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第5楽章 夢の国

自らの幸福は 思わぬところで祈られている

だからこそ 汝は 他の人間を愛さなくてはならない


『旧約大聖典 青の詩篇』

いっぱいに開けられた出窓から、柔らかい陽光が降り注いで、ゼラニームの鉢たちを包んでいる。


まだ暖かくなるまで随分かかるだろうけど、このまま南へ旅を続けたら、夏に追いつくかもしれない。ディーンは、そんなことを考えながら昼下がりのベリードロップを見るともなしに眺めていた。


「ねぇ、あなた」


見回すと、螺旋階段の一番下で、毛糸編みのボンネットが、ひょこひょこと動いている。


ひょっとして、自分に話しかけているんだろうか。


「オイラのこと?」


ディーンは手すりから身を乗り出した。


「あのね、悪いんだけど、そこの玄関の電球をね、換えて頂けないかしら?」


老眼鏡をかけた小さな老婆は、ディーンを見上げて、丸い電球を掲げてみせた。ひとつ頷き、ついいつものくせで階段の手すりを滑り降りる。


「まぁまぁ!」


クラウン夫人ははしゃいで手を叩いた。


「階段の手すりって、そんな愉快な使い方があったのねぇ!」


ディーンは、ちょっと目を丸くした。

キオによく注意される子供じみた習慣は、彼女にとって面白いものに映ったらしい。


「こんなこともできるよ」


ちょっと得意になって、手すりの上で逆立ちをしてみると、夫人はますます声をあげた。


「すごいのねぇ!サーカスだわねぇ!そんなすごいことが出来るなら、玄関の電球をかえることなんて、朝飯前ねぇ」


「いいよ」


うまくのせられた気がしないでもないが、ディーンは気分よく請合って、準備してあった梯子にするする登っていった。

老婦人は、久しぶりにできた話し相手が嬉しいのか、ディーンの登った梯子の下にひっついて、しゃべり通しだ。


「こういうとき、若い人はいいわねぇ。このへんは治安がいい方だけど、やっぱり年寄りの1人暮しとなると、色々面倒があるのよ。だから、人がいっぱい入ってきてくださって、嬉しかったんだけど」


夫人は、少し寂しそうに言葉を濁した。


ディーンたちのディトラマルツェン出立は、来週の午後である。

急ぐことはなかったのだが、やはりここは人目につきすぎた。

ゴシップ誌には、一体どこから嗅ぎ付けたものやら「笛吹き男再来」の文字が賑々しく躍っている。

まさかそれを本気にしたわけでもないだろうが、キオが部屋を借りた不動産屋が、つい昨日訪ねてきて、ディトラマルツェン警察が、ここ最近で部屋を求めた外国人について調べているようだ、などと不穏な情報をもたらしたのである。


キオは、ちょうどいいと言った。

グランを部屋に置いてけぼりにするのは可哀相だと思っていたから、もう出よう、と。



オイラのせいなのに。



あぁ、そうだな、ここは退屈すぎる。

と、ジルが、ここ2・3日でこしらえた引っかき傷を撫で呟いた。

その隣で、ペーズリーが不機嫌に鼻息を噴出している。

アイリーンも、夜中の9時には町中ベッドに入ってるみたいだと賛同し、グランは言わずもがな。

リジーだけは、虫の居所でも悪いのか、うんともすんとも声をたてなかった。



オイラのせいなのに、みんななんにも言わなかった。



「昔はね、ラトゥールという町でも、お部屋を貸してたのよ」


突然出てきた町の名前に、ディーンはぎくりと肩をすくめた。

彼女はなんの疚しい考えもなく、ただ世間話の延長として、口に出しているようだ。

どういった流れでラトゥールの名が出たのか、ディーンはぼんやり聞いていた話の断片をつなぎ合わせようとしたが、夫人の話は飛んだり跳ねたり要領を得ない。

仕方なく黙ったまま、内心びくつきながら、話の先をうながす。


「こっちに娘夫婦がいるもんで、連れ合いを見送ってから、移ってきたの。それでね、確かクラン……えぇと、クランペとかなんとかいう人にお部屋を貸したことがあったの。もう随分昔でね」


羽で、背を撫でられたように感じた。


「それって……クレンペラー……?」


そっと呟いたディーンの言葉に、クラウン夫人はパッと顔を輝かせる。


「そうよ!そんな名前だった」


とうに取り替えた電球を、夫人に渡すことも忘れ、ディーンは話に聞き入った。


「元々は、どこかの大きなサーカスにいた芸人さんみたいなんだけど、なんだか気難しい人でね、あたしがいくら頼んでも、手品ひとつ見せてくれないの。家賃もしょちゅう溜め込むし、ふらりとどこかへいっちゃうような、変わったおじいさんだった」


わたしが『おじいさん』なんて言うのも変だわね、と婦人は少しはにかんだ。


「その人がね、とても可愛がってる、お弟子さんがいたの」


「……弟子?」


「いつだったか、階段の電灯が切れてね、背も届かないし、どうしようかと思ってたの。そうしたら、その子が言うのよ。『オイラがやったげるよ』って」


優しい声は、耳を擦り抜けていくようだったが、不思議と頭にしっかり入ってきた。


「するするするっとね、階段の手すりに乗っかって、すぐ電球を付け替えてくれたわ。本当に身軽で、おさるさんみたいだった」


老婦人は、もう半分自分自身に話しかけているようで、ディーンが目に入っていないようだ。


「仲良しでね、親子みたいでね……だけど、クレンペラーさんは事件に巻き込まれてしまってね……あの子も、ある日、ふっといなくなってしまった」


彼女の目には、まだその少年の影が映っているのかもしれない。子供の走る背中を追うように、夫人の視線が、廊下から玄関ポーチ、昼の光が降り注ぐ外へと流れていく。


「……あの子は、どこへ行っちゃったのかしらねぇ」


灰色の瞳は、シワに埋もれていたが、ガラス玉のように澄んでいる。


そこにある少年への愛おしさ。


「クレンペラーさんはね、男の人なのに甘いものが大好きで、あのアパートの名前が気に入ってたのよ。だからここも」


気付かなかった。そんなこと思い出さなかった。

6年前、ラトゥールで、コールと過ごした部屋。

ネズミ退治に戻ってきたとき、ディーンは、その部屋が忘れられなくて、記憶を頼りにアパートを探し、笛吹き男として勝手に住み着いた。

そして、今は。


「キャラメルクラウンのまんまなの」


老婦人が、真ちゅう製の看板を見上げる。


「あの子が、見つけて、ふらっと帰ってきてくれるような気がしてね」


色素の薄い瞳が、ディーンを見つめる。


「なんだか、あなたを見ていて、急に思い出したのよ」


老婦人は、柔らかなガーゼのハンカチで、そっと目頭を押さえた。


「……幸せに、なってくれてるといいけどねぇ」


笑い声が聞こえる。


「ダメねぇ、年取ると涙もろくなっちゃって……さぁ、お茶にしましょう?」


笑い声は止まない。


ネズミの鳴き声に似ているソレは、もう不愉快ではなかった。


花畑の片隅で、初夏の木陰で、あの街角で。

冷たい思い出の町が、ゆっくり取り戻していく温かみ。


強く想像した。



果てのない深い青空。

湧き上がる積乱雲。

暖かく溶ける緑。



それから、なにがあったろう。


ディーンは、頬を暖める陽射しを思い出した。

それから、いつもより明るい視野に、熱く焼けた石畳に、涼しげな水の囁きも。

朝から晩まで、人の気配が絶えなかった広場。

漂うのは、パンの焼ける匂い、バターのこんがり溶けた香り。



角にあったパン屋の、声の大きいご主人。太った奥さん。

いつも子供を叱ってばかりいた、怖そうな本屋のおじいさん。

広場で、自分の売る花に毎朝話しかけていた、花売りの女の人。

その花売りのおねえさんに、いつも話しかけたそうにしてた男の人。

ただの散歩だろうに、偉そうな歩き方の町長さんと、その後ろを早足でついていくクラップフェンさん。


少年の大きな目が、くるくる動くのも想像した。これは悪戯を企んでるときの顔だ。

それから、栗色の髪の少女の、とびきり楽しそうな笑顔。


みんな、誰かを囲んで、笑ってるんだ。


みんなの中心にいるその人は、きっと奇妙なまだら模様の服に、ツバ広の帽子、先の丸まった靴をつけてるに違いない。


「……まぁ、どうしたの?どこか痛いの?」




遠い、遠い、夏の昼下がり。





そこにあったのは。





夢の国。














第5楽章 終幕

長らくのご愛読、ありがとうございました。

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