BC1998 【丸橋獣市郎】
当初、“ここ”でも、地球から持ち込んだ象牙のボールを投げ入れていたが、“ここ”の重力は地球の三分の一……正確には三八パーセント。
通常の玉を用いると、回転の勢いでルーレットから弾かれてしまう。
このカジノでは、鉛をメッキしたボールを用いて重心を安定させ、ゲームを成立させている。
そしてまた賭けが成立した。
紅の二三番、的中者はひとりだけ――そもそも、参加者はひとりしか居ない。今回だけでなく暫くこの男とディーラーたちの一騎打ちが続いている。
最初のディーラーが男に連敗し次なるディーラー。そのディーラーも負け、無惨な継投リレーのように死屍累々と交替していく。
客は客でも、ギャンブルをしに来たはずの客たちは、その独壇場の観客と化していた。
男は眉まで剃り上げた禿頭だと云うのに、長く見開かれた瞳は雄弁に優位を物語り、実に感情豊かだった。
香水に汗が入り交じった暴力的な匂いは、彼自身が洒落たものではないと鍛え抜かれ肉の詰まった胸板と首筋に残る何種類もの口紅が証明する。
女を抱き、酒を滴らせ、彼が勝ち積み上がったチップは、この店の金庫内にある現金の総量を優に超えている。
男は男だった。
この上ないような、雄々しく、大きく、強い。
椅子に深く腰掛けながらも立位の人々を見下ろしている。
「さて、次を早く投げろ。次も儂は全て賭ける」
「……無理……です」
「何がじゃァ?」
ディーラーは――店のディーラーたちは男の剛運に屈してこの店のオーナーが出てきている――は、震えを必死に抑え、その反動とばかりの大きな息の合間に嘆願するように男を見た。
普段、オーナーが客相手に見ているであろう、怯え切った瞳を今度は自分自身が描いている。
助けを求められる相手は居ない。取り囲む様な観客たちも、他の店員たちも、助ける術なんて持っているはずがない。
「無理なのです……。次が当たると……当店には支払い能力が……ないのです……」
「それはそうじゃろうなァ。もうキサマは辞職して指の二・三本詰めねば済まない事態じゃろ」
「そんな……ことは……」
「KOBの系列店じゃものな。ここはシドニアでも大きめの街と聞いとるし、そこで一番のカジノじゃと聞いた。地火間の貿易をやってるヤクザの親分にケジメを取らされる、そういうことじゃろ?」
絶望的事実を男に語られながらも、店主は音を立てながら唾を飲むしかなかった。
KOBが地 火 間を取り仕切るマフィアであるとまで知られていながら店主は、淡いながらも期待する。
事情を知っているならゲームを辞めてくれる。自分の命を顧みてくれる、そんな要求。
だが、男はその丸太のような足をルーレットテーブルに乗せた。男はその所作と同じぐらい遠慮のない笑みを浮かべていた。
「次に敗けたら、キサマは指では済まないが……良かったな」
「……え?」
「不渡りなんて不名誉は有り得んさ。そうなればKOBボスの顔にも泥が付く。それを心配してるんじゃろ?
――不足分も支払ってくれるさ。お前の首ひとつで、な」
「……勘弁、してくれよぉ」
ここで云う首とは、オーナーの進退ではなく身体の方の首の方だ。
カジノの儲けを数えてさえ居れば良かった数時間前から、男が現れてからは、オーナーは自分の余命を数えるようになっていた。
胃袋でも吐くんじゃないか、そんな大きな呼吸をするごとにオーナーの腰は引けていた。
「ほら、早く、投げろハリーアップ」
「……無理です」
「笑えん冗談じゃのぉ」
「許して下さい」
「許さん」
「許せよぉお!」
威圧めいた恐怖は、オーナーの激情を煽ったようだった。
土下座すれば投げなくて良いというなら土下座するだろうし、腕の一・二本を折って終われるなら折るだろう。強迫されて吹き出た多量の汗は流れることなくじっとりと首筋に絡みついている。
恐怖で筋肉と心が動くことを放棄したようだった。
だが、男には容赦や遠慮という択は無い。ただ投げ入れるのを待っている男と、決断できないディーラー。
場は凍り付いた。だが氷は溶ける。
長いようで短い一瞬を抜け、状況に不釣り合いな、可愛らしい声がとろかした。
「あたしが受けるわ」
「……お前は誰だ? 小娘」
「ランス・スミス。……あんたが次に勝てば、家も父親も失う、見習いディーラーよ」
「父親には似ていないな」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
ランスは、店主のディーラーを細く柔らかな腕で押しのけた。
店主とは……父親とは、本当に全く似ていない。
華奢な顔立ちにプレスされたベストと蝶ネクタイがくっきりと似合う。
襟と同じ角度で真っ直ぐピッタリと男を見据える瞳は、心の強さのようなものを強度として表している。
「退屈しそうにないな。早く投げろ」
「それは断るわ」
「……説明してもらおう?」
「あなたは何か、ルーレットに対して必勝法を持ってるわよね……イカサマとかではない、もっとシンプルな方法……多分、止まる目が分かっているのよね」
「負けると思ってくる客しか居ないと思っているのか、ここのカジノは」
「負けると分かっている勝負をしたくないのは、私たちも同じ。勝負はするわ、でもルーレット以外で、よ」
当人たちは平然と会話しているが、有り得ない。
ルーレットの止まる目というのはディーラーならばある程度操作もできるが、それは投げているから。
そもそも、一人のディーラーの投げる癖を見抜くだけで、可能だとしても膨大な時間を必要とするだろう。
それを、この男はカジノ中の全てのディーラーの癖を連続して見破り、一点掛けで勝ち続けてきたというのだ。
「ゲームは簡単。あなたが何か“二択”を出して、私が賭ける。それでどう?」
「二択?」
「なんでもいいわ。
コインの裏表、次に店に入って来る人の性別、カクテル用オリーブのビンを開けて中身が偶数か奇数か。本当になんでもいいわ」
逆だった。
通常はカジノ側がゲームメイクをし、客が賭ける。
だが、今回は逆。“問題”を客である男が決め、そのどちらかに賭けさせる。
型破りに思えたが、客である男は、そんな型破りすら楽しんでいるようだった。
「ならば、地震が起きるか、に賭けよう」
「……え?」
「地震だ。一〇分……いや、五分以内に地震が起きるかどうかだ」
「地震て、地盤から来る揺れよね? あなたが大きく貧乏揺すりでもして机を揺らした、とかは?」
「含めるわけが無い。地震は地震。いつ起きるか分からないアレのことだ。感じ取れないような震度のものは含めない。お互いに感じ取れる程度の揺れが起きるかどうか、だ」
バカげていると誰もが思った。そんな大きさの地震なんて“地球”ですら頻繁には起きない。
それどころか、ここは“火星”である。火星には地震は起きない。
惑星としての根本的な構造が異なり、火山活動=マグマがあまり機能しておらず、人類が火星に降り立ってからというもの、地震らしい地震は皆無であり、それこそ貧乏ゆすりのような物しかない。
そんな状況で、地震が起きるかどうかを賭ければ、“起きない”に賭ける方が勝つに決まっている。
「……どういうつもり?」
「ギャンブルをしに来て、お前のルールを呑んで、ギャンブルを提示している。それだけだな」
「それなら、私は“地震は起きない”方に賭けるわよ? 良いの?」
「もちろん構わん。儂が“地震が起きる”、だな。時間は……あの時計にしよう」
クイっと指差すと、ちょうど秒針が一二から離れたばかりだった。
火星は文化の特性上いくつも置かないと意味を成さない。時計は火星時間基準時、地球時間基準時などが有るが、その中でシドニア時間の時計が十二時ちょうどだった。
「あと四分五六秒、だな」
「……勝てる気なの? 地震なんて起きるわけが無いでしょ?」
「起きるさ」
「何か、細工でもしている……わけでもなさそうだけど」
「当然。ただ自分の勝利を信じている、それだけじゃな、ところで……」
そのとき。だった。
広範囲に、シドニアからアキダリアまで及ぶような突き上げるような揺れ。
シドニアといっても、このカジノのある街は赤道近くにあり、震源地から日本列島のいくつ分かに相当する距離を経ている、だが、それでも、大きく地面が揺れた。
ランスはあまりの出来事に外に飛び出して確認したが、カジノだけでなく、並びの店たち、道具屋、バイク屋、食用昆虫ショップ、ガンショップ、例外なく壁も看板も揺れている。
空まで揺らいでいるような錯覚は、間違いなく、地震としか呼べなかった。
後に『人類が最初に体験した最初の地球以外での天災』として歴史書に記される、シドニア大震災が、これだった。
「なん……で……地震が起きるって、知ってた、の……っ?」
余震と混乱の並の中、ランスは興奮の勢いに任せた途切れるような声で、崩れたチップの山を対して興味も無さそうに眺める男に辛うじて質問していた。
対する男は、得意気では有ったが今までのルーレットの勝利と同じように何気ない表情のままだった。
「――勘じゃな」
いつものこと、そうとしか取れないニュアンスで云うときにすら、男は平然としていた。
これが宝蔵院槍術の師である丸橋獣市郎と、その弟子・ランス・スミスの出会いであったが、借金の借り手と貸し手という関係で始まった。
名前:丸橋獣市郎
流派:宝蔵院流槍術
役職:ギャンブラー
プロフィール:男
元ネタ:名前は宝蔵院流の使い手として有名な丸橋忠也から。イメージは宝蔵院胤瞬から。
流派としての宝蔵院に関する偉人といえば、胤瞬の師である胤栄なのだが、某小説において胤瞬の方が知名度が高くなる。
胤瞬は宮本武蔵と同年代の槍術使いであり、そういう辺りで作劇がしやすかったのではないかと84gは予想している。