第5楽章 嘘吐き少年と笛吹き男
雨が降ると、匂いが消える。
その前に見つけ出さなければ、面倒なことになる。
ふたりの後を追うように、広がっている雨雲を見上げ、笛吹き男は先ほどより注意深く木から木へと渡って、吼え声を辿っていく。尾を長く伸ばす声が、なにか見つけたことを確信させるが、エルトベーアを発見したにしては、どこか哀れっぽい響きがある。
小柄なぶち犬が、木陰に集まった野犬の周囲を何度も回り、地面に降り立った笛吹き男を待ちきれないように寄ってきた。犬の鼻面が並んだ輪のなかに、なにかがぽつんと落ちている。
それは、随分と使い込まれたハンチング帽だった。
泥を払いもせず拾いあげたピエトは、夜の肌寒さで赤くなった頬を緩め、笛吹き男を振り返る。
「コレ、父さんのだ!このへんにいるんだよ、きっと!」
ろくに見もせず駆け出した矢先、足が落ち葉に取られ、ピエトはその足元の暗さに目を見張った。笛吹き男は、どうも犬の鳴き方が気にかかる。
「ピエト、ちょっと気をつけて」
ますます声をあげる犬の切迫した様子に、ピエトも不安げに眉をひそめる。
「うん……だけど、別に変なことなんて、なにも」
何気なく踏み出した爪先が、ぐぅっと引っ張られた。身体の重心が前に傾き、ピエトは慌てて一歩踏み出したが、踵をこすった枯れ枝の音と足裏の感触に青褪めた。
――――地面がない。
どおりで犬が、帽子から先に進まなかったはずだ。
深いのか、浅いのかも分からない夜の底が、枯れ草の下でぽっかりと空虚を湛えていた。
しかし、投げ出されそうになったピエトの身体を、笛吹き男があっさり捕まえる。
踵から落ちた靴が、引っ張られたはずみで、夜の底に吸い込まれていってしまった。
落ちた音は聞こえない。それくらい深いのだろう。
「こ、こんなところに崖があるなんて知らなかった……夏の間は草が生えてるから気付かなかったのかな」
滑り落ちないように覗き込むと、吸い込まれそうに暗い深淵がびょうびょうと風を呑んでいる。凝る闇の奥に、なにか薄気味の悪い怪物が蠢いていそうで、ピエトは首をすくめた。
野犬は、高所に怯え唸りながらも、崖の傍を離れない。
帽子以外にもなにか見つけたのだろうか。
「笛吹き男、あれ……何?」
崖を少し降りたところ、壁の迫り出した部分になにか布切れのようなものが落ちている。
目を凝らすが、暗くて細部が分からない。
「人間じゃない?」
雨雲に遮られていた月が、最後の抵抗にか、一瞬視界を明るく照らした。崖の色濃い影と月光の恩恵にあやかった一部がくっきり切り取られ、その中に倒れた男の姿が浮かび上がる。
「お父さん!」
一緒に覗いた笛吹き男も、軽い調子で指差した。
「え、あのひっかかってるアレ?」
「そう!アレ!」
枯れ草に覆われ、昼間でもちょっとした段差程度にしか見えない小さな崖。
大方、野犬に追われているうち、足を踏み外して落ちたのだろう。
「なんとかして、ここまで引っ張り挙げよう!」
「むり」
「うん、わかった、そう……え、無理なの!?」
笛吹き男は、こくんと頷いた。
「下手に動かすより、助けを呼んだほうがいーよ」
テレビではヒーローが縄で引き上げるとか、空を飛んで助けたりするけれど、それはテレビのヒーローだから上手くいくのだということくらい、笛吹き男でも分かる。
ピエトは崖に落ちかけてから寄りっぱなしの眉間の皺を、ますます深くして目を見張った。
「す、すぐそこなのに、できないの?だって、助けを待ってたら」
ぴくりとも動かない父親に、嫌な予感が頭を掠める。
崖からその窪みまで、せいぜい数メートルだが、打ち所が悪ければ死ぬ高さ。
少しでも早く無事を確認したいし、しなければならない。
顎に指を添え、考え込む笛吹き男の傍らに、道案内の野犬たちがフンフンと甘えたような声で鼻先をすり寄せてきた。笛吹き男は目元を和らげ、軽く犬の頭を撫でてやる。
「ありがとう……でも、君たちはダメ。叩かれちゃうからね」
夜気が、はっきり湿り気を帯びてきた。
もうすぐ雨が降る。
探している村人も家に帰ってしまう。
ゆっくり被さる灰色を見上げ、笛吹き男は深く溜息をついた。
「せめて、目印があれば」
目印。
笛吹き男は、突然思い立ったように、肩から提げた袋から笛を取り出した。
いくつもある笛のうちのひとつなのだろうが、小さなそれは金属片のようにも見える。
一見、音が出るかどうかも疑わしかったが。
笛吹き男にくわえられたそれは、きちんと役目を果たした。
零れ落ちたのは――壊さない音。
決して静かな音ではないのに、夜を壊さない、乱さない。
波紋、みたいだ。
どこか他人事のように眺め、ピエトは呟く。
鏡の湖面に、ひとつ雨粒が落ちて、自然に広がった波紋。
徐々に銀糸が増え、どんどん波紋が重なっていくけど、それがうるさくない。
犬を追い払ったときの笛は、鋭く脅すような緊迫感があったけれど、今度の音は葉の間を跳ね返って飛び回っている。軽快でどこか一定の法則があるのか、時々抜けたような高音が入る。
音は次々枝分かれして、流れ星みたいに四方へ散って、徐々にあちこちの葉陰に溶けていく。
最初の音色が消える前に、別の音程が入り、また先ほどの途切れがちなものとは違うゆっくりと起伏の少ない流れになった。
曲ではない。
なにかの鳴き声を模倣しているのだろうが、その鳴き声の主をピエトは知らない。
「笛吹き男、一体なに……」
そこで、ピエトは口を噤んだ。
「あぁ、そっか。もう雨が降るから、みんなも家に帰ってたんだ」
やけに来るのが早いと思った。
笛から口を離した、笛吹き男の言葉の意味を問う前に、森が共鳴した。
数え切れないほどの、羽音が聞こえる。
数え切れないほどの、鳴き声も聞こえる。
笛吹き男が、また別の音を奏でだし、夜の森は昼の森より賑やかになっていく。
ずっと、チョークレトラの森の傍にいたのに、こんなに生き物がいるなんて知らなかった。
「あれ、全部、鳥……?」
木々の隙間から覗く空が、みるみるうちに白と黒の斑模様に変化していく。鳥の群れは、波飛沫のように曇り空を飾り立て、隊列を組んで一斉に下へ流れ込んできた。
ばたばたと風を巻く幾羽もの羽音が、耳の横を通り過ぎ、ピエトは慌てて身をかがめる。
「わっ……!?」
目を転じる上空は、黒い川に粉雪を散らしたよう。森のあらゆるところから、ここを目指し集まってくる鳥の群れは、遠くから見れば白い帯のように見えるだろう。
「すっげー……」
崖がある上空は、なにも遮るものがなく、夜空を一望できる。徐々に数を増す、夜を塗りつぶすような鳥の影は、白いもの、赤いもの、青いものと様々で、しかし一際目立つのは、崖際に立つ極彩色の鳥
――笛吹き男。
ピエトは、ふいに母親から聞いた物語を思い出した。
あらゆる鳥の羽根飾りをつけている笛吹き男の姿から連想したのかもしれない。
それは、一日だけ、鳥の王様になったカラスの話である。
母親のする話は、笛吹き男の話にしてもそうだが、いつも彼女なりの感想やピエトにはちょっと難しい別の見解が入る。この話も例に漏れなかった。
「お母さんはね、カラスが本当の王様になればよかったのに、って思ってるの」
母親は、何故かと問うピエトに、こう言った。
「カラスは、仲間はずれにされて辛かったでしょう?だから、もしも別の鳥が仲間はずれにされたら、きっと守ってくれるわ」
笛吹き男は、自分の袋からクッキー缶を取り出し、砕いたクッキーを撒いた。崖下のエルトベーアが倒れている窪みあたりにも、たっぷりふりかけておくと、鳥は一斉にそこへ群がって、暗がりはいっぺんに白い吹き溜まりになった。
『白は、目立つからな』
得意げに言いながら、チョークを走らせていた少年が、ふいに浮かんだ。
『目印にピッタリだろ?』
ディーンは、そっと目を伏せた。
「本当だ」
ゆっくり目蓋を閉じる。
「目印に、ピッタリだね、スコッチ……」
―――――――――――――――ンッ――
足元の土が、乾いた破裂音で弾け飛ぶ。
それは、魔法の笛でもない、野犬の吼え声でもない、最も不吉で最も有害な音。
「笛吹き男……ッ!!?」
銃声。