第6楽章 小部屋のオペレッタ
夢か現か分からなくなる、強烈なコントラスト。
白い地面。黒い木陰。道端で腐りかけたイチジクの赤。
地面に落ちたイチジクを踏み潰して、薄汚れたトラックが一台不恰好に走っていた。
この道の先にあるバザールに向かうのだろう。
トラックの荷台には、荷物のわずかな隙間にもぐりこむように、小さな少女が膝を抱えて座り込んでいる。
少女は、身体を覆い隠す灰色のぼろをまとい、なにもはいていない足の裏を無心にかきむしっていた。
彼女の傍らには、みずみずしいイチジクが詰まった箱が、大量に積み重なっている。
ふいに、なにか石でも踏んだのか、車輪が大きくかたむいた。
身体に響く振動で、アイリーンは目を覚ました。
「…………」
深く溜息をついて、毛布を鼻先に引き上げる。どれくらい眠っていたのか分からない。
視神経に砂鉄でも流しこんだように、目がじんわり重い。
億劫そうに寝返りを打ったアイリーンは、向かいにあるベッドを見て、小さく舌打ちした。
「やれやれ、眠っているときはおとなしいのに、目が覚めた途端それか」
アイリーンの反応に、ジルは鼻で笑った。
「勝手に入ってこないで。キオは、まだ戻ってないの?」
「さっき、リジーたちの様子を見に行ったよ」
リジーは、グランとともに最後尾の貨物車にひそんでいる。
ふたりが入った大きな木箱を、本当に果物を詰めた貨物にまぎれこませ、ジルが『うちの果樹園で取れたものです』とかなんとか強引に言いくるめて、貨物車に積み込ませたのだ。
「リジー……暴れてないといいけど」
グランはおとなしく荷物にまぎれていてくれるだろうが、リジーがおとなしくしているとは思えない。
猛獣の運搬より危険なんじゃないだろうか、とアイリーンは眉をひそめた。
「具合は?」
ジルが、顔を覗き込んでくる。
「元々そんなに悪くないわよ」
「なら、いい。起きられるようになったら、軽い食事でも運ばせよう」
大方、ベッドに滑り込んでくるかと思ったが、ジルはさっさと部屋を出ようとした。
しかも、なんか紳士的なことまで言っている。
アイリーンは、思わず半身を起こした。
「なに、どうしたの?ハードワークに耐えきれず、ついに下半身が死んだの?」
「……どういう意味だよ」
「いや、だって、ジルがまさかアタシになにもせず、ベッドルームから去るなんて……世界の終末が近いか、アンタの下半身が爆発したか、くらいしか思いつかないわ」
「2択が怖すぎるだろ!本気の目でそんな話すんのやめてくれ」
なんだかキオのノリがうつってきたジルは、アイリーンの傍らに腰を下ろした。
「で、なにかしてほしかったのか?」
整った顔を無邪気に綻ばせ、わくわくと擦り寄ってくる。ちょっとウザイ。
相手がなにか言うのを遮って、アイリーンはジルのスカーフを掴んで引き寄せた。
「ディーンがいなくなったとき、思ったの」
てっきり楽しい時間が始まるのかと思っていたジルは、「は?」と面食らった。
「大して心配なんかしてなかった。してないつもりだった」
仲間でもなんでもないし、そもそも仲間なんていたことない。
「なのに、眠れなかったのよ」
階下にキオ以外の気配がしたとき、ほっと息をついたのを覚えている。
あぁ、帰ってきたんだ、と。それからわけも分からず不安になった。
「ひょっとして、もう」
アイリーンは、唇をなめて湿らせ、一呼吸置いた。
「ひょっとしたら、もう、アタシたちの誰が欠けてもダメなんじゃないかしら」
朝起きて、食事を摂って、特になんの事件もないまま1日を過ごし、眠りに付く。
メンバーの奇妙さを除けば、先進国のほとんどの家庭が通り過ぎ続ける、まさしく「なんの変哲もない」生活。
今まで馴染みのなかったそれは、「恋人」とするオママゴトよりもずっと心地よかった。
ジルもキオを気に入っている。それに、ほかの妙な道連れたちのことも。
自分よりもずっと、この生活に馴染んで、楽しんでいる。
そう思っていたのだが。
「なんだ、そんなことで不機嫌になってたのか」
笑いを含んだ穏やかな声音に、なぜかアイリーンは鳥肌が立った。
「私は、キオを殺したくないんだ」
スカーフを掴んだアイリーンの力が弱くなる。
ほどけそうになる指先を、ジルの手が優しく包む。
下品なほど鮮やかな赤マニキュアが塗られた褐色の指と、形のいい白色人種の手は不釣合いで、絡み合っている様がどこか卑猥にみえた。
「それに、ペーズリーもディーンも殺したくない。もちろん、アイリーンも」
底知れない。
「まぁ、グランとリジーに関しては、殺せる自信がないな」
長い指でアイリーンの口元を撫で、ジルが愉快そうに笑う。
動揺を悟られないように、アイリーンは殊更なんでもないふうを装って、溜息をついた。
「結局、アンタもリジーと大差ないみたいね」
「アイリーン」
吐息がふれるほどジルの顔が近くなる。
彼は、秘密の話を打ち明けるように、柔らかく囁いた。
「私はね、赤頭巾ほどひねくれてはいないつもりだ」
いつもは、グランと並んでいるから普通に見えるし、リジーの隣だからマトモに見える。
「懐かれれば情もわく。周りが幸せそうなら、私も幸せを感じる。幸せなら、相手に笑いかけたくなるし、優しくしたくなる。それに、目をかけた相手が急にいなくなったら、さびしいじゃないか。出来れば殺したくないくらいだ」
こんなにまともなことを言っているのに、ちょっとした冗談でも聞いているようだ。
ディトラマルツェンでは、結構真面目にペーズリーの世話をしていたし、これまでだってなんだかんだでキオに従っている。
大嫌いな宗教を信じるわけではないけれど、青髭もついに改心したのでは、と考えていたのに。
本人にとっては、凝った即興劇の役者でもしているつもりなんだろうか。
「私は、出来ることなら、全ての人間の記憶に、いい印象のまま残っていたい。私に殺される、その直前まで」
色素の薄い睫毛の下で、青い瞳が親しみすらこめて瞬く。
「だから、私は愛したら、ちゃんと生かしておく。今みたいにね」
ジルの言う「今」が、奇妙な旅を続けている現状のことなのか、小部屋に自分たちふたりしかいない、今まさにこの状態のことなのか、アイリーンには分かりかねた。
「あらそう、話が終わったなら、さっさとどいてくれない?香水の匂いがうつるわ」
ジルの香水を嫌うペーズリーの気持ちが、分かった気がする。
この絡みつくような甘さが、気に入らなかったに違いない。
そう、少しだけ――
アイリーンは、苦々しげに唇をかんだ。
――無花果の香りに似ている。
パンツを買い求めたキオは、こっそり貨物車の前にやって来ていた。
「ふたりともおとなしくしてるかな……」
そっと扉を引く。いきなり、入り口をほとんど塞ぐように荷物の壁が現れた。
どうやら、あのふたりが他の乗客の荷物を勝手に移動させて作ったバリケードらしい。
この不死身ペアは意外にもお互いの意思疎通が良好で、たまに力を合わせたら、こういう意味不明な行動をするのだ。
ふたりは、バリケードの一番奥で、誰かの荷物からクリスタル製のチェスを拝借し、ゲームに興じていた。
「その女は一体なんなの!」
リジーが甲高い作り声で、白いクイーンを揺らす。
側には、白いキングと黒いクイーンの駒が寄り添うように置いてある。
「わたしというものがありながらひどいわ!見てらっしゃい!あなたも、その女も血祭りにあげてやるんだから!」
怒り狂うクイーンを操りながら、リジーが周囲の荷物を見渡す。
「グラン、そのへんにホールトマトの缶詰なかった?」
「……あったとしても使わせませんよ。なにやってるんですか、リジー」
「ただの猟奇的な新婚夫婦ごっこだけど」
「それ新婚だったんですか!?結婚そうそう浮気しちゃうなんて、そんな男とは明らかに別れた方がいいですよ血祭りにあげちゃう前に!」
言いながら、バリケードの一角をどうにか動かし、通り道を作るキオ。
「こんなに荷物動かしちゃって、大丈夫なんですか?」
「いいのいいの、後で元に戻しておくから」
キオは売店で買ったお菓子や飲み物をグランに手渡す。
リジーはお気に入りのキャラメル菓子をさっと奪い、風のような速さでいくつか口に放り込んだ。
「やれやれ、新婚夫婦がダメなら、熟年夫婦にするか。じゃ、グランはまた、狂人と化した夫に殴り殺される飼い犬と、電子レンジでチンされる飼い猫の役やってね」
「怖ぁぁあああ!!もっと健康的な設定にしてくださいよ!なんでリジーの作った話は、軽々と年齢制限の枠を飛び越えちゃうんですか!」
グランは、飼い犬と飼い猫にされてしまったふたつのナイトを、大事そうに抱き締めている。
「しょうがないじゃん、やることがないもん」
リジーは、ぶうと頬を膨らませた。確かに、貨物車に娯楽があるわけがない。
「こんなところじゃ、せいぜいグラン相手にままごとやったり、(グランを)人間ダーツの的にしたり、(グランを)馬代わりに乗り回したり、(おそらくグランを)汽車と平行して走らせたりするぐらいしか楽しみないよ」
「グラァァアアン!!」
キオはグランを抱き締めた。
かわいそうに!そんな目にあうなら、リジーも客室に連れて行けばよかった!
グランがひとりぼっちになるならと同乗者をジャンケンで決めたけど、リジーになった時点でやめとけばよかった!
「しばらくは、僕がいますね!リジーも退屈なら、ちょっとぶらついてきていいですから、あんまりグランをいじめないでください!」
次回更新予定日
10/16日(金)