年季の入ったレストラン
二人の淑女がそのレストランの扉をくぐったのは夕食の時間というには少し早い頃のことである。
たまの休み、仕事を忘れ、婚期を忘れ、諸々の煩悶を忘れて旧友と気ままな一日を過ごす腹積もりであったから格別このレストランを目指して歩いてきた訳ではない。
カフェで日々の鬱憤を話し込んで少し気の晴れた二人が何となしに分かれ難く、帰りの駅とは反対方向に歩いてきたとき、このレストランの古い洋館じみた赤い屋根が見えてきたのである。
「ヴィンテージワインがあります。だって」
ワンピースの淑女が表に出ている看板を指して言った。
普段はスーパーで買った安い豆腐ばかり食べている癖に、小洒落たレストランを前にするとそれまで隠れていた浪費癖が『有意義な休日を送る自分の素敵な夕食』という題の額縁に入ろうと出張ってくるのだ。
「おいしそうね。ここにしましょ」
ジーンズの淑女が言った。
そういう訳で、二人の淑女はここで夕食をとることになったのだった。
中に入ると、かなり余裕のある玄関に衣装立てと赤いシルクの張られた椅子が四脚並んでいた。
奥にもう一つ、ステンドガラスの嵌められた扉があり、外にあったような看板がその脇に置いてある。
【年季ものワイン 熟成チーズ ゴルゴンゾーラ】
【シーラカンスの燻製 海亀のシチュー 鶴の胆ソテー】
【※犬を連れたお客様お断り!】
ワンピースの淑女が看板を見て言う。
「珍しいメニュー。結構変わったお店ね。高級なのかな。犬………?」
「ゆっくり夕食をするのに外で犬が吠えてたら台無しじゃない」
ジーンズの淑女が言った。
「それもそうね」
二人は看板のメニューについて乏しい見識を言いあいながら店員の出てくるのを少し待ったが、一向にそれらしき案内がないので恐る恐る奥の扉を開けてみることにした。
がらんとしたホールには丸テーブルと椅子が4組、等間隔に配置されている。
窓は重厚なカーテンに覆われているが、部屋の四隅の天井から供されるシャンデリアが明かりで、二人の淑女の目元の小皺まで見て取れた。
取りあえず奥の席に座ると、どこからともなく黒いスーツに身を包んだ猫背の店員が歩いてきた。
来たときはホールの中には誰もいなかった気がしたが、ドアの開閉の音もなかったのでどこかに気配なく立っていたのであろうか。
「ようこそいらっしゃいませ」
年配の店員の男は口元に笑みを浮かべながら会釈して言った。
「いやあ、よくいらっしゃって下さいました。実に良いタイミングなのですよ。丁度夕食時ですし」
二人の淑女はどういうことかと顔を見合わせた。
「良いワインが入ったのです。この町の北にある畑で採れた山葡萄から作ったものなんですがね、100年ものです。是非お召し上がりになられては如何でしょう」
ワンピースの淑女がそれを聞いて喜色を浮かべた。
「100年だって、すごーい」
ジーンズの淑女はなんともないという風な体を装いながら、店員に尋ねる。
「輸入ものじゃないのね。本場と比べたらやっぱり値段も違うのかしら?」
「ええ、まあ。ほとんどは農場主が仲間内で飲むものを同郷のよしみでこのレストランに卸して下すったものですから、値段は一本幾らもお付け致しません。食事を美味しく頂くための、ワインで御座います」
「じゃ、それで下さい」
「畏まりました。それからメニューをこちらに。では暫し、ご歓談くださいませ」
店員はそう言ってカーテンに隠れた扉から出ていって、すぐにまた同じ扉からワインのボトルとグラスを銀のトレイに載せて現れた。
「ではこちら、その食前酒になります」
「――注いでくれないの?」
「コルク抜きは私たち持ちかしら」
「おっと、失礼いたしました」
二人の淑女は店員の失念を冷たく笑った。
店員は目を細めて愛想笑いしながら、
「では栓抜きをお持ちいたしますので100年お待ちください」
と言ってトレイをテーブルに置き、またあの扉に消えていった。
「どういうこと?」
「ちょっと変な人ね。せっかくお店は立派なのに」
それから暫くたったが、あの店員は一向に戻ってくる気配を見せない。
二人の淑女の顔には明らかに不満の色が出始めていた。
「本当に100年待たせる気かしら。栓抜きを探すのに随分と手間取ってるみたい」
「考えられないわ。やっぱり所詮は田舎のレストランね」
そうこう言い合っていたが、かれこれ10分待ってもやはり店員は戻ってこない。
ついにしびれを切らせて、ジーンズの淑女が席を立った。
「もう直接文句を言ってくる」
そう言って奥へ歩いていきカーテンをめくるも、そこには扉はない。
その横のカーテンをめくるも、同様にレンガの壁が立ちはだかっている。
「あれ、殺風景だから方向感覚が狂っちゃったわ」
ジーンズの淑女はそう言って手当たり次第にカーテンをめくるが、やはりあるのは壁ばかりである。
「ちょっと、おかしいわよ」
「えっ。えっ、どういうこと」
二人の淑女は四方すべてのカーテンを開けてみたが、キッチンの扉どころか彼女らが入ってきた出入り口の扉すらなくなっている。
「ちょっと、店員さん!! 店員さん!!」
声を張り上げて店員を呼ぶも、応答はない。
二人は何度も何度も出口を求めてホールを駆け巡ったが、それも無為に終わった。
「出して!! 出してよ!! 誰か!!」
次第に彼女らの大声が恐怖を帯びた絶叫へと変わり、狂乱する彼女らを映したワイングラスを震わせた。
ポンッと音を立ててコルクが抜けて、独特の芳香がボトルの口から香りたった。
店員はフッと息を吹き掛けてワイングラスの底に溜まった埃を飛ばし、とぽぽぽぽぽ………とヴィンテージワインを注ぐ。
「どうぞ。丁度100年物のワインで御座います」
声をかけられて、初めて店員の姿に気が付いたように二人の淑女は顔をあげた。
100年、彼女らはここに閉じ込められていた気がする。
二人の容姿は変わらず、まるで夢から覚めたようである。
「………100年経ったの?」
だがその声はしゃがれて、瞳は光を失い焦点が定まっていない。
「ええ、大変お待たせ致しました。ワタクシ共からするとまだ日の浅いワインで御座いますが、お客様からすると丁度良い按配で御座いましょう? して、メニューは御覧になられましたか? 50年熟成チーズで、シーラカンスの燻製は140年もの。稚魚から育てます。海亀のシチューは――
「もう………帰らせて」
ワンピースの淑女が今にもこと切れそうな声で嘆願する。
「いらないわ、全部キャンセルよ」
ジーンズの淑女も狂った目をワインに向けたまま言い放つ。
すると店員は困ったような眉をして言った。
「申し訳御座いません。コース料理で御座いまして、これからチーズの仕込みも御座いますので失礼致します」
「さてさて、鶴の胆を仕込みませんと――
するとステンドガラスの扉が開いた。
「おや、いらっしゃいませ」
「おうい、千年物のヴィンテージニンゲンの入ったと聞いたんだが」
「ええ、ただいま仕込み中で御座います」