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川は昔、物流において重要なツールだった。
トラックも貨物列車も飛行機もなかった時代。川に舟を浮かべて物を運ぶ利便性は今とは比べ物にならないくらい大きく、また陸運に比べてスピードも速かった。
川の要所要所には川港と呼ばれる荷上場が設けられ、集まる荷物を目当てに人が集まり、その人々を目当てに商店や宿屋が集まり、海の港と同じように豊かな町として栄えていたのだ。
織田信長の居館が置かれていた金華山の麓にも、そんな川港が存在していた。
その名残を今に残すのが、長良橋のたもとから長良川沿いに広がっている『川原町』と呼ばれる界隈である。
「とりあえず、道沿いに歩いてみましょうか」
「そうだね。とりあえず行ってみようか」
長良橋下の川原町入口に並んで立った夢子と楓太は、互いに頷き合うと川原町の中へ足を踏み出した。
曇りがちな空の下で見ると、川原町一帯は本当にタイムスリップしたかのような雰囲気に包まれている。まちづくり協定や長良川プロムナード計画などが施行されて、電線や電柱が取り払われたのもそんな雰囲気作りにひと役買っているのだろう。
表通りに格子戸が並ぶ間口の狭い町家が続く景観は江戸時代から続く川港の雰囲気をそのまま残しているそうで、今は中を改装してカフェや和紙問屋、岐阜市で唯一残っている岐阜うちわのお店などが営業しているらしい。
──そういえば、うちの教授、その計画に一枚噛んでいたんだっけ?
左右をキョロキョロ見回しながら進んでいると、どうしても気持ちは卒論の方へ傾いていく。それではいけないと頭をプルプル振ってから、夢子はもう一度楓太を見上げた。
「楓太さんは、どう思いますか?」
「ん?」
「お客さん3組のうち、グダラさんは誰に着いていってしまったのか。楓太さんは、誰が一番有力だと思いますか?」
「んー……。現状で視野を狭めるようなことは、あんまり言うもんじゃないとは思うんだけども……」
そう言いながらも、楓太は答える言葉を探すようにあごの下に片手を添えた。微かな笑みが唇に浮き、わずかに小首が傾げられる。
「顔馴染みの常連さんに今日に限ってついていってしまったのだとしたら、一体何が原因だったんだろうなって、疑問には思ってるよ」
「裏を返せば、常連さんについていく理由はあんまりない、と?」
「うん。よっぽど何か異常があったなら、護国さんも巫女さんも気付くだろうからね」
確かに、と夢子は胸の内で頷く。グダラさんがこんな風にいなくなってしまうのは今回が初めてなのだから、いつも来てくれている常連さんがその行動の引き金になったとは考えにくい、ということだろう。
「一見さんとなると……就活生らしき若い女性、ですよね?」
「うーん……。でも、就活生さんになると、ますますこの辺りには留まっていないような気もするけど……」
「あ。この周辺から離れちゃった人にくっついていっちゃってる可能性も低いんですよね?」
「うん。でも、『あくまで可能性』って話でもあるから……」
ふと、楓太の言葉が止まった。
どうしたのだろう? と楓太を見上げると、楓太は少し驚いたような顔でどこかに視線を向けている。その視線の先を追った夢子は、楓太が見つけたものに気付いて息を止めた。
店先に昔ながらの丸い円柱状のポストが置かれた古民家。その扉が内側から開かれて、人が出てきた所だった。
飾り気のない真っ黒なリクルートスーツに黒いパンプスを合わせた女性は、冴えない表情を浮かべて少しうつむいたまま、夢子達に背中を向けて歩き始める。ポニーテールにしても毛先が背中にかかる重い黒髪が、そんな彼女をなぐさめるかのように揺れていた。
「あの人……!」
巫女が口にしていた一見さんの特徴に一致している。
とっさに夢子の足が前に出たが、それを追い越して楓太が駆け出す方が早かった。
──って楓太さんっ!? 何って声かけるつもりなんですかっ!?
駆け出してはみたものの、身も知らぬ人を相手にいきなり『ちょっとすみません、グダラさんと一緒にいませんでしたか?』と話しかけるわけにもいかない。
パッと見た感じ、彼女に同行者の影はない。誰かが一緒にいた痕跡があるならまだしも、明らかに一人で行動している若い女性に唐突すぎる切り口で声をかけたら、今のご時世即刻110番に通報されるのではないだろうか。
──楓太さんくらいのイケメンならナンパってことにしてもらえるかもしれないけど……! あ、でもあの浮世離れした空気を察知されたらやっぱり通報される気が……!
そんな考えが頭の中を過ぎったせいで夢子の足が鈍る。
一方楓太は濡れた路面を不安定な下駄で走っているとは思えないスピードで駆け抜けると、女性が出てきた古民家の店先に向かった。店先に置かれた傘立てには、透明なビニール傘が畳まれた状態で立てられている。
その傘を引き抜いた楓太は、今度はスピードを落として女性の後を追う。
「すみません!」
女性がユラユラと頼りなく足を進めていたおかげか、楓太はあっさりと女性に追いついた。足を止めて気だるげに振り返った女性の数歩前で足を止めた楓太は、柔らかな笑みを浮かべながら手にした傘を差し出す。
「お忘れ物じゃないですか? 今日はまだまだ雨が降りそうですよ」
「あ……」
どうやら傘は、本当に女性の物であったらしい。持ってきたはずである傘が自分の手元にないことに気付き、続けて楓太の手の中にある傘が自分の物であることを確認した女性は、慌てた様子で楓太の方へ手を差し出す。そんな女性の仕草を見てから、楓太はゆっくりと女性へ歩み寄った。
──さすが楓太さん。あの一瞬で女の人が傘を忘れていることに気付いたんだ。
巫女が『透明なビニール傘を差していた』と言っていたのに、女性の手元にビニール傘がないということをあの一瞬で見抜いたのだろう。店先の傘立てに傘は1本しか入っていなかったから、自動的にあの傘が女性の物ということになる。
声をかけるきっかけにしたかったというのもあるのだろうが、楓太の場合純粋に雨に降られるかもしれない女性を心配する気持ちもあったのだろう。いきなり距離を詰めずに数歩間合いを残した所といい、本当に中身までイケメンだ。
「あ、ありがとう、ございます……」
「いえいえ、間に合って良かった。こんなお天気の中、就職活動ですか?」
「あ、はい……」
「大変ですね。目的の会社は、この近くなんですか?」
「あ……いえ。ここには、ちょっと……気分転換に……」
作務衣姿のイケメンがグイグイ質問してくることに戸惑いながらも、女性はポツポツと答えを返してくれる。楓太を出てきた店の店員だとでも勘違いしているのか、とりあえず不審者とは思っていないようだ。
「私……こういう雰囲気のある場所が、好きで……」
柔らかな笑みを浮かべて言葉をかけてくれる楓太には、なぜか胸の内をこぼしたくなる不思議な引力がある。胸の内に溜めたモヤモヤが苦しくて重いほど、その引力は強くなる。
この女性も、そんな引力に引かれるがまま、無意識にポロリと言葉をこぼしたようだった。口にした瞬間、女性は我に返ったのかハッと口元を押さえるが、目の前に立つ『お稲荷さん』はこぼれ落ちてきた言葉を見逃してなんかくれない。
「ここ、いい雰囲気ですもんね。ガイド本とかで知ったんですか?」
「あ、いえ。卒論の、関係で……」
「卒論?」
「あ、はい……。その、私……卒論で、川港について、やっていて……」
「へぇ! 景観問題とか、そういう関係ですか?」
「え……あ、私は、……その、民俗学というか……そんな感じで……」
散歩客を装ってゆったり歩き、円柱状のポストを眺めるフリをして足を止めた夢子は、そっと二人のやりとりに聞き耳を立てる。
本当は自分も会話に加わりたいのだが、ただの通行人のフリをしている夢子がいきなり会話に参戦するのは不自然すぎる。せっかく楓太を店員と勘違いしてくれて自然な会話が続いているというのに、それをぶち壊すことにもなりかねない。
──でも気になる……! 川港を民俗学的に研究してるとか、ちょっとお話聞いてみたい……!
美しい庭に建物との調和は不可欠だ。
特に日本建築は昔から、建物と庭の境をなくす……室内から見て、障子を開け放った時、柱・床・欄間を額縁として外の景色を絵画的に取り込み、自然と一体化することを至上の贅沢としてきた。
庭側からしてみても、建物は庭を構成するひとつの要素として考えられてきた所がある。
庭が建物の引き立て役を引き受ける西洋建築とは異なり、和風庭園と和風建築の間に主従はなく、互いが互いを引き立てあい調和する形が理想とされてきたのだ。
つまり、何が言いたいかというと。
──古い和風建築も十分私の守備範囲なんです……!!
「川港を歴史的に研究しているということですか?」
「はい! 町の繁栄の裏に川港アリ。『舟場』は昔、現在を生きる私達の想像以上に人を集める要素だったんです。この辺りにも、材木町や魚屋町といった町名にその頃の名残が残っているんですよ。岐阜の川原町は奥美濃から送られてきた材木や美濃和紙の荷揚場で、岐阜提灯や岐阜和傘、岐阜うちわなどの伝統工芸を生むきっかけにもなっていて……」
自分の卒論に興味を抱いてくれたのが嬉しかったのだろう。先程までとは打って変わってキラキラと瞳を輝かせて語りだした女性は、途中でハッと我に返ると顔を真っ赤に染めてうつむいた。
一方楓太は、穏やかな顔で柔らかく頷きながら言葉を紡ぐ。
「この町に深い歴史があることを知ってくれている方がいるのは、僕としてもとても嬉しいことですよ」
──あーあーあーっ! そーゆートコですよ楓太さぁんっ!
「じゃあ、護国神社に立ち寄ったのも、そういう関係だったんですか?」
「えっ!? ど、どうして私が護国神社に寄ってたってこと……!?」
『いきなりマシンガントークかましちゃった気まずさのフォローにイケメンがそんな全肯定するようなこと言ってきたらときめいちゃうに決まってるじゃんかよぉぉぉっ!!』と悶えていたら、楓太はスッと本題に切り込んでいた。さり気ないようで唐突な切り出し方に、夢子は内心で悶えていたことも忘れて息を詰める。
「ちょうど僕もお参りしていた所だったので。護国神社でチラリと姿を見かけた方をまたこちらで見かけるなんて、ご縁があるんだなと思っていた所に、傘の忘れ物に気付いたものですから」
「あ……あぁ、そうだったんですね」
──楓太さん、うまい……!!
護国神社は境内が広いから、自分の記憶の中に楓太の姿がなくてもきっと『こちらが気付いていなかっただけなのだろう』と都合よく解釈してくれるに違いない。現に女性はわずかに首を傾げたが、顔には納得の表情を浮かべている。
「護国神社には、自分を変えたくて行ったんです。あの……ウジウジしてる自分と、縁が切りたくて……」
作務衣姿のイケメンにグイグイ言葉を向けられて、ビックリさせられてと精神が揉まれている間に、女性の心の壁も徐々に低く、薄くなってきているのだろう。
女性は声をかけられた当初よりも滑らかに自分の言葉を紡いだ。多分もう、楓太のお稲荷さんパワーにやられているに違いない。
「ああ、かわらけ割りですか」
「よくご存知ですね」
「護国さんとは、少しご縁がありますから」
──かわらけ割り?
急に出てきた聞き慣れない言葉に夢子は首を傾げる。だがここで二人の間に割って入るわけにはいかないし、自力で調べようにも今はスマホも手元にない。
『かわらけ』とは、平安時代の貴族とかが酒盛りに使っていそうな、あの素焼きの盃みたいなやつのことだろうか。しかしそれを『割る』とは何事だろう。
「私、こんな性格だから……。就活でも、全然うまくやれなくて。……だから、今度こそって、思って……」
後で楓太さんに訊いてみよう、と夢子が心のメモ帳に書き留めている間にも、女性は必死に言葉を紡いでいる。それを楓太は夢子の言葉を聴く時と同じように、穏やかに、真摯に受け止めていた。
「今日これから、駅の近くで、面接があるんです。その前に、背中を押してもらうきっかけがほしくて。それで、護国神社まで足を伸ばして、精神的にエネルギーチャージもしたくて、ここにも……」
「『変わりたい』と望んで、何かしら行動に移した時に、もうその人は『変わっている』と思うんですよね」
フワリと差し向けられた言葉に、女性はハッと顔を上げた。そんな女性に向かって楓太はお稲荷さんスマイルを向ける。
「だってもう、『願うだけで動かない自分』から『願って動いた自分』になったんですから。きっとこれからも、どんどん変わっていけますよ」
女性はその言葉にわずかに瞳を揺らした。その揺れがにじんだ涙のせいだと分かったのは、女性がクシャリと表情を歪めたからだった。
「急に変わろうとするのは、誰でもしんどいものです。少しずつ、少しずつ……。その小ささに歯がゆくなることがあるかもしれないけれど、その小さな変化が重なった先で振り返った時に、きっと自分の成長に驚くことになると思うんです」
楓太はニコリと笑みを深めると小さく頷いた。
つらくて重たい荷物をたくさん乗せて喫水ギリギリまで沈んでいた舟から、そっと荷物を引き揚げるかのように。積荷を降ろした舟が、新しく『希望』という名の荷を乗せて、水面を軽やかに滑っていけるように。
「その変化の先に、たくさんの実りがあるといいですね」
「……はい!」
答える声は、涙がにじんでかすれていた。
だが真っ直ぐに楓太を見上げた顔には、重苦しさが取れた晴れやかな笑顔が広がっていた。




