「神主さんになりたかった猫は立派な神主さんになれましたか?」
小さな小さな田舎の村で生まれた猫は数ヶ月もすると人間の言葉を喋るようになりました。習いもしないのに字もすらすらと書けました。
なぜそうなったのかは皆目わかりませんが流暢に人間の言葉を語り字も達筆な猫は、なおかつ二本足で歩くようにもなりました。
村の皆んなも最初は驚いたり気味悪がったりしていましたが、猫があまりにも普通に話すのでいつの間にか当たり前の事となっていました。
人懐っこい猫は毎日誰かの家に行っては世間話しをするようになりました。
気の良い村人はそんな猫を優しく受け入れお昼を一緒に食べたりしました。
時には晩ご飯にと、おにぎりやらお魚の煮付けやらを持たせてくれました。
「皆んないい人ばかりだ」
猫は皆んなの優しさに感謝していました。
そんな日々を繰り返すなか、猫は少しずつ何かが違うような気がしてきました。
そしてある日、猫は思いました。
「毎日ご飯を只で頂くのは偲びないから僕も働きたい、自分で働いたお金でご飯が食べたい」
でも猫の僕はどうすれば働けるだろう。
何をしたらいいんだろう。
まだ生まれて2年も経っていない猫には答えが見つかりませんでした。
あれから猫は思い悩んでいました。
村の皆んなと話しながらも心はそこにあらずでした。
そんな日々をおくりながら数週間が経とうとしていたある昼下がりにドーンという大きな音で目が覚めました。
「なんだ?今のドーンって音は?」
猫は寝ぐらにしている納屋の破れ穴から這い出てみました。
ドーンドーンドーンと大きな音が続けざまに鳴り響きます。
それは村の神社の方から聞こえくるようでした。
「行ってみよう」
猫は神社に向かいました。
するといつもはほとんど人影を見ない田舎道に、たくさんの人が歩いていました。
「あら猫さんもお参り?」
声をかけられ振り返ると仲良くしてくれている田山さんちの子供の千早ちゃんが浴衣姿で微笑んでいました。
「あ、千早ちゃん、こんにちは、今日は何かあるの?」
「今日は神社の夏祭りだよ」
「夏祭りかあ、だから人がたくさん居るんだね」
「うん、みんなと神社で待ち合わせしてるの、一緒に行こう」
神社に着くとドーンドーンって音以外にカーンカーンカーンって音も聞こえてきます。
鳥居の前には露天商が数件出ていました。
「わあ、いつもはないお店屋さんがあるね」
「うん、あれが金魚すくい、あれが鶏卵焼き、あっちのがわたあめ、これはりんご飴だよ」
「素敵だ!とっても素敵だね!」
初めて見る露天商に猫は毛並みが逆立つ程に興奮していました。
鳥居をくぐり長い階段を上がると法被姿の人たちがたくさん居ました。
大きな太鼓を叩いて居る人もいます。
「あれって太鼓って言うんだよね?前に誰かのうちのテレビで見たことがあるよ」
そう話しかけると千早ちゃんは「うん、そう太鼓だよ、じゃあね」と友達のところへ走って行ってしまいました。
千早ちゃんの後ろ姿を追って見ていると頭に黒い帽子みたいのを被って昔話で見たような格好をした人が神社の家から出てきました。
「あの人も太鼓を叩くのかな」
そう思いながらみていると堂々とした歩き方でお賽銭箱の横から神社の中に入って行きました。
しばらくすると農協の坂本さんの声がしました。
「本日はようこそお参り下さいました、それでは只今より風鎮祭を斎行します」
そして不思議な声の出し方で「かけまくもかしこき~」と聞こえてきました。
猫は露天商を見た時の数倍も毛並みが逆立ちました。
なんだこれは?
「あのすみません、あの声はなんですか?」
と法被姿の滝田さんの息子さんに尋ねました。
「ああ、あれは神主さんがお祭してるんだ」
「お祭?」
「そう、酷い台風が来ないように神様にお願いするんだよ、昔ながらのやり方でね」
「そうなんですか」
「ここの神社には宮司さんがいなくてね、今日も三年に一度の祭の為に町の神社の神主さんに頼んで来てもらってるらしいよ」
「そっかあ、さっきの昔話の格好の人が神主さんなんだ、テレビで見た神主さんはもう少しあっさりした格好だった気もするけど」
「あの滝田さん、神主さんの話を詳しく教えてくれませんか?」
滝田さんは神主さんのことを教えてくれました。
神主さんと言うのはお祭はもちろんお祈りとか掃除とか、その神社を取り仕切る人で本当は各神社に1人、常に神社の家に住む人がいて宮司さんと呼ぶのだそうです。
この村には二十年以上前から常に神社にいる宮司さんがいないらしく夏祭り以外の例大祭や年に数回あるお祭の時も他の町の神主さんに頼んで来てもらっているとのこと。
それ以外にも七五三や車のお祓いや安産祈願なんかもかなり前から予約をしてお祈りして貰うか、よその町の神社に行ってお祈りしてもらっている事、自治会ごとに行っていた集会所や公民館での独自のお祭もやらなくなってしまった事など村に神主さんがいない為に困っている出来事も教えてもらいました。
「そうか、みんな困っているんだなあ、よし、僕は神主さんになろう!!」
猫はそう決意しました。
そう決意してから猫は神主さんになれる方法をいろいろ聞いたり読んだりして調べました。
そうして分かったのは神主さんになるには資格がいることでした。
その資格を取るには学校に行かないといけないのです。
「猫を入れてくれる学校なんてないよね」
猫はがっかりしました。
でも猫はあきらめませんでした。
とにかくあの神社のお掃除から始めよう、何もやらないよりは全然良い、何か目標に向かって始めたら次の答えが見つかるかもしれない。
猫は神社のお掃除をし始めました。
最初は境内のお掃除からです。
毎日毎日朝から夕方までほうきで掃いたり草むしりをしたりしました。
いつも皆んながしないような裏側や隅っこまで落ち葉を拾い、石の犬は貰ってきたタオルでしゅっしゅっと拭きました。手を洗う石の桶みたいのもゴシゴシと磨きました。そうしているうちに境内はすっかり綺麗になりました。
よし次は神社の中をしよう。
お賽銭箱の横から階段を数段登り引き戸を引いてみましたが鍵がかかっているようで開きません。
仕方なしに神社の横側にある小さな穴から中に入りました。
神社の中は夏なのにスーッと涼しく静々としながらも空気がピーン張り詰めているようでした。
猫はドキドキしました。
「こんな感じを受けるのは初めてだ、なんとも身が引き締まる思いがする」
「ここは何もわからない僕が掃除をしたりしてはいけない気がする」
そう思いお辞儀をして小さな穴から外に出ました。
猫はまだドキドキしていました。
あれが神社なんだ、神様がいらっしゃる場所はやはり普通とは違うんだ。
猫は勝手に神社に入ったことを後悔しました。
そしてまたお賽銭箱の横から階段を登り外側にある廊下をタオルで拭き始めました。
小一時間も拭いていると下から声をかけられました。
「清掃奉仕ですか?」
廊下の手すりの間から覗いて見ると夏祭りで見たあの神主さんがたっていました。
「こ、こんにちは」
「ほほう、本当に人間の言葉が喋れるのですね」
「はい、何故だかわかりませんが気づいたらしゃべっていました」
「なるほどお掃除も上手だ、境内を掃除してくれたのもあなたですか?」
「はい」
「そうですか、まあひと段落したら社務所でお茶でもいかがですか?」
「はい、ありがとうございます」
「神社の家は社務所と言うんですね」
猫は出されたお茶をふうふうしながら言いました。
「そう呼びますね」
「あの石の犬はなんと言いますか?あとあそこの石の桶みたいのは?」
「石の犬は狛犬、石の桶は手水舎と言います、神社に興味がおありですか?」
「はい、僕は神主さんになりたいのです」
「なるほど、それで清掃奉仕をしていたわけですか?」
猫は自分の思いを一生懸命に話しました。ずっと1人で思い悩んでいたものですから堰を切ったように熱く語り続けました。
熱く長い話を黙ったまま聞き終えた神主さんはしばらく目を瞑り考えている風でした。
そして目を瞑ったまま
「あなたは神様のご存在を感じたことはありますか?」
と尋ねてきました。
猫は先ほど勝手に入った神社の中の体験を話し、そして謝りました。
神主さんはそれを聞くとなん度も頷きながらこう言いました。
「よろしい、あなたが神職になれるよう微力ながらお助けしましょう」
「えっ僕は神主さんになれるのですか?」
「わかりません、しかしあなたのその考え方感じ方は神職になるのに相応しいと思うのですよ」
神主さんはお茶を一口飲んで話を続けました。
「神道は、あっ神道と言うのは神社の基本的な信仰のことです、その神道の1番大切な考え方の1つに共存共栄と言うものがあります」
「きょうぞんきょうえいですか?」
「そう、あなたが猫であるが為に村の皆さんはお金がないだろうことを思いお昼ご飯や夕ご飯を食べさせてくれたのですよね、あなたはその事に感謝し続けましたね?」
「はい」
「とかく人と言うものは親切にして頂くと最初は感謝するのですが、それが長く続けられると当たり前のことと勘違いをしがちです」
「はあ」
「そして次はその事が当たり前になり過ぎて、してくれないと不平を言ったり怒ったりするようになる」
「それはひどい」
「そうです、でもあなたはずっと感謝し続けて次は自分が村の皆さんの為に何か役立つことをしたいと考えた、それが共存共栄の心です」
「それと先ほどあなたがご本殿の中で感じた神様のご存在です」
「はい」
「神様はとてもお優しく我々を我が子のように守ろうとして下さいます」
「はい」
「でも我々はその優しさに甘えるばかりではいけないのです。神様にお助け頂いたらちゃんと感謝をしないといけません」
「そうかあ、そうですよね」
「それと神様はお優しいだけではありません、我々が無礼なことをしてしまったらバチを与えてこられます」
「バチですか?」
「そうです、だから我々は常日頃から神様に助けて頂いているかわりに失礼のないようにしないといけないのです、その為に神道は数千年の長きに渡り神様に対する作法やルールを作ってきたのです」
「そうなんですね」
「先ほどあなたがご本殿で感じたものは神様の畏怖と言うものです、あなたはその畏怖を肌で感じ神道の作法を知らないのに、やってはいけない事を自ずと悟ったのです」
「そ、そうなんですか?」
「そうです、それは神道を信仰する上で、いや生きていく上でとても大切なことなのです。ですが今の我々はそのことを酷く感じ難くなってしまっている」
「あの時僕は掃除をしてはいけなかったのですね」
「はい、ご本殿を掃除をするには色々なルールがありますからね」
「しないで良かった」
「ですから私はあなたを神職にさせてあげたいと思います、その為には様々な苦難を乗り越えなくてはなりません、それはあなたが猫だからと言う小っぽけな理由の為にです、あなたはその理不尽に耐えられますか?」
「はい、私は神主さんになって恩返しがしたいのです」
「よろしい、では今からあなたは私の教え子になって頂きます、よろしいですか?」
「はい、よろしくお願いします」
猫は飛び跳ねたいほど大喜びし喉をゴロゴロと鳴らしながら深々と頭を下げました。
あの日
「よろしい、では今からあなたは私の教え子になって頂きます、よろしいですか?」
と神主さんは言ってくれました。
猫にとってそれは今までに聞いた最も嬉しい言葉でした。
それから神主さんはお賽銭箱と書いたキーホルダーが付いた鍵と本を一冊手に取り
「来月の7日の10時から交通安全のご祈願が入っていますので見に来なさい、それとこの本を読んでおいて下さい」
と言って社務所から出ていかれました。
猫は慌てて後をついて行き改めてお礼を言うと神社の長い階段を下りて寝ぐらの納屋へと帰りました。
本の題名は「神職の心得」でした。
開いて見ると神社の事やお祭りの事やお祈りの事や狛犬の事とか猫が今一番知りたいことが沢山書いてありました。
猫は毎日一生懸命読みました。
そして今日は待ちに待った7日です。
毛繕いを終えると神社へと向かいます。
鳥居を抜け階段を登り終えると真新しいワゴン車とハイブリッド車が停まっていました。
「まだ9時を少し過ぎたばかりなのに、もうご祈願を受ける人が来ているんだ」
お賽銭箱の横から本殿に上がり格子から中を覗いてみると役場の中山さんが神主さんと談笑していました。その横で奥さんと子供が神主さんの話に合わせて頷いたり笑ったりしています。
神主さんは覗いている猫の方をちらりと見て
「まだ時間ではありませんが始めましょうか」
と中山さん一家に言うと横向きに座りなおしました。急に真面目な顔になり、ふーっと一息はくと
「えーそれでは交通安全祈願の御祭あいつつしみまして務めさせて頂きます」
と言って、すっと立ち上がり白いフサフサの前に座りました。
「えーっと確かあれは祓串だったよね」
猫が思い出していると
「かけまくもかしこき〜いざなぎのおおかみ〜」
とあの不思議な声が響いて来ました。
猫はまた毛並みを逆立てました。
「やっぱりこの声はすごいや」
「確か祓串の前で言うのは祓詞だったね」
そうやって一生懸命に覗いていると、不意に鈴の音がガランガランと鳴りました。
振り返ると農協の坂本さんがお参りをしていました。
猫は慌てて横に逃げてお参りの邪魔にならないようにしました。
「やあ猫さん、何をしてるのかね?」
お参りを終えた坂本さんがニコニコと話しかけてきました。
「はい、ご祈願の見学をしていました」
「そうですか、あの新しい車のお祓いかな」
「はい、役場の中山さんです」
「おお中山の奴はあんな立派な車を買ったのかあ」
「坂本さんは神社にお参りですか?」
「ああ私は宮司さんにちょっと話があってね」
「宮司さん?」
「ん?桜山さんを知らないかね?」
「あっ桜山さんは宮司さんなんですか?」
「ああそう言うことか、桜山さんはこの神社の宮司さんを兼務しているのだよ」
「けんむ?」
「猫さんは知らないか、桜山さんは大きな大きな神社の宮司さんをしながら、ここの神社の宮司もしてくれているんだよ、普通は兼務を大きな神社の宮司さんはしないのだけど桜山さんはなぜか受けて下さってね、でも忙しい方だから申し訳なくてね」
そう言うと坂本さんは社務所へ歩いて行きました。
その時、格子戸が開き神主さんが祓串を両手で掲げて出て来ました、そしてそのまま新しい車へと向います。
中山さんも後から追いかけ慌てて車のドアを開けました。
「開けられるドアは全部開けて下さい」
神主さんはそう言って車の正面に立ち一礼したのち祓串を左右左と振りお祓いをしました。
中山さん一家はお下がりを手にして神主さんにお礼を言うと車に乗り込み、フロントガラスにお守りを着け頭を下げながら神社を出て行きました。
「やあ猫さんご祈願はどうでしたか?」
「とても神々しかったです」
「神々しいですか、あははは」
「あの坂本さんが来て宮司さんに話があると言って社務所に入られましたよ」
「総代長さんが?そうですか」
神主さんは本殿に祓串を戻すと社務所に向かいました。猫もあとを付いて社務所に入ります。
「総代長さん先日はお疲れ様でした、今日はどうされましたか?」
「宮司さんこそ先日はありがとうございました」
そう言って坂本さんはテーブルに手をついて頭を下げました。
「お茶を入れましょうか?」
「いや、これは猫さんすまないね、熱〜いお茶を下さい」
そう坂本さんは言いながら宮司さんの方を向き
「宮司さんじつはですね、お忙しい宮司さんにご負担ばかりかけるのが忍びなく前々から聞こうと思っていたのですが宮司さんの所の禰宜さんをうちの神社の禰宜さんとして兼務して貰うという訳にはいきませんか?」
「禰宜の兼務ですか?聞いたことはないですが」
「そうですか、それがですね一昨年始めた夏越し祓いの人形の収入と夏祭の寄付金が予想以上に入りまして禰宜さんを雇うのに失礼にならん程度の給金を払えそうなものですから」
「なるほど、それではですね、この猫さんを雇ってみては頂けませんか?」
「はあ?猫さんをですか?」
話を聞きながらお茶を入れていた猫は驚いてお茶っぱを山盛り急須に入れてしまいました。
「猫が神主さんにですか?いやあ宮司さんもお人が悪い、真面目な顔で言われるから一瞬本気にしてしまいましたよ」
「いえ総代長さん、私は真面目にそう思っています」
「いやあ宮司さん、それは無理ですよ、私も猫さんには優しく接して来ましたけどねえ、猫はしょせん猫ですよ」
「猫は、しょせん、猫」
猫はお盆を持つ手が震えました。
猫はどこかで今の言葉を予期してそして怯えて来ました。
猫は村の皆んなにとても感謝をしていました。
それはただただ皆んなが良くしてくれるからと言うこととは少し違っていました。
それは人ではない猫の僕に優しく接してくれている、と言う気持ちが常にあったのです。
だから皆んなが大好きな猫はその皆んなに親切にして貰って嬉しくありがたく思いながらも心の隅でいつもどこかで孤独でした。
そして怯えていたのです。
そのことを目の当たりにしてしまう日のことを…
「総代長さん、あなたは今ここに猫さんがいるのをわかっているのですか?」
神主さんは声を荒げました。
「わかっていますよ、しかし私はこの村の代表である総代長として言わなければならないことを言ったまでです」
坂本さんも大きな声で返しました。
「では総代長さんはそれが村人の総意だと言いたいのですか?」
「まあ、そう言うことになりますなあ」
猫は震える手でお茶を乗せたお盆をテーブルに置きました。
そして台所に戻ると裏のドアからそっと出て行きました。
猫は納屋に帰って泣きました。
分かっていたことなのに、とってもとっても辛かったのです。
「猫はしょせん猫、皆んなだってきっとそう思っている、優しいから表さないだけだ、分かっていたはずなのに」
猫はそれからずっとうずくまって過ごしました。
少しでも動くと悲しさが込み上げてきそうな気がして出来るだけじっとしていました。
そうして一週間が過ぎようとしていた頃に納屋の戸を叩く音がしました。
「猫さん、猫さん」
神主さんの声でした。
「開けますよ」
そう言うと納屋の壊れた戸をがたがたとこじ開けて神主さんが入って来ました。
「猫さん、何をしているのですか?」
「神主さん、僕は」
猫の目から涙がぽろぽろとこぼれ落ちました。
「僕はなんで言葉なんかしゃべれるようになってしまったのでしょうか?もし他の猫たちみたいに鳴くことしか知らずに生きていたらこんなに悲しい思いをしないで済んだはずです」
「猫さん、私は、生まれてきた者は皆、何かの意味を持って生まれて来たのだと思っています。
生まれながらにして病気で、自分が行きたいと思う場所にも行けない方もいます。それどころか自分1人では数メートルも進めない人もいます。
でもその方にも生まれてきた意味はもちろん、なんらかの役目を持って生まれてきたのだと私は思っています。ましてや猫さん、あなたは言葉がしゃべれるし字も書ける、他の猫より出来ることを1ついや2つ3つと多く持って生まれて来たのです。
それにはきっと何か大切な意味があるはずです。それがなんなのかは浅学の私には分かりませんが、あなたが自分から神職になりたいと思ったのですから、必ずそこに何かの答えがあるばずです」
「それに、あなたはどんな理不尽にも耐えると約束したじゃないですか?あなたは私の教え子ですよ、私の教え子があんな一言くらいで挫けてどうしますか」
「再来月に神社の例大祭があります、あなたにはその祭を奉仕して貰います」
「え?私がですか?」
「そうです、ですから落ち込んでいる暇はありません、その日までに祓主と警蹕と仕取りの作法を完璧に覚えて頂きます」
「え、でも」
「いいからとにかく今から修行です、さあ神社に行きますよ」
猫は促されるままに神社へと連れてこられました。
社務所に入ると小さな白衣と襦袢と袴が置いてありました。
「猫さん、これを着てみて下さい」
猫の背中に襦袢をかけて神主さんはそう言いました。
「え、これを僕は頂けるのですか?」
「この大きさのもながなくてね、妻に頼んでこしらえて貰ったのですが、サイズは大丈夫かな?」
襦袢と白衣を着るとマジックテープ式の帯を締め袴に足を通しました。
「袴を履くのは、いささか難しいですが覚えて下さいよ」
神主さんの言う通り袴を履くのは難しくあれこれ教わりながら履き終えました。
「サイズはぴったりですね」
猫は鏡に写る白衣姿の自分を見ると悲しかった気持ちが嘘のように晴れ、嬉しい気持ちでいっぱいになりました。
「では祓詞の奏上の練習をしましょう、祓詞は覚えてますね?」
「あ、はい」
「では奏上してみなさい」
「え、今ですか?」
「そう、はやくしなさい」
「あ、はい、えっと、かけまくもかしこき〜」
「猫さん、あなた照れてますか?」
「あ、あの」
「照れてはダメです、あなたはプロになるのですよ、プロが自分の仕事をするのに照れてどうしますか!もう一度!」
「あ、はい、かけまくもかしこき〜」
「もう少しお腹から声を出すのです、そしてその声を喉で押さえ込むように読むのです」
「あ、はい、かけまくもかしこき〜」
「よし、少し良くなりました、次はかけまくもの出だしの…」
こうして猫は神主さんに神社祭式を徹底的に教わりました。
そして例大祭当日の朝がやって来ました。
「猫さん、落ち着いていきましょうね」
神主さんは猫用に特注した狩衣と烏帽子と笏と麻履を広げながら言いました。
「もう少し早く渡したかったのですが装束店もこんな小さいサイズのものは作ったことが無いらしく遅れてしまいました、まあ着てみましょう」
狩衣をつけてみると白衣袴同様サイズはぴったりでした。そして嬉しさと同時に気持ちがピリッとしてきました。
神主さんが冠衣をつけ終え社務所の扉を開きました。
そこには猫が思っていた数倍の人々が集まって居ました。
神主さんを先頭に手水舎へ向かうとざわめきは静まり皆んなの目がこちらを見つめてきます。
猫は足の震えを抑えながら歩きました。
手水を終え賽銭箱の横を抜けて拝殿の中へと進みます。
拝殿には坂本さんをはじめ総代さんや自治会長さん達が座っていました。
その真ん中を抜け弊殿へと上がり神主さんは左に猫は右に座りました。
一呼吸置いて神主さんが坂本さんに目配せをします。
「えー本日はようこそお参りでございます、それでは只今より例大祭を斎行いたします」
坂本さんの挨拶と共に例大祭が始まりました。
祭主一拝の後はいよいよ猫の出番です。
猫は真っ白になりそうな頭の中で今までの練習を何度も何度も反復していました。
そうして猫は左足から立ち祓串の前へと進みました。左足から膝をつき左右左と膝で前に出て着座し2拝した後平伏をして息を吸い込みました。
「かけまくもかしこき〜いざなぎのおおかみ〜つくしのひむかのたちばたのおどのあはぎはらに〜みそぎはらいたまいしときになれませるはらえどのおおかみたち〜もろもろのまがごとつみけがれのあらむおば〜はらえたまいきよめたえともうすことをきこしめせと〜かしこみかしこみももう〜す〜」
猫は詰まらず間違わずに祓詞を奏上出来ました。
そうすると肩の力が抜け後の奉仕は緊張することもなくきちんと全てをやり遂げました。
祭の最後に祭主一拝が終わり神主さんがマイクを手にして皆んなの方を向きお辞儀をしました。
「本日はようこそお参り下さいました。以上で例大祭取り納めさせて頂きます、えーなお本日は祓主として皆さんもご存知であろう猫さんに奉仕をさせて貰いました。たった数ヶ月の修行でしたが立派に奉仕をしたと思います。私はこの猫さんはとても神職に向いていると考えております。そして彼も皆さんへの恩返しの為に心から神職になりたいと願っています。
みなさん、私は彼を何年かけてでも責任を持って立派な神職へと育ててみせます。どうかその時はこの神社の禰宜として仕えさせてあげて貰えないでしょうか?どうか、どうか、お願い申し上げます」
境内に居る村人たちから拍手が湧き上がりました。
坂本さんも頷きながら
「分かりました、宮司さんに一任致します」
と言いました。
それから三年がたちました。
もう猫はどこに出しても恥ずかしくない一人前の神職へとなっていました。
宮司さんが神寺庁に掛け合い、猫が村の神社以外では奉仕をしないという条件付きで村の神社の禰宜に奉職する事も出来ました。
そうして猫は神職として忙しい日々を過ごしていました。
車は買ったがご祈願を頼むのに気が引けて、我慢していた人や同じ理由で還暦の祝いのお祭りを頼まずにいた人や他所の神社でするのならやめておこうと七五三を受けずにいた人などが、いつでも神社に居る猫さんなら頼みやすく、気安さも手伝ってもう毎日何件ものご祈願を行なっていたのです。
また集会所や公民館などで取り止めになっていた伝統的なお祭りも斎行するようになっていました。
「次の予約は役場の中山さんの車のお祓いかあ、確か初めてご祈願の見学をした時が中山さんの車のお祓いだったはずだけど3年ちょっとで買い替えたのかな」
猫はそう思いつつ本殿で交通安全祈願の用意をしていますと拝殿の引き戸がガラッと開き中山さんとその家族が入ってきました。
「あれ中山さんお約束の時間はまだですが?」
「いや禰宜さん分かっているのですがどうも待ちきれなくてですね」
「あはは、そうですか、ところでもうお車を買い替えたのですか?」
「いやあ、今日は女房の車のお祓いをお願いしたくてですね」
「ああ成る程、なら奥様が真ん中にお座り下さい」
そう言うと猫はお下がり袋のお守りを男性用の青から女性用の赤へと入れ替えました。
「ところで禰宜さん近頃、村の者たちが次々に病気になっているのをご存じですか?」
猫はこの噂を昨夜聞いたばかりでした。
「はい、昨夜聞きましたが、もう10人以上の人が倒れて入院しているとか…」
「いやいやここ20日で22人の村人が高熱を出したり嘔吐をしたりで柳山病院では手におえず町の病院に入院したんですよ」
「20日で22人ですか!?」
「はい、こんな事は経験がなく驚いています、しかも町の病院でも原因が分からないとか言っているようで…」
「そうですか、原因不明とは本当に心配ですね」
「もう心配どころじゃないですよ、これは尋常ではないです」
猫は交通安全祈願を終えた中山さんの奥様が、たどたどしい運転でゆっくりと境内を出て行くのを見送りました。
「20日で22人、確かに尋常ではないな」
その日の夜に猫はこの尋常ではない事柄を相談しようと宮司さんのお家へ電話をかけたのですが奥様が出られ「主人は昨夜から急に体調を崩し入院しているんですよ」と教えられました。
すぐにでもお見舞いに行きたかったのですが17時以降のお見舞いは禁止されていると聞きあきらめました。
「あの元気な宮司さんがご病気とか…とにかく次の平日の仏滅の日までは神社を空けるわけにはいかないし心配だけど我慢しよう」
それから4日が過ぎやっと平日の仏滅の日が来ました。
猫は社務所の玄関に本日は私用の為に出かけていますと書いた紙をはり宮司さんが入院している病院へと向かいました。
バスと電車で行きたかったのですが他所の町で猫が二本足で歩いてバスに乗ったら大騒ぎになるので、しかなく予め村の人にお願いしておいたタクシーに乗って病院へと向かいました。
病院に着いたら自分が入った鞄を宮司さんの病室まで運んで貰いました。
「山岸さんありがとうございました、すみませんが帰りもお願いしたいので待っていて下さい」
「わかりました、車で待ってますから終わったら電話を下さい」
そう言うと山岸さんは宮司さんに挨拶をしてから病室を出て行きました。
「宮司さん、お具合はいかがですか?」
「いや、猫さんわざわざ遠くからすまないね」
そう言う宮司さんの声があまりに弱々しくて猫は驚いたが
「お元気そうで安心しました」
と嘘をつきました。
「なんでも氏子さん達が何人も入院していると聞いたのですが猫さんは知っていますか?」
「はい、20日で22人の方が入院したらしいです」
「そんなにも!これは只事ではないようですね、実は私が倒れた時も嫌な気と言いますか、そんなものがまとわりついているような感じがしていました」
「え!?ではこの異常な事態は悪霊とかそんなモノの仕業なんですか?」
「わかりませんが、そんな予感がしてなりません、神社に変わったことはありませんでしたか?」
「はい、実は一ヶ月ほど前に三体ある御神鏡のうちの1枚が突然割れて新しい御神鏡を伊筒屋さんに発注をしています」
「なぜ、私に報告をしなかったのですか?」
「すみません、つい…」
「いや、こう言う時は日頃当たり前にしていることが目隠しをされたように出来なかったりするものです、やはり私の悪い予感は当たっているのかもしれないですね、しかし御神鏡が割れて村人ではない私にも影響があるということは神道系の邪神の仕業かもしれませんね」
「なにか結界のような物をはる儀式はないのでしょうか?」
「もちろん有りますが、これだけの力を持つものに対して効果があるとは思えませんね、とにかく暫く様子を見ましょう」
猫は宮司さんに深々と頭を下げてから鞄に入り病室を出ました。
社務所に戻り潔斎をしたのち本殿に上がり祝詞座に座って神様に向かい目を閉じました。
「宮司さんのおっしゃっていた悪い予感が当たっているとしたら具体的に何がどうしたのだろうか…大神様どうぞ村人達をお護り下さい」
翌朝、2つの悪い知らせがありました。
1つは入院した村人の人数がいきなり100人を超えたこと、もう1つは宮司さんの容態が急変して危篤状態になったことでした。
猫はすぐにでもお見舞いに行きたかったのですが自分の最もやるべきことを優先しました。
それは村人の病気平癒祈願です。
猫は井戸水で何回も潔斎をしてから夜中まで一心不乱に病気平癒祈願と大祓詞を上げ続けました。
そしてそのまま祝詞座の上で気を失うように寝てしまいました。
猫は夢を見ました。
それは本殿の御扉が開き神様がお出ましになる夢でした。
神様は猫に話しかけます。
「猫よ、お前の願いはよくわかった、私も領く民草を救ってやりたい、しかし今の私は、あのモノを退ける力が足りぬ」
「大神様、あのモノとはなんですか?」
「病いをもたらす禍津神だ、奴は激しく人を呪うがゆえに強い力を持っている、猫よ、お前は私に仕える者、お前のあがものを捧げておくれ、さすれば私はあの禍津神を退ける力を得よう」
猫は目が覚めました。
「あがもの…大神様に捧げる為に自分の大切な物を壊す儀式のことだ、確かあがものは自分にとって大切であればあるほど、その意義は大きくなる、それは大神様に大きな力を得て頂くと言うことだ」
猫は考えました。
「自分にとって大切なもの、宮司さん、村の人たち、毎日のご飯、どれもあがものとは違う…」
一晩中考え抜いた猫は答えを導き出しました、いえ猫は最初から気づいていた答えを受け入れたのです。
その日の朝、真新しい白衣袴を着け本殿に参拝をしてから神社の裏山へ上がりました。
そして裏山に唯一ある滝の前に立ち天を見上げながつぶやきました。
「これで良い、いやこれが一番良い」
猫は手を合わせたまま滝壺に入り勢いよく流れ落ちる滝の下に立ち頭からその冷水に打たれました。
そのまま全く何も食べず3日間冷たい滝の水に打たれながら、ただひたすら村人の病気平癒を祈り続けたのでした。
そして4日目の朝にその場で気を失い倒れました。
気を失った猫は滝の水に打たれながら体温を失い自分の命を落としたのでした。
そのことに気づいた神様はとても驚きました。
「猫よ、なんと言うことをしたのだ、私はお前の命がほしいなどと一言も言っておらぬぞ、今助けてやる」
まだわずかに留まっている猫の魂に言いました。
「大神様そんな事をしたら禍津神を倒す力を得られないどころか今ある力すら消耗してしまうのではないですか?」
「そうではあるがお前は私に仕える者、見捨てるわけにはいかぬ」
「大神様、良いのです、私は猫として生まれて来たのに何故しゃべれるようになったのか疑問に思い続けて来ました、そしてその答えが分かったのです、私はきっとこの為に生まれて来たのではないでしょうか」
「分からぬ、それは私のあずかり知らぬことじゃ」
「お願いです、大神様、村の人達を救って下さい」
そう言うと猫の魂は身体から離れゆっくりと舞い上がって行きました。
「ああ猫よ…」
神様は猫を優しく抱きしめてから天へと上昇しました。
そして村に覆いかぶさる禍津神の邪気を見据えました。
「忌まわしき禍津神よ、私の領く里より立ち去るが良い!!」
そう言うと清き風と甘き雨を吹き荒らしました。
その強大な力の前に禍津神は退散しました。
「猫よ、お前のおかげで禍津神を退けることが出来た、これで村人は助かるであろう」
神様は猫を優しく抱き幽世の神様のもとへ連れて行かれたのでした。幽世の神様は村の神様が幽世まで直々に来られたのに大変驚きました。
「幽世の神よ、こやつを頼む」
そういう神様の目は涙で濡れていました。
それから3日もすると入院していた村人達の病状はみるみるうちに良くなりました。
宮司さんも同じように回復しました。
退院した宮司さんは総代長に猫が行方不明になっているのを聞きすぐに村の神社へと向かいました。
そして感じるままに裏山へと上がりました。
暫く歩いていると滝の水に打たれながら息絶えている猫を見つけたのでした。
宮司さんは迷いなく滝壺に入り猫を抱き上げました。
「猫さん…そういう事だったのですね…」
冷水に長く打たれた猫の身体は冷え切っていました。
でもその顔は幸せに満ち満ちているようにうっすらと微笑んでいました。