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「楓太さんって、川港みたいな人ですよね」
何度も何度も振り返ってはお辞儀をしていった女性が通りの向こうに姿を消してから、夢子はゆっくりと楓太の隣に立った。
女性の姿が見えなくなるまで見送っていた楓太は、そんな夢子の言葉にキョトンとした顔で振り返る。
「やってくる人が乗せていた重たい荷物を引き受けて、軽やかになった舟をまた水面に送り出してあげてるって感じがします」
「ははっ、本当にそんなことができてるならいいんだけど」
「いや、割と真剣な話、さっきの人、本当に楓太さんに救われたと思いますよ」
夢子も就活戦線を潜り抜けてきた人間だから分かる。
就活というものは、本当に心を削る。そりゃあもうゴリゴリと、心を木くずよろしく粉々にしていくのだ。
第一陣に内定が出始めるこの時期は、就活解禁から削られ続けた心に焦りと不安という追い討ちがかかって余計にしんどいはずだ。さっきの女性も、そんな諸々に心を削られて、精神的に疲れ果てていたように思える。
そんな中、自分を全肯定して背中を押してくれた楓太は、どれほどありがたい存在だったのだろう。心が折れる寸前だったならば、本当に神様に出会ったような心地だったのかもしれない。
──ま、向こうも楓太さんが『お稲荷さん』を自称するような人間だとは思ってもいなかっただろうけど。
「僕が川港なら、そろそろ名前がついてもいい頃だと思うんだけどなぁ」
「え。……もしかして、お店の名前の話ですか? まだ決まってなかったんですか?」
「残念ながら、まだだねぇ。毎日変わらず神頼みに通ってるんだけど、中々決めてもらえないんだよね」
「いや、そこは神頼みしてないで自力で決めてくださいよ」
そんな会話を交わしながら、二人は女性が消えたのとは反対側へ……自分達が歩いてきた方向へ引き返した。
グダラさんのことは訊けないまま女性と別れてしまったが、話を聞いた分だと女性はずっと一人で行動していたようだし、そのことについて楓太が突っ込んで話をすることもなかった。楓太がその辺りの詰めを誤るとは思えないから、きっと楓太には早い段階で女性とグダラさんは無縁だったということが分かっていたのだろう。
「一見さんは、ハズレでしたね」
それを踏まえて話を振ってみると楓太は心持ち表情を引き締めてあごを引いた。
「うん。予想が外れちゃったよ」
「常連さん、まだ近場にいてくれるといいんですけど」
「常連さん達は、どちらも護国神社から岐阜公園へ散歩に向かうのが定番コースだって話だったね」
「どうしましょう? いったん日中友好庭園まで戻ってから岐阜公園に回りますか? 確か友好庭園から岐阜公園へ抜けるまでの境に子供が遊べそうな遊具とかありましたよね?」
「そうだね。実際に使っていそうなルートに沿って歩く方がいいかもしれないね」
歩きながら手早く打ち合わせをした二人は、そのまま来た道を戻る形で川原町を抜けると長良橋の下をくぐった。日中友好庭園の入口を示す杭州門は、住宅地を抜けたすぐ先にある。
「そういえば楓太さん。さっき一見さんと話してた『かわらけ割り』って何ですか?」
白い獅子を両脇に従えて堂々と立つ、白壁に黒瓦のいかにも中華風な門の丸く切り取られた入口をくぐりながら、夢子は先程心のメモ帳に書き留めた質問を口にしてみた。
そんな夢子の問いに、楓太はいつものように軽やかに答えをくれる。
「護国さんでやってる、厄除けとか縁切りに効果がある神事だよ」
夢子が楓太を見上げると、楓太は両手を合わせてお椀のような形を作った。
「社務所で頂いたかわらけに縁を切りたい事柄を書き込んで、手水舎で水を汲んでかわらけを満たし、そのまま水をこぼさないようにかわらけ割り祭場まで運んで、祭場の御神石にかわらけを落として割るんだ」
「割っちゃうんですか!? 社務所でもらう頂き物なんですよね?」
「そ。昔、戦国武将が戦の前にかわらけでお酒を飲んで、そのかわらけを割ることで戦勝祈願をしたことに由来しているんだ。かわらけは厄を移す形代でね。自分の厄やグダグダした空気をかわらけに移して割って、祭場に祀られている愚多羅愚多羅さんに引き取ってもらうんだ」
八重桜の名所として春は賑わう日中友好庭園も、梅雨時の今は閑散としている。中華風の東屋が佇み、ジグザグと水面を走る九曲橋がかけられた池を中心に据えられた中華庭園は、人気がないのと曇り空で彩度が低くなったせいで古代中国にタイムスリップしてしまったかのような雰囲気を纏っていた。池の中を悠々と泳ぐ鯉だけがその静寂を楽しんでいる。
「グダラ、グダラ……さん?」
楓太の説明の中にふと気になる名称を見つけた夢子は、思わずその部分を呟いていた。
そんな夢子に楓太は軽く頷く。
「そう。護国さんとは別の神様。同じ境内にお社を構える、ご近所さん的存在だね」
「ご近所、さん……」
……どうしてだろう。名前の響きといい、『ご近所さん』という説明といい、今探している『グダラさん』と重なる部分が多いような気がするのだが。
──まさか御祭神が行方不明になったから主祭神様が探し回ってるとか、そういう話じゃないですよね!?
「実は夢子ちゃんにオススメしようと思っていたおまじないが、このかわらけ割りだったんだ」
夢子の口から絶叫に近い問いかけが飛び出しかけたが、楓太がサラリと言葉を紡ぐ方が早かった。
勢いを削がれた夢子は一旦自分の言葉を呑み込むと楓太の言葉を受け取る。
「お店で言ってた『図面を見せてくれたらとっておきのおまじないを教えてあげる』っていう、あれですか?」
「うん。愚多羅愚多羅さんのかわらけ割りは、見た目で『割れた!』って分かるから、効果が実感しやすいんだよね」
そう説明している間も楓太の足は進んでいるし、視線は常連さんを探すべく四方に配られている。そんな楓太を見上げてハッと我に返った夢子も、人影を探すべく視線を楓太から外した。
だけど会話は終わらせたくなかったから、言葉だけは楓太に向ける。
「確かに、縁切りをうたってる神事ですもんね。目の前でからわけが割れたら、一緒に切りたかった縁も壊れてくれたような気がして、気分がスッキリしそうな気がします」
「自分の厄を移したかわらけが目の前で割れるわけだからね。自分の目でハッキリとご利益が見えるおまじないって、それだけで何だかいいでしょ?」
「そうですね! 普段『ご利益』って、目に見えないものですもんね。何だかいいことが起きてから、ようやくジワジワと『効いた……のかな?』って思うくらいで」
「目に見えないモノは、良いコトも悪いコトも分かりにくいからね」
日中友好庭園を抜けると複雑な階段状の装飾が美しい用水路に行き当たる。
外観がロボットに見える水門……その名もズバリ『ロボット水門』を右手に進むと、金華山山裾までの小さな傾斜地を利用して遊具を設置しているエリアに出るのだが、残念ながらそこにも人影は見えない。梅雨の長雨に打たれた遊具はどれもビッショリと濡れていて、子供達に遊んでもらえない遊具達は何だかションボリと肩を落としているかのようだ。
夢子と楓太はその傍らから伸びる遊歩道を抜けると、金華山の山裾を回って岐阜公園へ出た。
山裾から公園内へ足を踏み入れると、こちらにはチラホラと人影が見える。広大な敷地の中にエリアごとの自然を生かして整備された庭園では、散歩を楽しむ人や、東屋で憩う人々がそれぞれの時間を楽しんでいるようだった。
「とりあえず、行ってみようか」
「はい!」
そんな光景を見つめた楓太が言葉とともに足を踏み出す。夢子がその声に元気よく答えると楓太は一瞬笑みを深めた。だがその笑みは空を見上げた瞬間かき消える。
楓太の視線の先を追った夢子は、楓太が何を気にかけているのか気付いてキュッと眉間にシワを寄せた。
──この時期の雨は、黒龍さんにお願いしても止められないって、楓太さんは言ってた。
空を占拠する黒い雲がさっきよりも増えている。西の空を振り仰いでみると、伊吹山が姿を消すほど空は暗くなっていた。もういつ雨が降り出してもおかしくない。
──タイムリミット的にも、多分ここで決着がつかなかったら……
サッと心に差した不安を夢子はプルプルと首を横に振って蹴散らした。
──まだ起きてもいない未来に不安になりすぎるの、良くない!
まずは行動あるのみ、と無言で気を引き締めた夢子は足を動かすペースを上げる。その隣に並んだ楓太も夢子の歩みに合わせて進み始めた。
岐阜公園は発掘調査が進められている織田信長居館跡の他にも、岐阜市歴史博物館、名和昆虫博物館、加藤栄三・東一記念美術館と名のある文化施設が集まったエリアだ。山裾に建つ朱も鮮やかな三重塔は遠く長良川対岸にある夢子の家からでも目を引くし、その|傍らにコースを取る金華山ロープウェーの発着場があるのもこの岐阜公園である。
──でも、地元住民がわざわざ入館料を払ってまで施設に入るとは思えない。散歩のついでにロープウェーに乗るとも思えないし、小さな子供やご老人の散歩に登山っていうのは考えにくい。ただの散歩コースなら……
胸中で仮説を組み上げながら、夢子は一番通行人が多そうなコースを進む。楓太も夢子と同じことを考えているのか、特に打ち合わせをしたわけでもないのに夢子と歩みがピタリと重なった。
広場を抜け、ロープウェーの発着場を左手に見る形で緑豊かな池端を抜ける。公園の中でも一際幅が取られたメインストリートを進むと、大きな噴水がある広場が先に見えた。岐阜市歴史博物館と名和昆虫博物館の目印でもある女神の噴水を抜ければ、岐阜公園の端はすぐそこだ。
公園の中を貫く通路は外に出ると自動車も通る一般道に姿を変えていて、公園の隣を走る道路を境界にして外にはなんの変哲もない住宅地が広がっている。
ひとまずその端まで歩いてみた二人は、周囲に視線を巡らせると互いに無言のまま引き返した。噴水の周りを一周しながら博物館の入口や公園外の交差点にも視線を配り、元の道を横切って今度は茶室の方へ伸びる細道に入る。
鬱蒼とした山道に続く細道を進むと、発掘現場の傍らを抜ける形で三重塔の方へ道は続く。人気が段々薄くなっていく中、夢子は細い谷川にかかった朱色の橋を足早に渡った。そんな自分の呼吸が、歩いた距離以上に上がっているのが分かる。
──どうしよう。それっぽい人がどこにもいない……!
呼吸を跳ね上げているのは、焦りだった。息だけじゃなくて、心臓も動いた以上に暴れているのが分かる。それが分かってしまうからこそ、気持ちがもっと空回る。
──どうしよう……! 雨、降りそう。きっと雨が降り始めたら、常連さん達は家に帰っちゃう。もう時間がないのに……っ!
バクバクバクと暴れ回る心臓が必要以上に酸素を消費しているのか頭がクラクラしてきた。思考回路が正常に回ってくれない。こんな時ほど冷静に、論理的に頭を回して、より効率的に立ち回らなくてはならないはずなのに。
──どうしよう、私、考え方を間違えたのかもしれない。私は、楓太さん達を助けるために一緒に来たのに足を引っ張って……!
そんな自分の心の声に、涙腺が勝手に熱を帯びて視界がジワリと歪んだのが分かった。そんな自分にさらに焦りと苛立ちが募る。
時間がないと楓太は最初から言ってたのに、夢子の間違った推理のせいで無駄に連れ回してしまった。
見つからなかったら大変なことになると、護国も楓太も言っていた。そんな中読み間違いをするなんて、許されることではないはずなのに。
──思い出せ。見落としはなかった? 何が間違っていた? どうしていたら……っ!
焦りに急かされるように、夢子は前へ足を踏み出す。
その瞬間、ズルッと夢子の足元が滑った。
「夢子ちゃんっ!!」
「ヒャッ!?」




