BC1991 【松崎仁と沖田総治】
太陽もまだ頭を出したばかりで、前方から来た同じ学校のバレー部とすれ違うと、冷たい空気で沖田の髪がそよいだ。
おはようございますと前を走る松崎が声を掛け沖田が続いたが、返辞はぎこちない笑顔と一緒の社交辞令。
沖田はこれほどに日課の早朝ジョギングを億劫に思ったことはなかった。
いつもは時折待ち構えていたクラスメイトからラブレターやプレゼントをもらって困惑することはあっても、概ね安息の時間でもあったからだ。
前を走っている松崎はジョギング中に限らず使うイヤホンは片耳型。
警官の松崎は五感を縛ることを嫌い、いかなるときでも助けを求めるサインも取りこぼさないようにしているという。
松崎は警察官の鑑だと沖田は思っていた。
自分と同年代の頃からジョギングパトロールを続けて、今までに空き巣ふたりを捕まえて、ストーカーを説教したことも有ったという。
その話をするとき、十年単位でやっていてそれだけだと松崎は云うが、沖田に常に正しく生きようとする姿勢に憧れを抱かせには充分だった。
カサカサと風に乗って古新聞が通り過ぎた。一時期はゴミ拾いもやっていたこともあるが、さすがにジョギングにならないという理由からやめてしまった。
新聞の紙面は、“警視正、またも麻薬の横流しに関与”の文字が踊る昨日の一面だった。
「松崎さん、ちょっとペースが速すぎます。少し休みましょう」
「……ああ……」
言葉少なにふたりは自販機の前に立ち止まり、松崎はポシェットから小銭を取り出して烏龍茶とスポーツドリンクを一本ずつ買り、どっちだ? と沖田に選ばせるのもいつものこと。
沖田はいつもと同じように烏龍茶の方を受け取った。
受け取るとき、松崎の視線が泳いだのを沖田は見逃さなかった。
――自販機の電光掲示板には“警察官、組織ぐるみでの売春斡旋か”に続き、“中崎警視総監、辞任”の文字が流れている。
「……すまんな」
「何も謝ること、ないじゃないですか……松崎さんたち、頑張ってるじゃないですか」
「……そうだな、すまん」
こんなときにも沖田の学校での風当たりを心配していると沖田には分かった。
沖田が警察官の松崎と一緒にジョギングをしているのはクラスでも有名。
犯罪が増えればそれだけ警察官も多様な仕事を求められ、多様な人員が増えるのは必然ではあるが、浮雲が流れるようにゆっくりとイビツな警官が増えたことで、松崎のような真っ直ぐすぎる警官も雨ざらしになった。
今まで市民に傘を差し伸べていたはずなのに、何人かの警官が降らせた土砂降りの中、松崎はそれでも市民に傘を渡そうとしていた。
犯罪の巧妙化、度重なる汚職、それに伴う報道の激化。
沖田は肩身の狭さを感じている自分を恥じ、沖田と松崎は互いに思いやり、相手の不器用さを歯がゆく思う一方、自分自身の不器用さには中々目を向けられない。そんなふたりのゴールは、沖田の実家、いつもの道場。
双方、防具も付けずに木刀を構える。その柄はとても太くて握ることも苦労するものだが、ふたりの手のひらには木刀がしっくりと吸い付くようだった。
あえて汗も拭わずに全力で振るう。木刀同士は互いを弾き飛ばそうと打ち合いながらも、その手から離れることはない。
複雑なダンスのように相手に合わせるようでいて、呼吸律動を追い抜くように加速していく。
早朝に走り始めてからは水分の補給だけで打ち合い続ける。昼前になって他の師範大や門下生たちがやって来る頃、やっとふたりは大きく息を吐いた。
「天才、だな」
そう松崎に声を掛けたのは、この士衛館の館長で警察庁で松崎の同僚でもある近藤だった。
「……ですね、沖田は理心流の歴史に名を残しますよ」
「もちろんそうだが、お前も天才だよ松崎」
「……年の差ですよ」
「上手く謙遜しないとも嫌味になるぞ。お前より年上の俺には立つ瀬がないだろ?」
「すいません」
「いや、謝るなって。話がし難い」
近藤は、いつの間にか点いていたテレビの音量を上げたが、その音量が耳に届くより早く、松崎の視線はモニターの文字に釘付けにされた。“警察庁民営化”の文字に。
「……は?」
ウソだと思うより前に、意味が分からなかった。公僕と揶揄されるのが自分たち警察のはずだ、と。
民営になるわけがない。それなのにどうしてこんな報道がされる。
どういう間違いなのかと画面を追うが、それが事実であると分かり難く説明していくお偉方に、松崎の元から多くない口数は絶句へと昇華せざるを得なかった。
「ここ何か月の警察へのバッシングはここに向かってた民意のコントロールか、イメージマネジメントだろうな。俺たちも揃って無職だ」
「俺たちが無職だろうが、そんなことはどうだって良い!誰が守るんだ! 江戸の頃から俺たち士衛館が、理心流が守り続けていたこの町を!」
一喝と共に松崎の繰り出した一振りで道場の床が割けた。
ザックリと鋭利な跡を付けて。繰り返しになるが“木刀”で、である。
士衛館が誇る理心流。通常の木刀に比べて格段に太い木刀を用いて鍛えた上で刀剣も棒術も用い、素手であろうとも柔術で戦う。
警察官は職業柄武術を鍛える必要が有り、剣術と柔術を鍛えられるとして、この道場には自然発生的に警察官を多く輩出してきた。
松崎も例外ではなく、この道場で鍛えながら先達たちの姿を見て警察官への道を選んだ。
感情を吐露する松崎には怒りに満ちていたが、冒涜的に冷徹に、近藤は薄っすらと笑みすら浮かべていた。
「少し落ち着け。お前の分も退職金は貰えるように手は打ったし、な」
「違うだろう!? 俺たちのカネなんてどうだっていい! 近藤!」
今にも木刀で切り掛かってきそうな松崎に、近藤も締まった表情になった。
「云っただろう、手は打った、とな」
「その通り! 松崎! お前も入って貰うぜ! 俺の東京の民営警察組織に、な!」
大声と一緒に堂々と道場に土足で上がり込んできたのは、松崎にも見覚えのある男だったが、それだけの男。
見ただけで会話したこともなかったが、豪放に振る舞うその姿のどこかに、強さと自信、そして黒さを感じ取っていた。
証拠どころか根拠も勘と云う他ないが、松崎は次のスキャンダルが有るとすればこの男だとすら思っていた。その名は芹沢火門だった。
「芹沢警視……でしたよね」
「ああ、不甲斐ない警察なんてのはサヨナラだ。ちょうど良いだろ? 正義と民衆を守れるなら良いんだからな?」
芹沢の言葉に白々しさを嗅ぎ取りながら、松崎の中に市民を守るための打算が働いた。
警察組織の中心であったはずの警察庁が崩壊し、東京都に警察機能が無くなった。
東京未曽有の危機に、民営で正義を行おうという革命児・芹沢の登場。もちろん松崎のリアクションは。
「……お前、先んじて警察庁が無くなるって知ってたんだな?」
「オイオイ、松崎、これからはこの芹沢さんが雇用主ってことになるんだから。もっと言葉に気を付けろよ」
近藤の態度に、松崎の刑事の勘は真相を嗅ぎ取った。もっと前から“何か”が動いていたのだ。
それは恐らくとても大きいもので、東京の警察庁を瓦解させる必要のある“何か”で、しかもそれをメディアや政治を利用して可能とするだけのパワーを持つ集団。
そのことを近藤と芹沢は知っているはず。そうなれば、松崎の取るべき道は決まっていた。
「……お世話になります」
「ウェルカム! 腐敗した東京に新たな風を! 民営警察・新鮮組はお前を歓迎するぜ!」
自分が守るんだという信念めいた覚悟は、松崎に沖田を思い返させていた。
沖田が大人になるまでに警察をキレイにして見せる。それができないならせめて新鮮組とやらをマトモに運用する。
民衆も、警察も、沖田の憧れも護る。その覚悟だった。
翻意そのものという真意を感じ取りながらも、近藤も芹沢は入社を認め、その姿を眺めながら沖田は胸中に疼き(うずき)を生んでいた。
しかしながら、この胸の疼きは心が生み出す物ではなく、肺が生み出すものであるとは気付く余地は無かった。