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人は誰かから必要とされなければ生きていけない。
その事を僕は物心ついた頃には悟っていた。
人は社会を築き、生産活動を行い、生産物を交換しあう。そうすることで人は一つの技能を集中して伸ばす事ができる。農家は家や家具を作れなくても良いし、大工は薬を作れなくても困らないし、薬師が包丁や鍋が作れなくても問題ない。自分にできない事は誰かにやってもらい、その代わり自分の得意なことでみんなを助ける。生きるために必要なことをみんなで役割分担する、これが人間の社会だ。
だからこそ、何もできない人間に居場所はない。
そして、孤児だった僕は親に捨てられた誰にも求められない存在だった。孤児院では、容姿の良い子や賢い子から引き取られていく。求められない子供はなんの宛もなく孤児院を出ることになる。
僕は求められない恐怖に怯えていた。
幸いな事に魔術の才能があったようで、裕福な魔術師に拾われ、養子兼弟子としてなんとか身の置場所を見つけた。しかし、そこでも僕の存在価値は問われる。
悪魔のような師の教えは厳しく、僕は何度も胃の中身をひっくり返し、何度も死んでしまいそうなほど血を流した。
こなせ、さもなくば死ね。
そう言っているようだった。出来なければ捨てられるという確信があった。
このままでは無価値な自分に戻ってしまう。
拷問のような修行もその恐怖を気力に変えてなんとか耐え抜き、一端の魔術師となることができた。そして、師はそれに満足したかのようにこの世を去っていった。
師匠兼養父の死を喜べばいいのか悲しめばいいのか僕には分からなかった。僕たちはそんな関係だった。
だが、幸運なことに師の財産を受け継いだ僕はいつの間にか一生食うに困らなくなっていた。
いままで生きるために、捨てられないために必死だったはずなのに急にそんな必要は無くなった。
自分が空っぽになっていく感覚を今でも覚えている。
しかし、
人は誰かに求められないと生きていけない
その教訓に突き動かされるように魔術師として今は生きている。
だからだろうか、こんな過ちを犯したのは。
心の底で無条件で自分の事にを必要としてくれる存在を求めていたのだろうか。
愛に飢えていたのだろうか······
◆
早朝の静けさが小鳥たちの鳴き声を強調している中、ラグナ・サリヴァンは頭を抱えていた。ベッドの上で身を起こし、寝癖でボサボサの黒髪をさらにボサボサにしていた。
ベッドの上だが、ラグナの家ではない。マットレスの固さがそれを示していた。
ラグナには昨日の夜、酒場で飲んでいた後からの記憶がないことからきっと酔いつぶれてしまったのだろう。酒の味を覚えたばかりのラグナにはまだ加減が分からなかったらしい。
だが、二日酔いの頭痛で頭を抱えるなどという傍目にも分かりやすい悩み方をしているわけではない。
ラグナは、見間違いという可能性にすがるようにゆっくりと敢えて見ないようにしていた右隣に目をやる。
「誰なんだ、この人は······」
ベッドの上にはラグナ以外の人間がいた。
性別は女、赤い髪はずいぶん長いようだ。最大の特徴は、顔に縦に一線、横に一線の大きな傷があることだった。そして、その傷が女の目鼻立ちの美しさを引き立てていた。
掛け布団からはみ出ている部分から推測するに全裸。
全裸の美女が同じベッドで寝ている。これがラグナの悩みの原因だった。
「これ完全にやっちゃてるよ······」
同じベッドの上に男女二人、女は全裸、ついでに自分も全裸で朝を迎える。この状況で昨夜に何があったかを察することができないほどラグナは初な子供ではなかった。
二十歳の童貞で今までも恋人がいたこともないラグナが記憶がない内に女性と致してしまった。皮の剥けきっていない自分の息子が一晩見ない内に一皮むけて誇らしげに見える。
自分の無責任な行動に思わず半生を振り返ってしまうほどラグナは打ちひしがれていた。
彼女の名前さえ知らない。どういう経緯でこうなってしまったのか、この女性がどういう人間なのかも分からない。事に及んだ経緯によってはこの後ややこしい事になるかもしれないと思うと逃げ出したくなってくる。
しかし、男として責任を取らなければ。
そう考えが決着し、決意と供に改めて女の方に目を向ける。
すると、黄金の瞳がこちらを見つめていた。
ラグナの一瞬前の決意は消え去り、ラグナはベッドの上から転がり落ちる。しかし、その失態にすぐさま気付き、立ち上がり、自分が全裸だとういうこと忘れて身構える。
「あのっ、あのっ······」
なにか言わなければと思うが、あまりの不意討ちにラグナの頭は真っ白になり言葉が出てこない。
そんなラグナを女はまだ眠たそうな目で見つめている。まだ寝ぼけているのだろう、女ゆっくりと起き上がり辺りを見回す。
そして女は半開の目を何かを思い出したように勢いよく見開いた。
「ラグナ!今何時だ!」
「えっ、えっ」
戸惑うだけのラグナを女は役たたずだと判断し床に散乱する服へ走り、ポケットから懐中時計を取り出す。
ベッドの中から出てきた女の裸体にラグナは思いに反して注目してしまう。
鍛えられているのであろう女の肢体はどこも引き締まっており、肌の艶はラグナにその弾力を想像させた。
女の体を走るラグナの視線は最終的に女の胸で止まる。それは脂肪の薄そうな女の四肢からは想像出来ないほど膨らんでおり、腕の取り回しにも多少の影響が及んでいる様だった。
「くっ、まずい!」
ラグナの無遠慮な眼差しを気にした風もなく、時刻を確認した女は気を急かしながら散乱した服を拾っては身に付けを繰り返し、あっという間に人前に出られる格好になる。しかし、無造作に床に置かれていたせいか女の高級そうな服のに刻まれた無数のシワはこの場ではどうしようもなさそうだ。
女はそれを気にした風もなく手櫛で軽く髪を整えた後に、部屋を出ようとドアノブに手をかける。
そして、僅かに扉を開けた女はラグナの方を振り返った。
「例の件は明後日には準備ができるだろう。お前も準備しておけよ!」
「えっ、なんのこ「ではな!」
女はラグナの問いを聞くことも泣く弾かれたように出ていった。
バタンと音を出して扉がしまると人数が一人が減った部屋は静寂を取り戻していた。
「はぁ~」
全裸で立っていたラグナは思い出したようにベッド腰をかけ、ため息を一つつく。
まだ一日が始まったばかりだが随分と疲れた気がする。
結局、女とはまともに話すこともできなかった。女についての情報も全く増えなかった。しかし、ラグナが嫌がる女を無理やりだとか酔わせて判断力を失わせていいようにするといった犯罪紛いの方法で事に及んだのでは無いようだった。女が名前を知っていたことから自己紹介も済んでおり、お互い合意の上だったのだろう。
ラグナが一番心配していた揉め事が起こる様子はなかった。
「それにしても、例の件ってなんだ?」
一つの不安が解消されたことによって一つのの疑問を考える余地が生まれた。
どうやら何かを明後日に何かあるようだが、記憶を巡らしてもラグナの予定に特別なことはない。
つまり、昨晩の内に女と話している中で生まれた用事のようだが、記憶のないラグナには全く検討もつかなかった。準備しろということだが、何をするかも分からないのに準備のしようがなかった。
「まあ、明後日になれば分かるだろう」
分からないものは分からない。いくら考えても仕方ない。
ラグナは考えることを放棄して、自分もこの場を去るために服を着るべく立ち上がる。
女とは違いゆっくりと身だしなみを整えながら思う。
どうか、面倒な事になりませんように。
◆
ラグナが一晩を過ごした部屋は、ありふれた宿屋の一室だった。
少しばかり古めかしい宿は、歴史あるリエリス王国王都のアンダーグラウンドな歓楽街に完全に溶け込んでいる。あまり、日当たりのいい場所ではないが女を連れ込むための宿はそんなものだろう。
ここで初めてて迎えたのだと思いしばらく見上げてみるが体感として童貞のままのラグナには感慨のような物はわいてこなかった。
「どうせなら覚えておきたかった······」
人生において一度きりの真の男になる瞬間を忘れてしまっている。さらには、その相手はラグナ好みの胸の大きな女性だった。とても素晴らしい経験をしたはずなのに覚えているのは女が着替える前の一瞬の裸体だけだ。
酒はラグナに過ちを犯させただけでなく、その過ちによって得る筈だった物さえ奪い去った。ラグナに残っていたものは罪科だけだった。
「お酒って怖い、これからは気を付けよう······」
ラグナはこうして人生における教訓をまた一つ胸に刻んだ。
一夜の出来事に気持ちの決着をつけ、宿に背を向け家路に向かおうと一歩を踏み出す。
しかし、それは一歩で終わる。
「酒と言えば、僕は昨日の酒代どうしたんだろ?」
そんな疑問が浮かび、足を止め財布のなかを覗いてみる。
財布の中にあった金額を細かくは覚えていないが、一晩飲み食いした割には減ってない気がする。
というか全く減ってない気がする。
普通に考えれば、客が金を払わず出ていこうものなら店主が黙っていないだろう。金が減っていないのも一夜を共にした女が払ったと考えればつじつまが合う。
しかし、ラグナは今朝の一件から昨晩の自分を全く信用していない。
「それに、昨晩のことが何か分かるかもしれない。例の件とやらも気になるし」
酒場はここからすぐ近くだった。
「行ってみるか」
ラグナは昨晩訪れた酒場へと進路を変えて今度こそ歩き出した。