第5楽章 修道士の聖譚曲2番
雲の流れが、速い。
重ね合っては千切れ、散り散りに舞い、そのたび月明かりは遮られる。
樹木に囲まれているからか、そんな空模様のせいか、その場は水底から見上げているような奇妙な閉塞感に包まれていた。
さっきとは正反対に、後姿となったディーンは振り向かないまま、半分森の闇に隠れ佇んでいる。キオは、彼が立ち止まってくれたことに安堵し、しかしまた、なんと声をかけていいものか煩悶していた。
同情か、叱責か、謝罪か、包容か、それとも何事もなかったように振舞うか。
一体なにを、どう訴えればいいのだろう。
『君の気持ちは分かるよ』
そう言おうと思ってやめた。分かるわけがないから。
ディーンの気持ちは、ディーンにしか分からない。
「ディーン」
怯えたように背中が震える。キオは一息吸い、深く頭を下げた。
「ごめん」
腰を折ったキオの姿は見えないものの、気配は感じ取ったのかディーンの背中から、警戒心がふっと緩んだ。キオは顔を上げないまま、続ける。
「勝手にディーンのこと調べて、悪かったと思う。だから、謝りたかったんだ。本当にごめんなさい」
キオは間髪入れずに、声を張り上げた。
「でも、僕は、調べたことを謝ってるんじゃない。それを秘密にしていたことを謝ってるんだ。だから……調べたことは、悪いと思ってない」
ディーンが、振り返る。キオも、ゆっくりと身体を起こした。
いつも穏やかな日差しを映した鳶色の瞳は、今は決然とディーンを見据えている。その真っ向から挑む眼差しに、ディーンはわずかにうろたえた。笛吹き男から、いつものディーン・クレンペラーに戻りそうで、彼は生唾をのむ。
「知ることが出来て、よかったと思ってる。知らないままでいるより、よかった」
キオは、言葉をゆっくり噛み締める。
それはどこか自分自身に言い聞かせているようでもあった。
「自分のやったことを、小さかれ大きかれ、そのまま受け入れるのは難しい。僕にだってすごく難しいんだよ。信じたくないことのほうが、世の中には多いから」
ディーンを笛吹き男だと、心のどこかで信じなかったように。
「歪めたまま飲み込んで、気付かないようにする方が、楽だよね。どんな大それた事でも、みんなは、いつか忘れてくれる。だけど、自分だけは絶対に忘れないんだよ。自分でやったことだから、忘れたくっても忘れられない」
何かにつけて思い出す。それが悪いことであればあるほど。
「逃げるのは簡単だけど、それで落ち着く?心の底から安心できる?本当に、逃げ切れていると思ってるの?」
どんなに逃げても、ふとした瞬間、まるで最初からそこにいたように、ゆっくり追い付いてくる。少しずつ、大きく黒く膨らみながら。
「……もう、ディーンも……分かってるんでしょう?」
人間はそう簡単に狂えない。完全には割り切れない。
過去を都合よくすりかえても、どうにか忘れようとしても、罪悪感は影のように付き纏って離れず、罪悪感を殺しきれなかったからこそ、君は呪いを振り払えない。
思い切れなかった証拠に――さっき、僕を殺せなかった。
ディーンほどの瞬発力があれば、距離が少々離れていようが、獲物の急所を抉ることくらい、容易だったろう。それが出来なかったのは、ほんの一瞬の躊躇。
月が陰る前、キオの姿を見止めたために生まれた隙だ。
「……また」
震える声が途切れがちに届く。
また、ひとりになるのかな。
人気者になるには、まず人の目に触れないといけない。だけど、透明人間が慌てて色をつけたって、綺麗に見えるわけないんだ。
唯一、ディーンがまともに知っている、どこかの国の寓話。
森の嫌われ者だった真っ黒カラスは、色々な鳥の羽根をくっつけて、念願の人気者になることができた。だけど、偽者の羽根をすぐに抜け落ちてしまって、結局みんなから仲間外れにされてしまう。
人気者になりたいところも、生ゴミにタカルところも自分と同じだと、そう思ったのを、今でも覚えている。
オイラは、あの頃から、なんにも変わっていないんだ。
自分の立っている地面が、ゆっくり沈んでいくような感覚に、ディーンは身体を強張らせた。どこにも、なににも繋がっていないというのは、なんて不安なことなんだろう。
ふと、顔を上げると、そこは広い舞台。
金色の房飾りが幾重にも下がったビロードの幕、つやつやに磨き上げられた黒檀の床。
眩しいほどのスポットライトが、ディーンをぽっかりと浮かび上がらせている。
客席には、驚くほど沢山の人影。
だけど、誰ひとり、ディーンを見ない。
彼が舞台で何をやっても、まるで誰もいないみたいに、静まり返っているのだ。
そのうち、ディーンの立っているところとは別の舞台にスポットライトが当たり、お客はみんなそっちに注目し始める。
先ほどまで銅像のようだった顔が、それぞれ明るく綻ぶのを見て、ディーンは呆然と立ち尽くした。
どうしていいか分からず、ただもういたたまれず、そこから動けない。
親を探す迷子のような視線が、ふらりふらりと客席を彷徨うが、誰もそれを受け止めてくれない。取り残された寂しさから、縋るように一歩前に踏み出した途端、ライトが激しく明滅した。
光、闇、光、闇。
次に明るくなったとき、客席には誰もいなくなっていた。
舞台には、ライトに照らされたままの道化師が、ひとり。
道化師は喉の奥で、掠れた悲鳴をあげた。
置いていかないでよ。
幕は、まるで彼を晒し者にするように、いつまでも下がらない。
照明だけがやけに明るくて、そのまま自分の存在が、真っ白に塗り潰されていくよう。
誰も、いない。
極彩色の装束下で、身体がゆっくりほどけていく。
誰も。
力が入らず、声も出ない。
だれ、も。
きっと、最後には、衣装だけが残るんだろう。
この滑稽なほど上辺を飾っている衣装だけが。
「ねぇ」
思ってもいなかった鼓膜の震えに、ディーンは身を竦める。
「人気者にならないと、ダメなの?」
薄暗い客席のどこかで、まだ幼さの残る声がした。
ちょうど客席の中心に、ひとり拍手をしている観客がいる。一瞬誰に手を叩いているのか分からなくて、道化師はおどおどと周囲を見渡した。少年は、真っ直ぐこちらを見ていて、一生懸命手を打っている。
「僕が見てるだけじゃあ、ダメかな?」
ディーンは思わず後退った。
照明の抑えられた劇場の風景が、糸をほぐすように弛み、歪んでいく。
「僕には、こんなにディーンがよく見えているよ」
そこはもう、架空の劇場ではなく、雲波の幕に月光の照明、木々に丸く切り抜かれた小さな舞台だった。スポットライトの代わりに、雲間の月光がディーンを明るく照らしている。
キオが近づいても、ディーンは逃げない。じっと、耐えるように俯いている。
その姿が、悪戯を咎められたいつものディーンみたいで、キオは無性に泣きたくなった。
どうして、そんなことしたんだ、と本当は罵りたかった。
こんなこと、本当は知りたくなかったよ。
いつまでも知らないふりをして、みんなでのん気に……家族みたいに、ずっと一緒に暮らせたらいいと思ってたんだよ。本当に。啓示を忘れるくらい。
目の奥が真っ黒になるほど、きつく目を閉じる。
――僕は、こんなに、みんなが好きなんだ。
泣きたいのも、罵りたいのも堪えて、キオは微笑んだ。
僕は、ディーンを遺族の前に引きずっていくために、事件の背景を調べたわけじゃない。
本当はそうしないといけないんだろう。
彼が泣こうが喚こうが謝罪させて、国に引き渡して、相応の罰を受けさせるべきなんだ。
「悪気はありませんでした」「過去に問題があって」「彼だけが悪いんじゃないんです」「ごめんなさい」それで済む話ではない。
おそらくは、命で贖っても足りないほど重い十字架を負わされる。それが当然だ。
でも、女神様は、罰せよと、そうは言わなかった。
じゃあ、僕の都合のいい解釈を許して、目をつぶっていて欲しい。
今だけでも。
「僕は、いつも決まった場所にいるよ。そこからは動かない」
ディーンの傍にいつでもいる、とは言わなかった。
「だから、ディーンが僕から離れていかないで」
それは、一見優しさに似ているけれど、彼のためにならない言葉だから。
「もし、離れても、必ずそこに戻ってきて」
そして、いつの日か、嘘になってしまうかもしれない言葉だから。
「僕は、待ってるから」
だから、言えなかった。
黙りこくったままのディーンが、何度か生唾を飲んだ後、わずかに顔を上げた。
唇が躊躇いがちに震え、細い声を喉から絞り出す。
「……それ、本当?」
感情の入り混じった目が、おそるおそる帽子の下からのぞいた。
期待と不安、怯えと甘え、猜疑心と慕わしさが、彼の瞳の奥で凝っている。
「ディーン、フランチャコルタのことを数にいれなければね」
何故だか少し明るいキオの声に、ディーンは首を傾げた。
もしも、この先嘘をつくことがあっても、絶対ディーンにだけは吐かないだろう。
「僕が嘘をついたことは、これまで一度もないんだよ」
雲の幕が、ひといきに消えた。