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「それで? 護国さんは何をそんなに慌ててるんです?」
『護国さん』と呼ばれた男は、自分用に出されたグラスを素直に取るとグイッと一気に水を煽った。そんな護国に水のお代わりを注ぎながら楓太は小首を傾げる。
──……あ、やっぱり私に状況説明とか護国さんの紹介とかはないんですね?
この強引な流れは翁様の一件の時と同じだと察した夢子は、溜め息を溶かし込みながらコクリと水を飲み込んだ。そんな夢子のグラスにも楓太はチマチマと減った分の水を足していく。
「そっ……それが、そのぉ……」
護国はとにかく焦っているようなのに、なぜか言葉に詰まった。楓太はそんな護国の様子に首を傾げるが、護国はその視線には答えないままチラッ、チラッと夢子へ視線を走らせる。
──あぁ、護国さん。多分、あなたの反応の方が正しいです……
楓太は護国のことを『同業者』と言い表した。
その『同業』がカフェの店主の方なのか、はたまた『自称・お稲荷さん』の方なのかは分からないが、とりあえず夢子以上に楓太との付き合いが深いことは確かだろう。楓太を信頼して頼りにしているからこそ、何か問題を抱えて、あんなに慌てて飛び込んできたに違いない。
聡い楓太はそれをきちんと分かっているはずだ。だというのに、なぜか楓太はこの場に夢子を留め置いた。
ただの客と思わしき見慣れない人物がいて、その人物についてろくに説明もされなかったら、護国が戸惑うのも当然だと夢子は思う。
相談事の内容にもよるが、夢子と楓太の関係性が分からなければ護国もどこまで実情をつまびらかにしていいか分からないし、そもそも見も知らぬ第三者を前に相談事を口にしたい人間はそういないのではないだろうか。
夢子が護国の立場だったら、とりあえず客らしき第三者にはそれとなく退席を勧めて、なるべく楓太と二人きりになろうと考えると思う。
「あぁ、夢子ちゃんなら大丈夫。前に一緒に翁様の一件を解決してくれた子だから」
だというのに楓太は実にあっさりと、そして有無を言わせずその躊躇いをぶった切った。
──というか楓太さん! 視線の意味が分かってたんなら自己紹介タイムを取ってくれてもいいんじゃないですかっ!?
「はぁ、そうですか。では、包み隠さず」
──そして護国さんもそれでいいんかーいっ!!
ジトッと楓太に状況説明を求める視線を送っていた夢子は、期せず隣から聞こえてきた護国のあっさりした答えに思わずずっこけた。
──もしかして護国さん、性格的にも楓太さんの同類……?
夢子は思わずジトッとした視線をそのまま護国の方へ流す。
着古して少し黄ばんだ白いワイシャツにカーキ色のズボンといういでたちの護国は、そんな夢子の視線には気付いていないのか、人の良さそうな顔一杯に焦りを浮かべて口を開いた。
「実は、グダラさんが行方不明になってしまっていて……」
「へ? グダラさん?」
「えっ!? グダラさんがっ!?」
聞き慣れない名前に夢子は首を傾げる。
一方楓太は知っている名前だったのか、驚きを露わにすると眉をひそめた。
そんな楓太に夢子はひっそり目を丸くする。
「何でまたそんなことに……」
「それが、皆目見当も付かず……。自分じゃどうしたらいいのかも分からなくて、這う這うの体でこちらへご相談に」
──楓太さんでも、こんな風に驚くことってあるんだ……
何となく楓太は『いつでも涼やかに笑って何でもお見通し』みたいな印象があったから、渋い顔で考え込む楓太の姿は何だか新鮮だった。
イケメンはやっぱり渋い顔をしていても様になる。お陰で『で、グダラさんって誰?』という疑問が霧散してしまった。
──って、そんな不謹慎なことを考えている場合じゃなくて!
「護国さんは、いつグダラさんがいないことに気付いたんですか?」
楓太が夢子を同席させたのは、『一人で無為に待たせるのは申し訳ない』という理由ももちろんあったのだろうが、先程の『翁様の一件を解決した子』という発言から推察するに、夢子の助力を期待して、という理由もあるのだと思う。
──期待をしてくれてなかったら、楓太さんは私を帰らせたはず。
それくらいのことは分かる仲になれている、と夢子は思っている。
何だかんだ言いながらも、日頃楓太にはお世話になっている夢子だ。楓太の助けになれるなら喜んで協力するし、楓太がお世話になっている人が困っているならば、同じように助けたいとも思う。
そんな思いを込めて、夢子は今すぐ逃げ帰りたいと怖気づく人見知りな自分を抑え込んで護国を見上げる。一方護国はそんな夢子の発言が意外だったのか、驚いたように目を見開きながら夢子へ視線を向けた。
「ええっと……。私がグダラさんの不在に気付いたのは、今日の午前中のことです。時間で言うと、多分10時くらいでしょうか」
そんな護国の反応に一瞬、出しゃばりすぎたかなとひるんだ夢子だったが、夢子がそれを表情に出すよりも護国が記憶をたどりながら口を開く方が早かった。
「朝、目が覚めたら皆さんに挨拶に回るのが私の日課なんですが……」
朝の挨拶に回った時、グダラさんはきちんといた。挨拶を返してくれたから、それは確かだ。
だが次にふと気付いた時、すでにそこにグダラさんの姿はなかった。
「当初はしばらくしたら戻ってくるかと呑気に構えていたのですが、正午を過ぎても帰ってくる気配がないものですから。足乳根さんも何も聞いてないと言ってらっしゃたものですから、さすがに心配になって探し始めた、という流れです」
「探しても見つからなかったから、ここに?」
「そうです。周囲をぐるっと探してみたのですが、影も形も……。気配を掴むこともできなくて」
説明の言葉を重ねながら、護国はさらに眉尻を八の字に下げる。
そんな護国の説明に耳を傾けながら、夢子はふむ、と考え込んだ。
──とりあえず『グダラさん』っていうのは、護国さんの同居人、もしくはご近所さん的人ってことでいいのかな?
説明の中に出てきた『タラチネさん』という人も、恐らく似たような立場の人物なのだろう。
話から推測するに、三人はいつも姿が見える場所で行動していて、親しく言葉を交わす間柄なのだろう。大体はお互いの行動を把握しているのに、グダラさんが何も言わずに姿を消し、帰ってくる気配もないから、護国とタラチネさんが探していた。しかし見つけることができなかったから護国が楓太を頼りに来た、という流れであるらしい。
「グダラさんがいなくなる前、何か普段と違ったこととか、気になったことはないですか? その、グダラさんがいつもと違ったことを口にしていたとか……」
「うーん……」
考えを整理した夢子は、続けて問いを投げる。腕を組んで考え込んだ護国は、視線を宙に投げたまま眉間にシワを寄せた。そんな護国を見つめる楓太も護国と似たような表情を浮かべている。
「今日は、いつも通りにお客様をお迎えして……。でも今日は雨だったから、いつも以上にそのお客様も少なくて……」
──……もしかして、お店に閑古鳥が鳴いてる所まで同類?
「その『お客様』、どんな方々だったか、覚えてます?」
夢子がそんな失礼なことを思った瞬間、不意に楓太が口を開いた。初めて聞いた鋭い声に、思わず夢子は楓太を見上げる。
「え、ええ……。小さなお子さんを連れた家族連れ、ご年輩の老夫婦、それに、若い女性だったかと……」
「その中で、グダラさんの所にご挨拶に上がった方は?」
「全員、立ち寄られたかと思います」
護国に問いを投げた楓太は、さらに顔をしかめると黙り込んだ。
楓太が醸し出すただならぬ雰囲気に夢子はおずおずと楓太に声をかける。
「あの、楓太さん?」
「……多分、グダラさんは、ご挨拶を受けた誰かに着いていってしまったと思うんだ」
夢子の声を受けた楓太は、硬い声のまま己の考えを口にする。
その声の硬さと変わらず厳しい表情に思わず夢子は首を傾げた。
「私も、話を聴いていて、そうじゃないかとは思いましたけど……。あの、でも、そんなに大変なことなんですか? まだいなくなって、数時間しか経ってないんですよね?」
小さな子供が行方不明になっているならまだしも、話を聞いていた限りではそんな印象は受けなかった。『気付いてから正午まで待っていたけれど』という言葉から察するに、グダラさんはフラリと出掛けてしまっても自力で帰ってくることができるヒトなのだろう。ある程度の年齢であるならば、まだ明るい時間帯に数時間、行き先を告げずに出かけていても騒ぐほどのことではないのではないかと夢子は思う。
「大変なことなんだよ」
だが夢子の楽観的な言葉に楓太はいつになく鋭い口調で返す。このまま叱られるんじゃないかと思うくらい厳しい声に、反射的に夢子の背筋が伸びた。
「僕達はね、誰にも何も告げずにフラッといなくなっていい存在じゃないんだ。そりゃあ、そこらを散歩するくらいならいいのかもしれないけれど……」
そんな夢子の反応で、自分の声からいつもの柔らかさが欠けているとようやく楓太も気付いたのだろう。若干語調をやわらげた楓太は、眉間のシワを右手の人差し指と中指で伸ばしながら続く言葉を口にした。
「僕みたいに『約定』とか『名代』やらがあるなら話は別だけども。勝手にいなくなるのは立派な『違反』だ。最悪、存在に関わる」
「……店主が店番を放棄してフラフラ出歩いていると、店の存続に関わるってことですか?」
夢子に向けて説明しているはずなのにどこか独白じみた楓太の言葉を、夢子は自分なりに咀嚼してみる。その上で自分なりの解釈を口にしたつもりだったのだが、楓太から返されたのはキョトンと丸くなった瞳だった。
──えっ!? 違うっ!?
「ふはっ」
的外れなことを言ってしまったのかと夢子が固まった瞬間、楓太の口からこぼれたのは気が抜けた笑い声だった。
──え?
「ははっ、夢子ちゃん、流石だなぁ」
「えっ!?」
「たとえがものすごく的確」
キャトキョトと目を瞬かせながら楓太を見上げると、楓太の顔からは硬くて厳しい表情が消えていた。顎に片手を添えてクツクツと肩を揺らす楓太の顔には、いつも通り涼やかな笑みが浮いている。
そんな楓太に毒気を抜かれながら、夢子はポロリと言葉を口にした。
「……的確、でしたか?」
「うん。ろくに説明されてないのに、よくそこまで的確なたとえが出たなって感心しちゃったよ。やっぱり夢子ちゃんは賢いね」
「……ろくに説明してないって分かってるなら、ちゃんと説明してくれてもいいと思うんですけど」
「あはっ、ここまで分かってくれてるんだから、特に説明は必要ないよ」
──……ここでクールビューティーの微笑みを使ってくるの、反則だと思うんですけどぉ?
楓太は声音に笑みの気配を残したまま視線を護国に投げる。『まぁ、そこまで信頼してもらえるのはぁ? 確かに嬉しいんですけどぉ?』と逆ギレじみた言葉を心の中で転がしながら楓太の視線を追った夢子は、何やら護国が納得の表情を浮かべて夢子を見つめていることに気付いた。
「? ……あの、何か……?」
「あ、いえ、すみません」
夢子は思わずむくれていた自分を追いやって護国に疑問の声を向ける。
そこでようやく自分が夢子を見つめていたことに気付いたのか、護国は慌てたように両手を振った。
「イナバさんが、なぜ貴女をこの席に着かせたのか、少し分かったような気がしたものですから」
「いいでしょ、夢子ちゃん」
楓太はカウンターの中からもうひとつグラスを取り出すとその中にも水を注いだ。そのグラスを自分の口元に運んでゴクリと水を飲み下した楓太は、涼やかな笑みの中にわずかに凄みを落とし込んで護国を流し見る。
「……あげないからね?」
「っっっ!?」
──な、なななな何を言ってるんですか楓太さんっ!!
喉仏が水を飲み込む動きに合わせて揺れる様に見惚れていた夢子は、低く落とされた声に思わず動揺する。
──い、色気が……っ! 凄みによって醸造された色気が……っ! 作務衣姿でズボラ臭がしないせいで色気の破壊力が……っ!
突如楓太が醸した空気に、夢子は思わず内心だけで『あーっ!! お客様!! あーっ!!』と意味もなく大声を上げる。いや、お客様はこちらなのだが。
そんな夢子の心の声が聞こえていない護国は、人の良さそうな顔立ちに穏やかな笑みを浮かべると、表情と同じくらい穏やかに首を横へ振る。
「イナバさんが大切にしている方を、横取りしようなんて思っておりませんよ」
──た、たたたたた大切っ!? 大切って何っ!?
「そう、分かってくれてるならいいんだ」
そんな護国に、楓太はまだどこか黒さや鋭さが垣間見える微笑みで応えた。
──楓太さんと私はただの店主と客で、常連客かもしれないけどそれだけの関係で、時々相談事もしてるけど、でもそれだけで……!!
一方、夢子の心の中では言い訳とも何ともつかない言葉が高速で並べ立てられていく。もちろん、心の中だけで並べているのであって口には出していない。というか、実際に同じスピードで口にしていたら確実に舌が回らない。
「さて。夢子ちゃんのお陰で頭が冷えた所で、ちょっと仕切り直そうか」
思考回路がオーバーヒートしそうな夢子をよそに、楓太は唐突な色気を綺麗にかき消すといつも通り涼やかな笑みを浮かべた。
「グダラさんが行方不明になっている。原因は不明。恐らく今日の午前中から。……ここまでは大丈夫だね、護国さん」
「はい」
護国も来店直後の恐慌状態を脱したのだろう|楓太の言葉に頷く護国は表情に不安を残しながらも纏う空気は落ち着いたものになっている。
「重ねて確認だけど、特別に何かがあったという訳ではないんだね?」
「はい。いつも通りの日です。いつも通りにお客さんをお迎えしていました」
「だけどグダラさんは、護国さんと足乳根さんが認識できる範囲から姿を消した」
「はい」
二人の落ち着いたやり取りに、夢子は無理やり心を落ち着けた。一人だけ舞い上がって足手まといになったら元も子もない。
──とにかく、楓太さんが私のことを買ってくれていることは確かなんだから、その期待を裏切るわけにはいかない……! 煩悩を振り払って集中……っ!
「大事なことを聞き忘れていたね」
スーハーとひそやかに深呼吸を繰り返す。
そんな夢子の耳に、楓太の真剣な声が響いた。
「護国さんは、僕にどうしてほしいの?」
その言葉に、夢子は護国を見遣る。
……神は、頼まれなければ動けない。真剣なヒトの願いの声を受けて初めて、神は動くことができる。
ふと、そんな言葉を思い出した。
「グダラさんを探してください。探して、引き会わせていただければ、事情聴取や、場合によって必要な説得は、私がします」
答える護国の声も、静謐な空気に満ちていた。しんと凪いだ水面に一滴、声という名の水滴が落ちて波紋が広がっていく景色が一瞬、夢子の脳裏に広がる。
そんな護国の言葉に、楓太は一度瞳を閉じた。フーッと深く吐かれる吐息に、楓太の前髪がわずかに揺れる。
「……分かりました」
瞳は、閉じられた時以上に静かに開いた。
瞼の向こうから現れた漆黒の瞳は、ゾクリと背筋が震えるくらいに静かで……だからこそ楓太が、夢子が見たことがないくらい真剣に言葉を紡いでいることが分かる。
「御柱名代『楓』の名において、貴方の願い、聞き届けました」
その空気に、夢子は思わず息を詰める。同時に、ピンと張り詰めていた糸が何かに弾かれて震えるような、そんな空気の変化を感じた。
──それだけ、これは大切なことなんだ。……大変な、依頼なんだ。
夢子は息を詰めると、カウンターの下でそっと両手を握り込んだ。張り詰める空気に、怖気ついてしまわないように。
──私も、頑張らないと。
「じゃあ、さっそく出掛けようか」
「グダラさんがいそうな場所に、もう目星がついてるんですか?」
ひそかに気を引き締める夢子の前で楓太はカッコカッコと独特な足音を響かせながらカウンターから出てくる。夢子が問いかけながら楓太の行動を目で追うと、楓太は表扉の鍵を内側から施錠した所だった。
「ううん、さすがに分からない。情報がなさすぎる」
『表扉を内側から閉めてしまったら外に出られないのでは?』と首を傾げる夢子を素通りして、楓太の視線は護国を捉える。
「だから、とりあえずグダラさんのお宮から足跡を辿る旅に出発してみようと思って」
視線を受けた護国はそれだけで楓太の意図が分かったのだろう。少しだけ眉を下げて困り顔になった護国は、一度夢子に視線を落としてから楓太を見つめ返す。
「護国さん、僕達を連れて飛べるよね?」
「私とイナバさんなら、問題ありませんが……」
「大丈夫。夢子ちゃんには普段からしこたま御神水を飲ませてるから」
──飛ぶ? 御神水?
二人だけで通じている言葉に夢子は首を傾げる。
『御神水』とは、店に来るたびにガバガバ飲まされる水のことだろうか。しかし『飛ぶ』とは何事だろう。護国さんが実はプライベートヘリを持っているセレブとかいう話だろうか。
「夢子ちゃん。翁様が毎回、そこの坪庭から登場するの、不思議に思ったことない?」
頭の上に『?』を浮かべていると、不意に楓太は話の矛先を夢子に向けた。
「え、翁様?」
「そう。夢子ちゃんに懐いちゃった翁様」
懐かれているのかどうかは分からないが、あの一件の後もこの店で何回か翁様には遭遇している。翁様が先にカウンターの上の座布団に座っていることもあれば、夢子がカウンターに落ち着いてから翁様が登場することもある。そして言われてみれば確かに、翁様が表扉から登場したことは今まで一度もなかった。
後から現れる時、翁様はなぜかいつも坪庭の石灯籠の上にチョコンと登場して『楓の! ほれ! 来てやったぞ! 早うわしを招き入れぬか!』と楓太を呼び付けるのが常だ。
言われてみれば、四方をガラス扉と壁に囲まれた中に、翁様は毎回唐突に現れている。だが初めて会った時も翁様は坪庭から現れたから、もうそういうモノなのだろうと夢子は思っていた。
「実はね、ここの坪庭はちょっと『特別』なんだ」
「……私的には、ここはただの『空地』であって、まだ『坪庭』と言える状態じゃないんですけど」
「まぁその件は追々ということで」
夢子のお決まりの文句にほんのわずかに苦笑をこぼした楓太は、夢子の傍らまで足を進めると夢子へ片手を差し伸べた。
「あんなに小さな翁様がどうやって伊奈波の杜からここまで来ているのか、知りたくない?」
「え……」
確かに初めて翁様に会った時にそのことは考えた。だがその疑問は翁様と顔を合わせるごとに薄れつつある。『そういうものなのだろう』と一度納得してしまうと、人間は案外すぐに違和感を忘れてしまうものなのだ。
だが楓太は、その疑問に答えをくれるという。おまけにどうやらその答えにはこの店の坪庭が絡んでいるらしい。
うずっ、と、心が動いた。
謎への答えを求める知的好奇心と、楓太が口にした『特別』という響きに。
答える言葉をとっさに口にすることはできなかった。だから夢子は言葉に詰まったままソロリと楓太へ手を預ける。
初めて触れた楓太の手は、いつも振る舞ってくれる水のようにひんやりとしていた。夢子が躊躇いを乗せて触れる程度に伸ばした手を、楓太は自分の手ですっぽり包むと嬉しそうに握りしめる。
──楓太さんの手、思ってたよりも大きい……
前々からすごく綺麗な手をしているとは思っていたが、触れてみるとそれよりも大きさや分厚さが印象に残って、『やっぱり男の人なんだな』という言葉が夢子の胸の内をよぎる。それが妙に気恥しくて、顔が熱くなるのが分かった。
そんな夢子の視線の先で、いつもの涼やかさに嬉しさを混ぜて楓太が笑う。
「行こう、夢子ちゃん」
腕を引かれた力を感じなかったのに、夢子の体はフワリと軽やかに立ち上がっていた。まるで楓太の言葉に操られているかのように、夢子の体は軽やかに通路を進む。
──操られていないなら、きっと私の体は今、数ミリだけ宙に浮いているんだ。
こんなに体を軽く感じたのはいつぶりだろう。最近は卒論と卒業制作に欝々としていて、気付くといつも背中を丸めてうつむいていたような気がする。
「ようこそ、僕達の神庭へ」
夢子の手を引き、護国を従えて店奥に入った楓太は、坪庭に通じるガラス扉にあるレトロなクレセント錠を外す。
「さぁ、どうぞ」
初めて坪庭に足を踏み入れた時と同じセリフで、楓太は夢子を内へ招く。
だから夢子も、同じ言葉で答えた。
「はい!」
透明なガラス扉を1枚くぐっただけなのに、目を射る光が酷く眩しい。
そんな些細なことにも躍る心を感じながら、夢子は楓太の招きに応じて境界の敷居を越えたのだった。




