図書館
誰の目にも留まることのないよう、決行には新月の日を選んだ。結果から見れば、この決断が一番の最悪であった。
この図書館の無限にも思えるパピルスの蔵書は、確かに全てが高貴な知の結晶体であるが、まやかしに過ぎない。プトレマイオスの一族は森の中に木を隠した。理由は明白で、彼らにはある本が必要だったからだ。王朝を維持するために。
学者仲間は、私のこの考えをオカルトに過ぎないと一蹴した。偉大なカリマコス司書以来、この場の蔵書については、百を超えるスタッフで目録の更新と本文の転写が進められてきた。二百の目を偽ることはできない。そして何より、王朝を維持する力を持つ本というものが存在しえない。
しかしだ、真実の理解に、二百の目は必要ない。ソクラテスの目と凡百の目が、等価にはなりえない。考えるべきは文字通りの、真実の居場所だ。
彼らは学者だから、逆に見失っている。過去の可能性について。
もちろん直感的には理解してやれなくもない。ここでは二百年以上をかけて収集されたあらゆる書物にアクセスできる。このパピルスの魔殿で研究を続けてきた人間は勘違いすることだろう。知はこうして成長していく。本が少しずつ増えて山になるように、一歩ずつ進展してきた。
果たしてそうだろうか?私は疑う。一度でも山が崩れたことはなかったのか?
もしもそうであれば、かつての頂きは、今よりも高い位置にあったのではないか?
異端者のレッテルを貼られ、私は学者仲間から外された。今後図書館に足を踏み入れた場合には、目を潰されるという。
「愚か者どもが」
花と同じで知識も枯れる。この無限のパピルスの全てを把握している人間はどこにもいない。私が水をやりにきた。
手のひらに触れるざらついた感触を餓鬼のようにかきこむ。異変が起きたのは、私が目的のパピルスの山を抱えこんだ瞬間だった。
火山が噴火したような振動。砂嵐のような轟音。真夏だというのに、真冬と誤解するような冷え込み。数秒が経過し、途方もない寒暖差で指が悲鳴をあげる。何かがおかしいと理解したとき
「ROOOME!!」
ガードが外廊を駆けていく怒号。同時に閃光が走った。見たこともない白い光がフロア中を食らい込む。脳裏には太陽の姿と、クソみたいなアトゥム信仰のことがよぎった。
光から雛が飛び立っていくように、発火。新月の闇にレッドカーペットがひかれた。
馬鹿みたいに呆然と立ち尽くしていて気がついた。私は無事だ。夢だろうか?
正面の壁は消し飛び、海岸まで真っ直ぐに火炎の道が生まれていた。波がうねるのまで見える。誰も闇夜の中とは思わないだろう。熱量の大合唱の奥で、ガードたちの呻き声が踊っている。夢のはずはない。
「まだ生きてるのがいる」
不意に聞こえてきたのは子供の声だった。周りを囲んでいるはずの図書館の外壁は、その使命を忘れてしまったかのように、真紅のかいなで万歳を繰り返している。その縁に腰をかけた小さな影の主たちを賛美しているようにも見えた。
「僕がいい子じゃないから、悪い子だから死んでくれないんだ。ママ、叱られちゃうよ、僕たち。お父様に」
「お父様は寛大よ。本当の父様のように」
「パパはどこ行っちゃったの?」
「さぁ?あの人はいつも忙しいから」
ママと呼ばれた娘が優しく笑う。この状況で何を考えて?私にはわからないが、その顔には見覚えがあった。
「ファラオの妃がなぜここにいる?」
「あなたこそ、目玉潰されるんじゃなかった?あと、その呼ばれ方好きくないの。私はわたしって感覚、じじーにはわからないかな。本名も長くてダサいからパトラって呼んで」
「潰しちゃうの、目玉?」
「潰しちゃうよ、目玉。ねー、リオンはママのこと好き?」
「好きー」
「あのおじさん、生きててもつまんないんだってさ。ママもつまんないな」
「かわいそー」
子供が私の方をじっと見る。また気温が下がる。今度は霜が出てきた。
「リオンちゃんてね、スッッッゴイ天才なの。やっぱ遺伝子がいいから?」
何の術かは知らないが、この温度低下が予兆なのだろう。私は目を閉じた。この娘がクレオパトラなら、先のガードの怒号の内容も理解できる。ローマが攻めてきたのだ。今夜は新月。国を殺すにはもってこいの日だ。
でも、なぜ最初に図書館を襲った?
「もし…」吐く息が白い。
「もしもユークリッドの秘密が目的なら、私のひとり勝ちだよ。秘密の答えは、私が墓場まで持っていく」
盗んだパピルスをこれみよがしに掲げ、おもいきり笑ってみせる。
「君らには何千年あろうと解けん」
「リオン、待って…!!」
死を前にして、クソみたいなアトゥム信仰のことを思い出していた。異端者のレッテルを貼られて、私はつまはじき者になった。
私は凡百ではない。ソクラテスの目になりたかった。
娘の静止は間に合わない。子供の口からは光が溢れ、眼前で太陽が生まれた。
それから二千年が過ぎて、舞台は極東の島国に移る。