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『国境の長いトンネルを抜けると雪国であった』というのは有名な一文だが、今の夢子の脳内には似たような文章が浮かんでいた。
──坪庭の石灯籠を踏み切ると護国神社であった。
信じられない思いで夢子は目を瞬かせる。
だが何度瞬きを繰り返しても周囲に広がっているのは山裾の木々がもたらす緑とその向こうに見える拝殿だけで、殺風景な坪庭の景色はどこにもない。
「え? えっ!? ええええっ!?」
「ほらね、護国さん。大丈夫だったでしょ?」
「いやはや、驚きですね……。珍しいんじゃないですか? こういう方は」
驚きに声を上げる夢子の隣で、楓太と護国は平然と言葉を交わしている。
まるで夢子の反応の方がおかしいとでも言わんばかりの平静っぷりに、思わず夢子はガバリと顔を上げた。そんな夢子に気付いた楓太が先制攻撃とばかりに声をかけてくる。
「ね? 特別な庭だったでしょ?
「とっ……! へっ……! えっ……!?」
「今回は護国さんと一緒だったから護国神社へ飛んだけど、翁様と一緒だったら伊奈波さんへ飛べるよ」
あの坪庭に招かれた夢子は、そのまま石灯籠の元まで導かれた。
セイタカアワダチソウが駆逐されたことで姿を現した石灯籠は夢子の膝より少し高いくらいの大きさで、置かれてからそこそこに長い時間を経ていることが色や質感で伝わってくる代物だった。
『じゃあ、飛ぶよ』
結構いい雰囲気の石灯籠だなぁと観察する夢子を他所に、石灯籠の前まで進んだ楓太は、あろうことかその石灯籠に片足を乗せると軽やかにその上へ己の体を引き上げた。
予想もしていなかったことに夢子はギョッと目を瞠ったのだが、驚きを口に出すよりも繋いだままだった手を引かれる方が早い。
石灯籠にスネをぶつけないようにするには片足を上げて足裏を石灯籠に乗せるしかなく、そこに腕を引き上げる楓太の力が加わって夢子の体は夢子が我に返った時にはフワリと地面から浮いていた。
さらにダメ押しのように護国が夢子の背中を押し、気付いた時には夢子の体は狭い場所に並ぶようにして楓太の隣に……すなわち石灯籠の上にあった。
──いやいやいやいや! 石灯籠は登るためにある物じゃないですからっ!
思わずそう口走ろうとしたのだが、夢子がそれを口に出すよりも楓太がカコッ! と鋭い音を刻みながら石灯籠を踏み切る方が早かった。手を繋いだままの夢子も楓太に腕を引かれる形で、体勢を崩した弾みで石灯籠を飛び降りた。
その瞬間、だった。
池の水面に映っていた景色が風を受けて乱れるように、夢子の目に映る世界がユラリと輪郭を崩したのは。
──えっ!?
景色が歪む気持ち悪さよりも、色が揺らいで混じり合い、再び像を結ぶ光景の美しさに夢子は目を瞬かせた。
ユラリ、ユラリと揺らめいた景色はしばらくするとピタリと定まり、それと同時に足裏が地面の感触を捉えた。
それを感じ取った瞬間、夢子の視界は靄を吹き払われたかのようにパッと鮮明に像を結んでいた。
『はい、到着』
満足そうに笑った楓太は、そこでようやく夢子の手を解放してくれた。
そして夢子の驚愕の叫びへ繋がるという流れである。
「さて、それじゃあ捜索を始めようか。……ん? 足乳根さんは、別で捜索に出た?」
「ええ、そのようで」
「これはマズいね、みんな不在じゃ」
──え、ちょっ!? 坪庭の石灯籠から飛び降りただけで別の場所にワープできるとか、どう考えてもおかしいんですけどっ! えっ!? このことに関しても説明はないのっ!?
明らかに『普通じゃないこと』に行き合った夢子はいまだに口をパクパクさせているのだが、楓太と護国はもうすでにグダラさんを探すことに頭を切り替えたらしい。歩き出しながら言葉を交わす二人に夢子の姿は映っていない。
──ちょちょちょっ! 待って待って! 連れてきたくせに置いていくとか酷いからっ!
身ひとつで連れてこられてしまったから、今の夢子はスマホすら持っていない。つまり、はぐれてしまったら連絡を取る手段が一切ないということだ。
いや、そもそも夢子は楓太の電話番号を知らないし、さらに言えば楓太がスマホを所持しているのかどうかさえ知らないから、持っていた所で連絡できないことには変わりはないのだけれど。
──でもスマホを持ってるか持ってないかって、それだけで安心感が段違いなんだよぉっ!
夢子は慌てて足を動かすと二人の後を追った。拝殿に向かって足を進める二人は、山裾と向こうを繋ぐ小さな石橋を渡っていこうとしている。
「護国さんは境内の中と、周辺をもう一度探してみて。誰もいなくなるとマズいから、声が聞こえる範囲の中にはいてね。僕と夢子ちゃんは、ちょっと足を伸ばして河原町とか岐阜公園の辺りまでを見てくるよ」
「ご一緒しなくても良いのですか?」
「さっきも言ったけど、護国さんまでここを留守にするのはマズいよ。ギリギリ境内の外周まででしょ? お客さんが来たのが分かる範囲って」
──護国さんってもしかして、社務所とか、参集殿とかの人?
夢子自身はよく分かっていないのだが、楓太と護国の言葉から考えるに、ここが岐阜護国神社の境内の中であることは確かだろう。
そこに来る『お客さん』とはすなわち護国神社にお参りに来る人のことで、そういうお客さんに気付かないとマズい『店主』というと、社務所か参集殿に勤める神職になるのではないだろうか。
しかし楓太は護国を『同業者』だと言っていた。もしかして参集殿の中に喫茶店が入っていて、護国はそこの店主であったりするのだろうか。
──名前もズバリ『護国』でそのまんまだし、もしかして代々護国神社に御縁があるお家の人、とか?
あれ? でも『護国神社』って、戦争で亡くなった御英霊を御祭神として祀っているわけだから、『代々』って言うほどの歴史はないよね? と夢子は首を傾げる。
「申し訳ありません。お言葉に甘えます」
「うん、任せて。……あ。社務所への聴き込みだけ、同行してくれないかな?」
夢子が二人の後ろを追いながら首を傾げている間に役割分担は終わったらしい。どうやら護国はここに残り、夢子は楓太に同行することになったようだ。
楓太と護国は拝殿の横を抜ける参道を逆向きにたどって社務所へ進んでいく。
山に少し入り込むように山裾の傾斜地に境内が広がる伊奈波神社とは違い、護国神社は車椅子でも無理なく参拝できそうなフラットで滑らかな境内だった。拝殿から太くて長い真っ直ぐな参道が先まで続いていて、大きな鳥居が途中に一基、果てにもう一基見える。拝殿を背にして歩くと右側が金華山の山裾、左側が杜という立地だ。
「夢子ちゃんは、護国神社に来たのは初めて?」
キョロキョロと周囲を見回す夢子に気付いていたのだろう。顔だけで振り返った楓太が涼やかに笑って問いを投げる。
小学生みたいな行動を楓太に見られたのが恥ずかしくて、夢子は首をすくめながらおずおずと楓太に答えた。
「はい。……何となく、場所は知っていたんですけど。実際に来たのは、初めてです」
「じゃあ、後でちゃんとご挨拶してこなくちゃね」
とりあえず今は、グダラさんを探すことが先決、ということなのだろう。
そのニュアンスを短い言葉から感じ取った夢子は、心持ち背筋を正して気を引き締めた。そんな夢子に笑みを残し、楓太は顔を前に戻す。
梅雨時の不安定な雨間のせいか、参拝に来ている人の姿は見えなかった。小鳥のさえずりだけが聞こえる境内を進み、誰ともすれ違うことなく社務所までたどり着く。
社務所の手前、社務所の中にいる人からはちょうど死角になる位置で歩調を緩めた楓太は、護国を見ると小さく頷いた。それに頷き返した護国は歩調を緩めないまま社務所に近付いていく。
お守りや御札を並べた窓口の向こうには巫女装束を纏った女の人が座っていた。護国の足音に気付いた巫女は穏やかな笑顔を護国に向ける。
「こんにちは、今日もようお参りで」
「やぁ、こんにちは。雨上がりの空気が気持ち良いですね」
親しげな雰囲気から察するに、護国とは顔馴染みの巫女なのだろう。天気の話題から途切れることなく世間話が続く辺りを見るに、護国はよくこんな風に巫女と雑談に興じているのかもしれない。
──すごい。うらやましい……
人見知りな夢子にとっては、必要連絡のためにゼミの同級生へ声をかけることさえ一大事だ。顔馴染みになったとしても自分から雑談を振るなんてひっくり返ってもできそうにない。
──楓太さんみたいに打ち解けられる人って、ほんとに稀なんだよね。それだって、楓太さんがグイグイ押してくれたおかげだし……。
何かコツはあるのだろうか。
後で余力があったら護国にひっそり訊いてみようと決意を固める夢子の前で、護国はさりげなく本題を切り出した。
「最近は雨続きですから、お参りに来られる方も少ないのではないですか? いつもの常連様方も足が遠のいていたり」
「そうですねぇ。あぁ、でも今日はいつものご夫婦と、ご家族連れの方が来てくださったんですよ」
「あぁ、あの方々も、最近の雨で来られていなかったから」
「ご夫婦の方は、ご高齢ですからね。雨の日に無理をしてこられた方が逆に心配しちゃいますけれど、久し振りにお顔を見れたのは、やっぱり嬉しかったですよ」
どうやら護国が楓太に話した三組のお客さんのうち、『老夫婦』と『小さな子供を連れた家族連れ』というのは、普段から折に触れて参拝している常連さんであったらしい。
老夫婦のおばあさんの体調が最近思わしくなくて心配だという話や、家族連れのお子さんが小さなレインコートを着てヨタヨタと自力で歩く姿が微笑ましかったという話に護国は嬉しそうに笑みを深めて頷いている。
「常連さんなら、探すのは比較的簡単かもしれませんね」
「うん。一見さんよりかはね。護国さんも、常連さんのことならよく知ってるだろうし」
ヒソリと楓太に話しかけると楓太もヒソヒソと答えてくれる。二人とも視線は護国に据えたままだ。傍から見たらちょっとした不審者かもしれない。
「やっぱりこんなお天気だと、常連様しか来ないものなのですかね?」
老夫婦と家族連れについてひとしきり話を聞いた護国は、最後のお客さんである『若い女性』へ話を向けようと話題を変える。
そんな護国の意図を知るよしもない巫女は、少し考えるそぶりを見せてから護国の言葉に首を横へ振った。
「そんなことはありませんよ。確かに、ここはバス停とかからも離れていますし、遠方からいらっしゃる方はこんな天気には珍しいかもしれませんが」
「その珍しいお客様が、今日はいらっしゃったのですか?」
「はい。少なくとも、ご近所さんではないと思います。スーツを着た若い女性の方でした。営業回り……というよりも、就活生といった感じでしょうか?」
「そんな風情の方が、こんなお天気にわざわざ? 何かの願掛けでしょうか?」
「もしかしたら、就職のことで何か願掛けをされていかれたのかもしれません。すごく張り詰めた顔をされていたのが、何だか気にかかって……」
曰く、ヒールのあるパンプスを履いていても小柄に見えるくらいの身長。真っ黒なリクルートスーツ。髪はポニーテールに纏められていても毛先が背中に届くくらいに長かった。髪色は黒。多分そんなにお洒落に気を配るタイプではない。透明なビニール傘を差していて、黒くて四角い、いかにも就活生が使っていそうな鞄を肩にかけていた。
……恐らく巫女は、そんな情報を伝えようと思って口にしているわけではないのだろう。ただ護国の雑談に応じて、他の雑談と変わりなく話しているだけだ。だが目的を分かって聞いているとあれよあれよという間に護国が必要な情報を聞き出しているのが分かってしまう。
──すごいなんてもんじゃない……
「これをやろうと思ってやっている訳じゃないんだから怖いよね」
喫茶店店主よりも刑事と言われた方がしっくりきそうな見事な誘導尋問に夢子はひそかに戦慄する。そんな夢子と同じ感想を抱いていたのか、楓太がボソリと夢子にだけ聞こえるように呟いた。
「本人は楽しく雑談しているだけなんだもんなぁ……。僕でも無理だよ、ここまでは」
──『ここまでは』ってことは、ある程度までなら楓太さんにもできる自信があるんですね?
思わず口に出しそうになった問いを夢子は苦労して呑み込んだ。そしてひっそりと『楓太さんと話す時は気を付けよう』と心に刻む。
そんなことを思っている間に護国による聞き取り調査……もとい雑談は終わったようだった。護国は穏やかな笑顔のまま巫女と別れ、参道を先へ進んでいく。少し間を置いて歩を進め始めた楓太と夢子は、再び巫女の死角に入ったことを確かめてから護国との距離を詰めた。
「イナバさん、常連のご夫婦とご家族は、どちらもここに来た後は岐阜公園へ散歩に向かうのが常です」
楓太が横に並ぶと護国は顔を曇らせながら口を開いた。
「ですが、こちらに来てくれてからもう随分時間が経ってしまいました。もう御自宅に戻られているかもしれません」
「一見さんの方はどう思う?」
「初めての方のことは、良くは分かりませんが……」
そんな二人の会話に夢子は後ろから耳を澄ます。
必要な情報は護国と巫女の話を立ち聞きしていたから頭に入っているが、護国と楓太の考えもきちんと頭に入れておきたい。
「どこかへ行くついでに立ち寄られたならば、もうこの辺りにはいらっしゃらないでしょう。ただ、遠方へ向かう方にグダラさんがついていってしまうというのは、考えにくいかもしれません。グダラさんがまだその方の傍についているなら、恐らく遠くへは行っていません」
「家に帰る常連さんにくっついて、相手のお宅に上がり込んじゃってるってのも考えにくい?」
「はい。そこまで見届けたならば、戻ってくるしかないと思います。個人宅の敷地内に私達は入れませんから」
「そうだね。招かれたならまだしも、ただくっついているだけでは入れない」
つまり、グダラさんがお客さんについていってしまっているならば、そのお客さんはまだこの周囲のどこかにいるはず、ということだ。
逆にそのお客さん達の姿がなかったら、グダラさんはお客さんについていったわけではないということになる。その場合はまた別の可能性を考え直す必要があるだろう。
「常連さん達の特徴を教えて。護国さん、詳しく知ってるんでしょ?」
「はい。老夫婦の方ですが、ご夫婦揃って痩せ型です。御夫君は坊主頭で背筋が伸びた、いわゆる『昔気質』な雰囲気の方ですね。細君は背筋が曲がっていらっしゃって、膝が悪いらしく杖をついています。今日の服装は……」
──この辺りで観光名所といえば、岐阜公園、河原町、正法寺辺り。年配の方や小さな子供連れのご近所さん、リクルートスーツを着た女の人なら、金華山の上までは登らないよね?
護国が語る常連さん達の特徴を頭に叩き込みながら夢子は自分の考えをまとめる。
しらみつぶしで探していては時間が足りない。出会える可能性が高い場所から効率的に回っていく必要があるだろう。
──多分、私が一番役に立てるなら、作戦立案の部分だから。
「分かった。ありがとう、護国さん」
家族連れの特徴まで聞き出した楓太は表情を引き締めると夢子を見遣った。そんな楓太に夢子は力強く頷いて応える。
「行けます!」
「うん」
参道の端にある大鳥居の下まで行き着いた楓太は、そこで足を止めると空を見上げた。
先程から雨は上がっているが、空はスッキリ晴れ上がってはいない。所々に見える暗い灰色の雲からいつ雨粒が落ちてくるかも分からない状況だ。
「あんまり時間がない。この時期の雨は、黒龍さんにお願いしても止められないんだ」
呟いた楓太は顔を護国に向ける。そんな楓太に護国が硬い所作で頭を下げた。
「御手間をお掛けしますが、どうかこの『護国』にお力をお貸しください」
「一度名代として請け負った一件だ。御柱名代の名に懸けて、全力を尽くすよ」
「宜しくお願い申し上げます。武運長久を」
「ありがとう。護国さんも、気を付けてね」
「はい」
再度軽く頭を下げた護国に軽く頷いた楓太は外へ、頭を上げた護国は内へ向かって歩き出す。
「行こう、夢子ちゃん」
「はい!」
立ち止まったままそんな二人の姿を見ていた夢子は、楓太の声を受けて走り出す。
そんな夢子の姿に、再び立ち止まった護国が楓太に見せたのと同じ礼を向けていた。




