第5楽章 最後の贈り物
ヘレンの頬に、細く冷たい雫が降り注ぐ。
「ピエトー!」
先ほどから降り始めた霧雨は、あっというまに激しくなっていた。
ピエトが出て行ってから、一体どれくらいたったのか。父親のことを聞いて飛び出していった息子を追うこともせず、ヘレンは呆然と部屋の隅にうずくまっていたのだ。
銃声が、聞こえるまでは。
ピエトの姿を見かけていないという村人の言葉に、いてもたってもいられなくなったヘレンは、周囲が止めるのも聞かず、森へ入ったばかりだった。
しかし、もう何年も足を踏み入れていない地で、今どこをどう進んでいるのかすら、本当は定かでない。やみくもに杖をつき、枯れ草を分け、声の限りに名前を呼ぶ。
「ピエト!どこなの!」
ふいに、ヘレンは立ち止まった。
遠くで、鳥が鳴いている。ピエトの声が、草を踏む足音が聞こえたように思ったのだが。
耳を澄ましても、雨音がやかましいせいで、よく分からなかった。
再び足を踏み出し、しかしヘレンはすぐに歩みを止める。
今度こそ間違いない。
人の気配を感じる。それもすぐ近くに。
どうやら相手もこちらに気付いているらしく、動かないままである。村人なら、まず声をかけてくるだろうし、ピエトなら母親相手に警戒しないはずだ。
「だれ……?」
今更、隠れても無駄だと、ヘレンは杖を握り締める。
しかし、思ってもみないことに、返ってきたのは捜し求めていた相手の声だった。
「やっほー、母さん」
「ピエト!?ピエトなの!?」
明るい声音が、ヘレンの側に近づいてきて、何事もなかったように続ける。
「ねぇ、母さんは、なんでここに」
ピエトがみなまで言う前に、ヘレンは息子の頬の冷たさに声を高くした。
「どうしたっていうの!びしょ濡れじゃない!」
まだ降り出したばかりだというのに、ピエトの髪はたっぷり水を吸って額に張り付いている。ヘレンは自分のスカーフを外し、ピエトの顔の泥を落としにかかった。
「えぇと、さっき、あー……川の上流に落ちちゃったんだ」
気の弱い母親が騒ぎ出す前に、慌てて付け加える。
「でも大丈夫だよ!ちゃんと助けてもらったから」
だれに、と問う間はなかったし、その必要もなかった。
自分の外套を、ピエトに着せ掛けるヘレンの傍へ、誰かが立ったのだ。
「あなたが、助けてくれたのね!」
腰を浮かし、相手の手を取ったヘレンの表情が、安堵から驚愕へ変わる。
身体が強張ったのは、寒さのせいばかりではなかった。
ヘレンが握った手は、出稼ぎや外働きにはとても向いておらず、豆ひとつない。
形のよい爪に、長い指、ヘレンよりは厚い手のひら。
私が、大切な思い出だけでなく、忌まわしい思い出も共存している、この地へ戻ってきたのは、今日のこの時を待っていたからかもしれない。
――私は、この手を知っている。
ヘレンは顔を上げた。湿った風が髪をさらう。
見えない視界が、果てまで開けるようだった。
――私は、この手を誰よりも知っている。
相手が、手を握ったまま、そっと引いた。
何故ここにいるのか、どうして今なのか。
言いたいことも、聞きたいことも、謝りたいことも、伝えたかったこともある。
でも、なにも出てこなかった。息をすることすら忘れそうなほど。
ひょっとしたら、と思ったけれど、涙すら出てこない。こんなに静かな心持ちで手を引かれているのが不思議だった。煩わしかった雨音さえ、心地よい。ついさっきまであんなに心細かったのに、姿の見えない相手に手を引かれて、私は安心しきっている。
あれは、本当に雨音だろうか。蝉の鳴き声じゃないだろうか。
森を出ると、あの頃の夏に戻っているような気がする。
果てのない深い青空。湧き上がる積乱雲。暖かく溶ける緑。
その、どの色も私には分からない。
頬を暖める陽射しに、いつもより明るい視野に、熱く焼けた石畳に、涼しげな水の囁きに私は夏を感じる。でも、これまで、今ほど鮮烈に夏を想ったことはなかった。
森の入り口に着いたのか、足場がふっと良くなる。随分、歩いたように感じたけれど、その手にひかれて戻る道は一瞬だった。前を行く誰かの足が止まる。
ヘレンは、動悸の激しくなる胸を押さえた。
私が言う前に、向こうがなにか言うだろうか。ひょっとして、私に気付いていないのだろうか。こんなときまで、自分からは何も言えないなんて。
せめてお礼をと口を開く前に、頬に張り付いた髪を、誰かの指先がすくい上げるのが分かった。相手によっては気障でしかないその仕草は、悲しくなるほど優しい。
私に、払いのけられるんじゃないかと恐れているのか、相手の指先は驚くほど震えていた。濡れたヘレンの髪を、恐る恐る耳元に流している。
逆なのに。本当は私こそが、貴方からひどい仕打ちを受けるべきなのに。
ヘレンは、その手をやんわり外し、自らの両手で包み込む。
この手は、私を憎んではいない。
そして、私も、この手を憎んでいない。憎んでいるわけがない。
「ありがとう」
ようやく口をついて出た言葉は、謝罪ではなかった。
ピエトを助けてくれて、ありがとう。すごく会いたかった。あなたを探してあげられなくて、守ってあげられなくてごめんなさい。それから、それから――
ヘレンの両手に、相手の片手がのせられる。
あたたかくて、優しい、キャンディーやチョコレートを上手に隠してしまう、魔法の手。
いつか、初めて会ったときを思い出し、ヘレンはほうっと溜息をついた。
まさか、硬貨をかじらせないでしょうね?
頭の隅で、そんな冗談を考える。
笑おうと思ったのに、突然喉が熱くなって、ヘレンはせり上がってくる嗚咽を飲み込んだ。
さっきから、手に落ちているのが雨ならいい。雨であってほしい。
相手が何か言おうとしたのか、小さく生唾を飲み込む。
でも、言葉は詰まったままで、それはヘレンも同様だった。
そのまま、どれくらい黙っていたのか。
毛糸の束がほどけるように、手からごく自然にぬくもりが消え失せる。
同時に目の前を大風が吹きぬけ、頭上の枝を大きくしならせた。
ヘレンは息を呑み、それでもどうすることもできず、木々のざわめきが徐々に小さくなっていくのを聞くだけ。
甲高い鳥の声と、野犬の遠吠えと、風と雨とを連れ、彼の気配が遠くなる。
気がつくと、蝉の音は雨音に、陽射しは霧雨に、夏は冬に戻っていた。
あぁ、また……。
放心状態のヘレンの隣で、ピエトが深く溜息をつく。
「行っちゃったね、母さん」
ヘレンは、そのピエトの言葉を聞くと、糸が切れたように、その場へしゃがみこんでしまった。慌てて寄ってきた息子を、彼女は思い切り掻き抱く。濡れそぼった身体が、くすぐったそうに身をよじった。
「母さん、いたいってば!」
照れているのか、早々に腕から抜け出すピエト。息子が森を振り返った気配を感じ、ヘレンはその視線を追いかけた。
「……どんな人だった?」
「え?……」
「笛吹き男は……どんな人だった?」
どう言えばいいだろう。どれが言ってかまわないことで、なにが教えちゃいけないことなのか。悩んだ末、ピエトは小さく呟いた。
「えぇと……母さんの話みたいに、悪いやつじゃなかった」
ピエトの言い方で、思い出す。私は、ただ笛吹き男の話をよく知っているだけの人間。
途端に圧し掛かった時間と想いの距離に、ヘレンは胸を痛める。
ところが、彼女の思考はピエトの吹き出した声に断ち切られた。
「あの格好はどうかと思うけどね」
「格好?」
「あんな派手な帽子被ってるヤツ、他にいないし。なんか、鳥の怪物みたいな格好だった」
言いながら、ピエトは、笛吹き男が最後に言い残したことについて考えていた。
ヘレンの姿は、彼女の持つ白い杖のおかげで、森の中でもすぐ見つけられた。なのに、駆け寄ろうとするピエトを押しとどめ、笛吹き男はヘレンの傍にいくのを、ためらっていたのだ。
そのとき、耳打ちされた。
お母さんを大事にするんだよ。
ひとりぼっちにしとくと、すぐ泣いちゃうからね。
それから、ときどきでいいから――
「母さん」
ピエトは、笛吹き男に言われたとおり、母親を抱きしめた。
彼女の顔が隠れるくらい、小さな胸をせいいっぱい広げて。
「……ピエト……?」
背中に手を伸ばそうとして、手を開くと今になって違和感に気付く。
ヘレンの掌に残っていたのは、冷たい1イースト硬貨。
いや、違う。
「ねぇ、ピエト、これ何?」
「母さん!ソレもらったの!?」
スコッチの不満そうな声が、今にも聞こえてきそうだ。
『だけど、その笛、ちっとも音が出なくてさ、ディーンは吹き方がダメなんだって言ってたけど』
一番遠くまで聞こえる、一番綺麗な音の、一番最初にコールから吹き方を教わった笛。
『へぇ……スコッチ、それってなんの笛なの?』
もしも、なにかあったら
「それ、さっき笛吹き男が吹いてたよ!そうしたら、空から鳥が」
『鳥を呼ぶ笛、なんだって』
すぐに、あなたのそばへ。
ディーンの心境を書くべきか書かざるべきかで、結局書かない方向に落ち着けました。
さて、前回お知らせするつもりだったのですが、うっかり忘れておりました!
実は、近々、評価欄を一時閉鎖させて頂くつもりです。
というのも、三月がなにかにつけてとろくさいせいで、返信が遅れがちになってしまい、コメントをくださった方々に申し訳ないからです!
10月13日の夜12時に一旦閉め、11月の連休にまた開放しようと思っておりますので、ご了承くださいませ!
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