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和カフェ『ふなば』の楓太さん  作者: 安崎依代
    『ふなば』春夏冬中

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14/22

 悲鳴を上げるよりも、状況を理解するよりも、ガッと両脇と肋骨に圧がかかって呼吸が締まる方が早かった。上半身に走る鈍い痛みに我に返ると、踏み出した夢子(ゆめこ)の足が宙に浮いている。


 濡れたコンクリートの階段の上に長雨で散らされた若葉が積もっていて足を滑らせたのだと気付いた瞬間、サァッと夢子の全身から血の気が引いた。


 鬱蒼(うっそう)とした山裾(やますそ)に入り込んだ中にある、傾斜も急な階段の一番上。こんな場所から転がり落ちたら、きっと一番下に落ち切るまで体は止まってくれないだろう。


 奇跡が起きれば捻挫と擦り傷、最悪の場合は即死。


 どちらにしろ、身動きが取れない酷い怪我を負うに違いない。


「大丈夫? ゆっくり立てる?」


 そんな夢子を支えていたのは、両脇の下を通って胸の前で組まれた楓太(ふうた)の腕だった。夢子の背中が楓太の胸と密着しているせいか、楓太が声を上げると背中に微かな振動が伝わってくる。


「あ、わ、あああ大丈夫です! ごめんなさいっ!! 楓太さん、足元大丈夫ですかっ!? あ、あのっ離してもらっても……!!」

「コラ、こんな時まで他人(ほか)の心配しないの。僕は全然大丈夫。今気にすべきことは夢子ちゃん自身のことでしょう?」


 背後から抱きしめられていることよりも、『楓太に迷惑をかけた』ということに心がグチャグチャになった。『楓太の力になりたくてここまでついてきたはずなのに、足を引っ張ってばかりだ』と、グチャグチャになった心に(つぶや)く声が落ちて、視界がユラユラとにじみ始める。


「僕がゆっくり一歩後ろに下がるから、夢子ちゃんもそれに合わせてそっと一歩後ろに下がるんだ。いいね? ……そう、上手」


 いつも以上にゆったりと言葉を紡ぎながら、楓太はゆっくり後ろへ下がった。その言葉に導かれるまま足を一歩後ろへ下げれば、靴底が再び地面を捉える。楓太の腕が緩むと、夢子は自分の両足で地面の上に立っていた。


「夢子ちゃん、ちょっと深呼吸しようか」


 だというのになぜか、楓太の腕は夢子から離れていかなかった。力を抜いてくれたから息苦しいほどの圧迫感はもうないが、温かな腕はまだ夢子の体に回っていて、背中には楓太の熱を感じる。


「え? なん……」

「はい、いいから深呼吸しようね。はい、吸ってー……はいてー……」


 唐突な言葉に虚を突かれた夢子は、思わず体をひねって楓太を振り返ろうとする。だがスルリと楓太の右手が滑って夢子の目元を覆う方が早かった。器用なことにその腕が夢子の肩から上を全て固定してしまっていて、夢子は振り返ることもできず、されるがまま楓太の腕の中に捕らわれる。


「ちょっ、ちょっと楓太さんっ! こんなことしてる暇は……っ!」

「早く次の行動に移りたいなら僕の話をちゃんと聴いて。はい、ひとまず深呼吸。吸ってー……はいてー……また吸ってー……」


 強制的に視界を閉ざされると、音がより鮮明に耳に響く。


 ゆったりと紡がれる穏やかな声に絡め取られた夢子の意識は、視界を奪われて背後から抱きしめられるという状況にパニックになるよりも早く、楓太の言葉に従って深呼吸を始めた。楓太の声に合わせてゆっくり呼吸をすると、ガッチガチに固まっていた体がじんわりと解れていく。


 ──あれ? 私、いつの間にこんなに緊張してたの?


 余計な力が抜けてからやっと、自分がこんなにも緊張していたことに気付いた。多分、階段から落ちかけた恐怖で体が緊張したのではなく、こんなに緊張していたから体が上手く動かなくて落ちかけたのだろう。


「夢子ちゃん、何をそんなに焦っているの?」


 夢子の視界を奪ったまま、楓太は静かに言葉を紡いだ。子守唄のように柔らかな言葉は、体の緊張だけではなく心の緊張までじんわりと解していく。


「だって、私、間違えて……」

「間違えた? 何を?」

「常連さんは、もっと別の場所にいたはずなのに……」

「夢子ちゃんは、持っていた情報を上手く組み立てて、一番お客さん達と出会えそうで、かつ、一番効率のいいルートを選んだ。そのことに、間違いなんてないよ」

「でも、みんな、見つからない……」

一見(いちげん)さんには会えたじゃない」

「でも、グダラさんは……」

「夢子ちゃん。一度感情を脇に退()けて、第三者になったつもりで僕の話を聴いて。……夢子ちゃんになら、できるね?」


 心が緩んだせいで、一度引っ込んだ涙がまたじわりとにじんできた。その涙に夢子の声が波打つ。


 そんな夢子の耳元で楓太はわずかに声のトーンを落として(ささや)いた。穏やかさがわずかにそがれた声は、より一層深く夢子の意識に染み込んでいく。


護国(ごこく)さんがグダラさんの不在に気付いたのが10時頃。護国さんが僕の店に相談に来たのが大体13時。ここまででおおよそ3時間の間がある。そして護国さんの所にお客さんが来ていたのは、グダラさんがいなくなるより前の話だ。つまりお客さん達の姿を護国さんが見かけた時から今までには、それ以上のタイムラグがある」


 楓太の声は、まるで魔法だ。


 さっきまであんなに空回っていた思考が、楓太の言葉に従ってゆっくりと確実に回り始める。


 不安を駆り立てて騒ぎ回っていた何もかもがスッとどこかに消えて、澄み渡った意識の中に楓太の言葉だけが落ちてくる。


「間に昼時も挟んでいた。……さて。これだけのタイムラグと要素があって、目当ての人物がまだこの公園にいる可能性は、高いと言えるだろうか?」

「……高いとは、言えないと思います」


 スルリと、言葉が出た。


 答える夢子の声はどこかフワフワと夢に揺られるかのように頼りないのに、言葉の根拠となる思考だけはいつになく冷静に歯車を回す。


「小さな子供も、お年寄りも、体力はありません。……ご近所さんなら、お昼時には自宅に帰る可能性が高い」

「そう。それでも僕達がここに来た理由は?」

「……この周辺で、一番人気(ひとけ)があるのがこの辺りだから。……護国さんが、目当ての人物が、この辺りを散歩コースにしていると、言っていたから」

「ここに目当ての人物がいないとなると、他にどんな可能性があるだろう?」

「……目当ての人物達が帰宅しているなら、グダラさんは目的がなくなって、護国さんの所に戻る。戻っていないなら、『挨拶を受けたお客さんに着いていってしまった』という、最初の仮定が違うということになる」

「はい、よくできました」


 スルリと、楓太の手が夢子の目元から外される。


 離れていく熱にハッと我に返って振り返ると、楓太は一歩後ろに下がった場所でいつも通り涼やかな笑みを浮かべていた。


「つまり、ここで目的の人物が見つかる可能性は最初から低かったんだ。僕達は確かにお客さん達を探してここに来たけれど、逆に『ここにお客さん達はいなかった』ことが分かったのも収穫なんだよ。ひとつ仮説が消えて、真実に近付くことができたんだから」


 その言葉にすぐには答えず、夢子はゆっくりと考えを巡らせると、改めて楓太を見上げて口を開いた。


「『お客さんと一緒に近場にいる』という可能性が否定された。だから、次の可能性を考える段階に至った」

「そういうことだね」

「無駄足を踏ませて、振り出しに戻ったわけではない」

「そうだよ」


 焦りが完全になくなったわけではない。では次はどうすればいいのかという不安もある。


 だが夢子の肩から、最後まで残っていた力がフッと抜けた。それに合わせて夢子の唇からも深く吐息が漏れる。


「じゃあ、私が取った行動は、間違いなんかじゃなかったんだ」

「そうだよ。それに『私』じゃなくて『私達』だからね」


 柔らかく付け足された言葉に疑問符を浮かべると、楓太の手がポン、と夢子の頭の上に乗せられた。ポン、ポン、と優しく夢子の頭に乗せられた手は、まるで見えない落ち葉を払うかのように動くとすぐに引き戻される。


「僕だって夢子ちゃんとずっと一緒に行動してたじゃない。何かをテストしてたわけじゃないんだし、グダラさん探しは夢子ちゃん一人で頑張らなきゃいけないことじゃない」


 そもそも、勝手に巻き込んだのは僕の方だしね? と楓太は穏やかに笑った。


「夢子ちゃんが間違った行動を取ろうとしていたら僕が正さなきゃいけなかったわけだけど、僕はずっとその必要性を感じていなかった。だからこの結果は『私達』の結果だし、夢子ちゃんが間違っていたなら僕だって間違っていたんだ。夢子ちゃんだけが責任を取らなきゃいけないなんてこともなければ、僕達が夢子ちゃんを責めるなんてことも、絶対にないんだよ」


 楓太の手が消えた頭の上に、夢子は無意識のうちに自分の両手を置いていた。


 そんな夢子に、楓太はいつもの涼やかさの中に多めに温かさを落とした笑みを向ける。


「どんなことにも一生懸命になって、我がことのように頑張れるのは確かに夢子ちゃんの美徳だ。でもね、いつだってそんなに気を張り詰めて、一人で全部背負い込んで頑張りすぎなくてもいいんだよ? ヒトってね、案外、自分が思っているよりもずっと、良くも悪くも周囲に期待されてるわけじゃないんだから」


 ──良くも悪くも、周囲には期待されていない……?


 聞こえようによっては、冷たく聞こえる言葉。


 だが夢子はその言葉の中に温かな心があることに気付いている。楓太が、夢子ならばそのニュアンスを理解できると知っていて、あえてこんな言い回しをしてきたことが、分かる。


 ──ほんと、かな? 


 周囲は自分が思っている以上に完璧を求めていないなら。


 楓太も護国も、夢子に完璧な解決を求めているわけではない。教授は完璧な卒論を一発で出してくることを期待しているわけではない。卒業制作が誰の目をも奪う優れた作品である必要性はない。


 取材に行かなければならない市役所の窓口の人だって、もしかしたら窓口に来るのはみんな不慣れでトンチンカンなことを言う人ばかりで、そういう人の方にこそ慣れているのかもしれない。夢子も、そんななんてことない人間の一人で、相手の記憶に悪い意味で残って後でヒソヒソと笑われなければならないほど、ひどく落ちこぼれた人間では、ないのかもしれない。


「最初から完璧な人間なんて、どこにもいないよ」


 楓太はグダラさん探しのことに関して言っているのだろうが、楓太の言葉はそれよりもずっと深く夢子の中に染み込んだ。


 悩んでいたこと全てに対する言葉のように聞こえて、またジワリと夢子の涙腺が緩む。そんな夢子に気付いているだろうに、楓太はあえて普段と変わらない調子で言葉を続けた。


「前に話したの、覚えてるかな? 『知らない』から『知っていて当然』に続く流れが、色んな所にできればいいなって話」


 (おきな)様の失くし物を探して伊奈波(いなば)さんに行った時の話だ。


 もちろん夢子はその話を覚えている。自分の中で何かが変わった、大切な言葉だったから。


「それと同じだよ。完璧っていうのもね、『何もできない』から『よりよくできる』っていう風に、段々変わっていくものなんだ。そして『知らない・知っていて当然』とこの流れが違うのはね、完璧には果てがない……『ここまでできれば完璧』っていうゴールラインがないことなんだ」


 その言葉に夢子は声もなく目を見開いた。


 驚きに丸くなった瞳から涙が一粒コロリと落ちていく。


「というよりも、完璧だと思う場所に到達してもやっぱりその上はずっとあって、現状に慢心することなくずっと歩み続けないといけないっていうのが、本当の所なんだろうけども」


 そんな夢子を見つめた楓太は、そっと半歩分だけ距離を詰めると、足を進めた時以上にそっと腕を伸ばして夢子の涙をすくった。綺麗な、だけどちゃんと男の人の指だと分かる楓太の指は、触れ合った面積がごくわずかでも確かな熱を夢子に与えてくれる。


「だから、気負うことなく、むしろ気負っている物を全て捨てて、小さくても一歩一歩、歩み続けることが大切なんじゃないかな?」


 何か思いを返したいのに、何も言葉が浮かんでこない。


 確かに思いが胸の中にあるのに、それがひとつも言葉という形になってくれない。


 言葉という形にした瞬間、思いは何か別の形に変わってしまいそうで、吐き出した方が楽になれるかもしれないのに、吐き出す(すべ)がどこにもない。


「────っ」


 それでも、そのもどかしさを越えて夢子は口を開く。


 だがポツリと、新たな雫が夢子の頬に落ちる方が早かった。


「えっ……」


 夢子は思わず無防備に頭上を見上げる。自分の目からこぼれたわけではない雫がどこから来たのかと空を見上げれば、枝葉に隠されてわずかにしか見えない空は記憶にあるよりも随分暗くなっていた。


「とうとう降り始めちゃったか」


 夢子と同じように空を見上げた楓太が(つぶや)くと、まるでその声が聞こえたかのようにポツポツポツと雫が落ちるペースが上がる。


 その音に我に返った夢子は階段の先を指差しながら楓太を見上げた。


「楓太さん! 屋根がある所に避難しましょう! このままじゃずぶ濡れですっ!」

「そうだね、動くなら今のうちだ」


 夢子の言葉に(うなず)いた楓太は夢子が落ちかけた階段を軽やかに降りていく。夢子も足元に気をつけながら楓太の後を追った。


 幸いなことに、二人がいたのはロープウェー発着場に続く階段のすぐ上だった。二人が発着場に駆け込むのと雨が本降りになるのはほぼ同時で、軽く上がった息を整えながら外を振り返れば、サァッという細い雨音とともに景色が白く霞んでいく。


「ひとまず、ビショ濡れになる前に避難できて良かったね」

「ほんとに。何とか『全身しけってる』っていうレベルで逃げ切れましたもんね」


 ハンカチも鞄に入れたまま楓太の店に置いてきてしまったから、この雨に降られていたら濡れネズミのまま途方に暮れる所だった。雨避けができる場所近くにいた自分達は運が良かったと、夢子はホッと息をつく。


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