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ラグナは十分とたたない内に酒場にたどり着く。
正直に言って薄汚い酒場だ。しかし、それなりに太い道に面した壁には窓が多く、中の様子が通行人にもわかることで入りやすさが演出されていた。だが、今はその窓もしっかりと戸締まりされており、ラグナが中の様子をうかがい知ることはできなかった。早朝と言える時間は過ぎたがまだしっかりと午前中であるこの時間に酒場が営業していないのは当然の結果だった。
そんな簡単なことも考え付かずに来たラグナの往生際は悪く、誰かいないかと中を覗ける場所を探したり、壁に耳を当てたりしながら人の気配を探ったりしていた。
そんな不審者丸出しのラグナの背後に身の丈の大きな人影が忍び寄った。
「おい、何をしてんだ!!」
ラグナは怒号に驚き跳ねるように振り返るとそこには体が縦にも横にも大きい寸胴のような男がいた。
険しい顔でラグナを睨むその男はこの酒場の店主だ。
胸の前で組まれた腕は丸太のように太く、線の細いラグナなど簡単に二つ折りにたたむことができそうだ。
その威圧感を前にラグナは体を縮こませるしかなかった。
「何だぁおめぇは?泥棒かぁ?」
「ちっ、違いますよ!昨日ここに来た客なのですが覚えてませんか?」
迫る店主の顔からのけ反りながら距離をとり、ラグナは冷や汗を背中に感じながら必死の弁解をする。ラグナの言葉で店主はさらにラグナに顔を寄せ、訝しげにじっと見つめてくる。ガンを付けてくる店主に目でも悪いのかとつっこみたくなる。
そのうちに店主の顔は離れ、ニカッと笑う。
「おお!!おめぇか!」
どうやら覚えていてくれたようだ。ラグナは店主に愛想笑いを返す。
「八百屋の倅だろ!下着泥棒はいいかげにしとけよ!かーちゃんが知ったら泣くぞ」
「えっ?」
「えっ?」
二人の間が凍る。
その間で店主はあわあわと取り繕い始める。
「違う、間違った。おととい、女風呂を覗いて捕まったローグだよな」
「違います」
ラグナの冷めた視線に耐えきれなくなった店主が目線を下に落とす。ラグナのさっきまでの冷や汗はすっかり渇き、今度は店主の額に汗が浮かんでいた。
「あの、覚えてなかったらいいんですよ。別に」
「お、覚えてるぞ。俺はこの商売を続けて長いんだ。一度来ただけの客の顔だって俺は覚えてるんだ!!ただ顔と名前が一致しないって言うかぁ······。確か兄ちゃんはうちに何度か来てくれたよな!」
「まぁ、そうですね」
確かにラグナはこの店には何度か来ている。しかし、常連というほどでもないラグナは店主に名乗るどころか店員と客として最低限の会話しかしていない。
この店主は僕の何を知ってると言うのだろうか。
ラグナがそう呆れていたところ、ひらめたとばかりに店主は手を叩く。
「分かった!!最近、夜な夜な徘徊しては婦女子に向かって恥部を露出してるって噂の·····」
「ちがああぁぁう!!!何なんだよさっきから!変な奴とばかり間違えやがって!この店は変態が集う店なのか!?それともそんなに俺は変態に見えるってのか!!?あぁん!?」
ついにラグナが我慢の限界を超え声を大きくし、荒げる。
そして、それをうつ向いて聞いていた店主の額にも青筋が入る。
「うるせええぇぇ!!!大体お前が地味なのいけねぇんじゃあねえか!!誰だよ!!てめぇは!?印象に残らねぇんだよ」
「やっぱり覚えてないんだろうが!!何がこの商売を続けて長いだ!!こんな汚い店たたんじまえよ!!!」
「覚えてますうぅぅ!!ただおめぇの特徴がねぇんだよ!!!だから他のうろ覚えの奴とごっちゃになるんだよ!!バーカ!!」
どちらからともなく、二人は胸ぐらを掴みあう。ラグナと店主の言い合いはそのまま殴り合いに発展した。
向かいの道の通行人冷ややかな目線を浴びせ足早に過ぎ去っていく中、二人は地面を転げ回り、服を土で汚しあっていた。
◆
ラグナと店主の争いは終わり、二人は話をするために店内に入った。清掃のためにテーブルの上に並べられた椅子を二つだけ下ろし、向かい合って座っている。
店主とラグナの喧嘩は終わってみれば、傷跡はラグナにだけ残っていった。屈強な体格の店主にラグナの拳はまったく歯がたたず、丸太のような店主の腕がラグナに当たる度に青アザが出来た。
「でかい図体して大人げないんだよ·····」
机の上に突っ伏したラグナは負け惜しみを呟く。
「で、おめぇは何しに来たんだ?」
ラグナの言葉を独り言と無視し、店主が問いかけることでようやく話が進む。
ラグナはいろんな文句を飲み込んで机から顔を上げる。
「僕が昨日ここに来たことは覚えているか?」
「来たことは覚えてるぞ。だが、どう過ごしていたかはおぼえてねぇな。俺の中でおめぇはだだの背景の一部だった」
店主はラグナをバカにしたような笑みを浮かべ、ラグナはそれを顔を引きつらさて受け止める。
ラグナにはそれを受けてたつ体力は残っておらず、もうこれ以上話が脱線するのも御免だった。
「じゃあ、昨晩、顔に傷のある身なりのいい女が来なかったか?」
店主の態度から自分の事についての情報は出てこないと踏んで、ラグナは切り口を変えて女のことを聞いてみる。
「おお!その客なら覚えてるぞ、うちの客層とは随分違ったからな」
どうやら女と出会ったのはここで間違いない様だった。
ラグナは無駄足の上に無駄にボコボコされるという事態を回避できた事に安堵する。
「その女どんな様子だった?」
店主はラグナの問いに答えるべく腕を組み、視線を変え、頭を働かせる。
「確か、店に入ってカウンター席に座ったんだ。普通に酒を飲んで·····。近く席の男との会話が随分弾んでたな·····。あっ!あれがおめぇだったのか!?だったら俺に聞く必要ないだろが」
「うるさいな。覚えてないんだよ」
「ハッ。おめぇはぶっつぶれてたもんな!女の前で情けねぇ」
「いいから続けろよ、ゴリラ野郎」
「あぁん!?」
店主が立ち上がりラグナの胸ぐらを掴む。
「面倒くさいっ!もう面倒くさいからつっかかってくるな!!」
ラグナの心からの叫びが届いたのか、あるいは既に満身創痍のラグナに追い討ちを掛けるのが躊躇われたのか店主は胸ぐらから手を離し、ドカッと椅子に座り直す。
しかし、まだ気に入らないのか仏頂面だった。
「それでその後どうなったんだ?」
「女と飲んでいる内におめぇがぶっ倒れた。その後、女がおめぇの首根っこ捕まえて引きずりながら店を出てったな」
ラグナの想像していた物とは随分違う事実だった。
ラグナは酒の力でハイになってしまった自分が童貞であることを忘れて身の程知らずにも女を口説き、宿に連れ込んだとばかり思っていた。
しかし、実際は酒場の時点で既にラグナはグロッキーだった。これでは、まるで女がラグナを宿に連れ込んだようだ。
だが、ラグナはこの事実に納得がいった。そもそも、恋愛経験のない自分が出会ったばかりの女性を口説き落とし、一夜の間違いを起こさせるなんて凄腕のヤリチンのような芸当が出来るとは思えなかったのだ。
この場合なら、女の方が凄腕のビッチだったという方が納得がいく。
思えば、女の体は随分と鍛えられているようだった。あの筋肉を使って男を組み伏せ、次々と操を奪っているのだろう。
自分の妄想が多少行きすぎているのを自覚しつつも答えの出ない予想を切り上げ、ラグナは店主へと向き直った。
「そんな状態で僕は勘定をどうしたんだ」
ラグナはここに来た一番の目的を果たすべく問う。
「女が一緒に払っていったよ。女に金まで払わせて·····つくづく情けねぇな!ププッ」
「うるさい、意識がないんだから仕様がないだろうが」
そうは言いつつも、ラグナ自身も情けなさを感じていた。だが、凄腕のビッチに操を捧げた対価だと思うことで納得することにする。
それはそれで、自分の春を売ってしまったという切なさの様なものが湧いたのだが······。
「もういいか?そろそろ仕事しなきゃならねぇからな」
店主は話を切り上げようと立ち上がる。
「最後にもう一つある」
「なんだ?」
「僕とあの女、明後日何かあるらしいんだがそれらしい話を聞いてないか?」
「さあな、客どうしの話を一々聞くなんて野暮な真似してねぇよ」
「そうか」
用を済ませたラグナもここから去るべく立ち上がる。
「まあ、一応礼は言っておく」
気恥ずかしさを隠すためにぶっきらぼうに言う。さっきまで殴りあっていた相手に直ぐに態度を変えられるほど素直にはなれなかった。
「構わねぇよ。またうちで飲んで行ってくれればな」
そう言った店主のにやけ面はそんなラグナの様子を見て笑った様だった。
ラグナは店主に背を向け、出口へと向く。
「ラグナだ。今度は忘れるなよ」
ラグナは店主の反応を聞くことなく立ち去って行った。
扉を開けた合図のドアベルがけたたましく鳴っている。
「だから、忘れてねぇっていってんだろ」
店主はさっきまで使っていた二つの椅子をテーブルの上に戻し、モップを手にとり、店内の清掃を開始する。
「それにしても、あの女何処かで見たことある気がするんだよな·····」