いていたり、怖かったり、脱力してズッコケそうになったり、こんな風にうなだれてみたり、今まで見たことがない顔がポコポコとたくさん出てくる。
──人って、たくさんの顔があるんだな……
決して他人との関わりが薄いわけではない夢子だが、何だか久しぶりにそんな『人間関係の基本中の基本』のようなことを思った。
きっと夢子の中で楓太は『普通の人』ではない所に分類されていたのだろう。夢子の周囲にいる『普通の人』を超越してしまっているような……そう、それこそ『神様』の知り合い、とでも言うべきか。
──でも、ヒトっぽい所が見えても、そこも美味しく思えるというか。そういう所が楓太さんの魅力というか、人徳なのかも。
いや、楓太の場合は『神徳』と言うべきか。
そんな細かいことを思ったらフフッと笑みがこぼれた。その声が楓太にも届いてしまったのか、楓太は不思議そうに夢子を見る。そんな楓太に『あ、いえ、何でもないんです』と手を振ってから、夢子は探るように言葉を紡いだ。
「えっと……じゃあ、とりあえず雨宿りしながら、雨が止むか、楓太さんがもう一度お稲荷さんネットワークに接続できるようになるまで休憩しましょうか。……あ。ここになら、どっかに固定電話あるんじゃないですか? 護国さんの所の電話番号が分かってるなら、電話を借りて連絡することもできるんじゃ……」
意図せず楓太に伝わってしまった笑い声をごまかすために両手をパタパタ振りながら言葉を紡ぐ。
そんな夢子の言葉に、楓太が虚を突かれたような顔で目を瞬かせた。
「……夢子ちゃん」
「? はい?」
純粋な疑問を込めて楓太を見上げる。対する楓太は一瞬、何かをためらうかのように開きかけた唇を閉じた。それでも夢子が変わらず楓太を見上げていると、楓太はゆるゆると唇を開く。
だが言葉は結局、楓太の口から紡がれることなく消えた。
「? 楓太さん?」
ハッと目を丸くした楓太がバッとどこかへ視線を向ける。夢子は反射的に楓太の視線の先を追ったが、楓太が見つめる先には相変わらず重い駆動音を響かせているロープウェーのワイヤーしか見えない。
「楓太さん?」
「……見つけた」
どうしたのだろう? と首を傾げる夢子の前で、楓太は変わらず何もない空間を見つめたまま呟いた。
一瞬その意味を考えた夢子は、次の瞬間その意図する所に気付いて目を瞠る。
「グダラさん、多分、今降りてきてるロープウェーの中にいる……!」
小さいのに不思議と雨に消えていかない楓太の声に、夢子の心臓が緊張に跳ねた。




