第6楽章 無秩序主義のファルス
アイリーン・ネルソンは、大抵の場合「恋人」と一緒に生活していた。
それはお気に入りの人形を、いつでも側に置いてある感覚に近かった。
人形相手に、喜ぶふり、怒るふり、悲しむふり、愛するふり。
ソープオペラのように、部屋の一面が切り取られて、その向こうから観客が見ているような気さえした。
それくらい脚本通り完璧で、ドラマチックで、ゾクゾクするほどの安っぽさだった。
主演男優のタイプは決まっている。
力もアッチも有り余ってそうな、若い役者がいい。
粗暴でアウトローなものに憧れを持っている、自分はいつかすごいことを成し遂げる、そのくせ実際は誰にも頭が上がらず、ホワイトカラーにも弱い。
ベッドでもとりあえず力任せ、それを女は悦んでいると思い込む、血液の行き場ときたら下半身か脳天しかしないような、そんな分かりやすい演者がいい。
相手が暴力的であればあるほど、アイリーンの歪んだオママゴトに花を添えるし、舞台も盛り上がる。
だから、その恋人の凶暴性を助長するよう、他の男に縋る真似さえした。
アイリーンを散々殴った男が、正気に戻れば、捨てないでくれ、自分が悪かったと懇願する。
それを微笑んで抱きしめるとき、自分が聖母にでもなったように感じたものだ。
悲劇のヒロインは、最高に気持ちがいい。
そのボロボロの積み木を一気に突き崩すことに、勝るとも劣らない快感だ。
アイリーンは、ごくたまに、そちらの生活と並行して、別の恋人とも遊ぶ。
品行方正、初々しくて、誠実そうで、時によっては妻も子もある幸せな家庭をもった
――そう、例えるなら王子様のような相手と。
「アイリーンさん」
展望車で風に当たっていたアイリーンは、声に振り向いた。
陽射しよけにかぶった薄いショールが、ふわりとなびく。
「もう起きて大丈夫なんですか?」
キオが小さな包みを両手にかかえ、相変わらずの笑い顔で寄ってきた。
「お昼、食べてなかったでしょう」
渡されたのは、ホットケーキのような生地に、ふかしたジャガイモやソーセージをくるんだ、クレープのような食べ物だ。売店で買ってきたばかりなのか、まだほのかに温かい。
「ありがと。リジーたちはどうだった?」
「……それなりに楽しんではいました」
グランとしばらく遊んだのち、リジーが戻ってきたので交代したが、正直心配の種が増えてしまったキオである。やっぱり持ってきたきぐるみを着せて、グランも客車に乗せてしまおうか、と本気で考えてしまう。
「……行くの?」
「え?」
キオが悩んでいる様子をなんと思ったのか、アイリーンが彼女らしくもない不安そうな表情で、こちらを見つめている。
ラヌブイエはちょうど分岐国だ。
東に進めば、ロウワンナ高山地方に入り、さらに南下すれば、砂漠を越え、キリエラグラトニュイ共和国にたどり着く。
そこには、アイリーン・ネルソンの生まれた町がある。
小さな、名前もない町だ。
なんの価値も重要性もない、美しくも珍しくもない故郷だ。
キオは、アイリーンの言葉になにかを汲み取って、首を振った。
「いいえ、行きませんよ」
どの交通機関も南は避け、ジョルヴァンナイトも例に漏れず、ラヌブイエの周囲をぐるりと回って南西へ向かう。
ラヌブイエより南は、まだ発展途上の小さな国々が寄り集まった不安定な地方なのだ。
キオは、凝ったレリーフで飾られた手すりに近寄って、遠くを見た。
やや低い位置に枯れた森が広がっており、その背景にはなだらかな丘陵が連なっている。
淡いオレンジ色に染まったのどかな風景のほかには、なにも見えなかった。
「遠くから、見るだけにします」
「そっか」
キオが笑いかけると、アイリーンも安心したように微笑んだ。
「リジーが警戒してるわ。キオは、アタシたちに縁のある場所へ連れてって、なにかありがたいお説教でもするのかなって」
「僕なんかのお説教じゃあ……なんにもならないですよ」
なるべく深刻に聞こえないように、アイリーンはごく軽く呟く。
「でも、ディーンは、ちょっぴり変わったみたいよ」
甘えたそうにしているくせに我慢したり、前ほど騒がなくなったり、なにか物思いにふけっていたり。
人のことなんて、ろくに考えてなさそうなディーンが、だ。
魔法がとけた。
あるいは、新しい魔法にかかった。
それはどんな魔法なんだろう。
後ろ向きに手すりに寄りかかっていたアイリーンは、クレープを一口かじって、キオの見ている方に目をやった。
日が沈む。
爛れた太陽が地平線の彼方へ、その身を隠そうとしている。
月や星は見えないだけで、いつだって涼しい顔で空に浮かんでいる。
なのに、強大な太陽だけは、まるで焼け崩れた自分の姿を恥じ入るように、どこかへ行ってしまう。
アイリーンは、かすかに笑った。
「どうかしたんですか?」
「ちょっと、思い出し笑い」
キオは、不思議そうな顔でクレープにかじりついている。
「アタシの生まれた国では、こんなふうに日は暮れなかった。こんなふうに優しく、穏やかには暮れなかった」
いつでも、夜は突然に訪れる。
明日なんてきてほしくないのに、一方的に沈んでしまうから。
「だから、太陽が嫌いだった」
アイリーンのショールが、ぱたりと頬に触れた。
「風が止んだのかしら」
手すりから身を乗り出して、後方車両をのぞいてみる。
森に沿って緩やかなカーブを描いた機関車の全貌がよく見えた。
「いえ、汽車の速度が遅くなったみたいですね」
ジョルヴァンナイト急行は12両編成。1、2号車が1等客室で、まるまる1両分を1部屋にあてている。
3~5号車が2等客車で部屋数は1両に2部屋、6号車が食堂車、7号車がバーのあるこの展望車となっている。
展望車以降の8号車から10号車までが、俗に一般客車と呼ばれる3等客車で、11、12号車が貨物専用車両だ。
汽車は、傍目に見ても分かるほど、減速し続けている。
「信号でもあるんでしょうか?」
教会に届く新聞にも、ほんの少しだけ外国面があり、時々記事がのる。
海外での慈善活動家たちの活躍や、宗教紛争の様子を掲載したそれは、大抵地球の南半分の地にまつわる記事だった。
そんな小さな海外面でも、当事話題になった大事件があった。
何十年も前、高級観光列車時代のジョルヴァンナイト急行が、もっとも頭を悩ませた問題。
最初に起こったのは、営業開始から半年後のこと。
今は停車していないエダルからラヌブイエ間に頻発していた、盗賊事件である。
次回更新予定日
10月20日(火)
とか書いてたくせに、今現在更新できてなくて、すいません!
そのかわり今週中に2話くらいあげるのを目標に頑張ります!