第5楽章 修道士の聖譚曲
頭が痛い。
こんなに頭が痛いのに、なにかが、しきりに耳元で喚いている。
ディーンは、そのやかましいものから顔を背け、耳を塞いだ。
どんなに離れようとしても、ソイツは狂ったように声をあげて、ついて来る。
あぁ、うるさい。
大変。
みんな。
地震が。
雨が。
あぁ、うるさい。
断片的に届く甲高い音は、まるで鳴き声のように、鼓膜を刺す。
早くなる雨足でさえ、それを消し去ってはくれない。
みんな。
埋まっちゃって。
早く。
早く早くはやく。
……埋まっちゃって?
ディーンは、帽子の影で、目を眇めた。
埋まっちゃって、だって。なんて嫌な言葉なんだろう。
追っ払いたい一心で、ディーンはソレを力任せに突き飛ばした。
小雨に濡れそぼった小さな子供は、湿った土の上に、背中から倒れこんだ。よろよろと身体を起こしながら、信じられないと言いたげな目が、ディーンの姿を映している。
あぁ、子供だ。
ほんの一瞬、胸のうちを何かが掠めていったけれど、ディーンはその懐かしい正体を捕まえられなかった。そんなことを、ゆっくり思い出す心の余裕なんて、とてもなかったから。
ディーンは、ひとつ息を吸うと、大きく手を打った。
子供は、びくんと震えたが、じっとしたままだ。
あれ?
ディーンは首を傾げた。おかしいな、音に驚いてどこかへ行くと思ったんだけれど。
その子供は逃げるどころか、今にも泣き出しそうな顔で、彼に縋り付いてくる。なにがなんだか分からないことを叫びながら、弱々しくディーンの胸を叩いたり、必死で肩を揺すったり、しまいには彼の頬を叩いたのだ。
乾いた音に被さる、嗚咽の混じった声。
「しっかりしろよ!どうしちゃったんだよ、ディーン!」
ディーンは、打たれた頬を押さえたまま、大きく目を見開いた。
怒ってる?
すごく怒ってる?
いつもは見えないはずなのに、なんで叩くの。
声も聞こえないはずなのに、なんで怒鳴るの。
店先のものは、綺麗で、変な臭いもしないけれど、自分には食べられないものだって、手をつけてはいけないものだって分かっていた。
だから、もう捨ててあるものを持っていこうとしたのに。
それすらも、見つかれば許されない。
『なんでだろう?なんで自分だけ、こうなんだろう?』
頬から、そっと剥がした手には、べっとりと泥がついている。
分かった。
ディーンは、内臓を揺さぶられたような悪寒に、身を震わせた。深い意識の淵から、危険信号が発され、空っぽの頭に言葉だけが降って湧いた。
『まだ泥に埋まってなかったの』が、追いかけてきたんだ。
ディーンは、そのまま――その小さな身体を突き飛ばした。
泥や雨水を吸った洋服はひどく冷たいのに、その下の身体はひどく熱くて、柔らかい。
なにかが千切れるような耳障りな音がしたけれど、彼はすがる手を払いのけ、暴れるのを押さえ、まだおとなしい水流に子供を放り込んだのだ。
本当に一瞬のことだった。
――スコッチ・モーレンコップフは、川に呑まれて消えていった。
ネズミなんて、大嫌いだよ。
ディーンは胸中で、苦々しく呟いた。
人の物を引っ掻き回して、糞はするし、なんでもかじるし、かさかさうるさいし、ろくなものじゃない。
それに頭もよくない。目新しいものがあると、警戒しながらも、寄ってくるんだから。
今みたいに。
笛吹き男は、音もなく降り立つ。
再び雲海が、夜空を覆おうと流れてきている。
月が遮られる直前、冴え渡る銀光――笛吹き男の鉤状に歪んだ爪が、少年の後姿を削った。
「……ひッ……!?」
避けよう、そう思ったのは、頭だけ。
いや、思考すら本当はついてきていなかったのかもしれない。
横様に転がった周囲を、一陣の風が吹き抜けていったようなもので、実際キオは恐ろしくて目で追うことも出来なかった。
隠れよう、逃げよう、次々泡のように考えが湧いてくるが、そのどれも行動に移せない。そもそも、こんなに見晴らしのいい開けた場所で、どこに隠れるところや逃げるところがあるというのだろう。
ただ、後ろの人間が攻撃してきたことで、金縛りは解け、四肢にどっと感覚が戻ってきてはいる。それは有り難いことだった。
キオは、まだ来ない2撃目から逃れようと、必死で地面を這った。
背中がやけに寒いうえ、風にあたるとわずかに痺れた。
どうなっているか、とても確認する勇気はない。
「……っは、は」
肺の浅いところで、息を継ぎながら、キオは身体ごと振り返った。
真正面から、髪を悪戯に乱す風が、どうと吹き付けて、キオの目線を揺らがせる。
彼は――ディーンは、ちょうど首を傾けて、帽子の淵に指を添えたところだった。
その豪奢な帽子と、無骨な鉤爪が、不自然なはずなのにピッタリと収まっている。
すんなりと伸びた足や長い腕は、キオよりもずっと高い位置にあるのに、肩幅が狭く、肉も薄いため、少年のような身体つきに見える。紫装束を纏う細い腰から腕に広がる、極彩色の羽根飾りが、風に煽られシャリシャリと音をたてた。
北ホルン系には多い金色の瞳も、彼により色を添えるため用意された、上等の琥珀だ。
人間の重さを感じさせない、滑らかな動作。ただ、近づいてくるという行為なのに、舞踏の最中を思わせるほど軽かった。それは、夜空から糸で吊るされた人形劇の道化師。
まるで、なにか別の、自分とは無関係なところで起こっている、知らない物語の一場面を見ているよう。
本当に、本当なんだ……。
軽口もおどけた仕草もない彼は、あまりにも完璧な笛吹き男だった。
「……ディー、ン」
そっと呼んでみたけれど、小さなそれは、風に流されてあっけなく消える。
自分はなんて無力なんだろう……!
見覚えの片鱗もみせない一対の宝石に、キオは喉元が引きつりそうになる。
彼を分かったような気になっていたくせに、今歩みを止めることも出来ないんだ。
操られているように無表情な笛吹き男は、数日前キオに感情的な言葉をぶつけていたディーンとは、少しも似ていなくて、それはひどくショックなことで。
取り乱したディーンの姿が、ヘレンに変わる。
どちらも、秘密を掻き回されて、ひどく悲しみ、ひどく怒っている。
……怒っている?
逃げないことが不思議なのか、笛吹き男はかすかに目を細めた。
ディーン、今、君はなにを考えているの?
あんなに怒っていたのに、まるで、他人事みたいに落ち着いているよ。今起こっていることが、ディーン・クレンペラーから、切り離した出来事だと、割り切っているみたいに。
ぽつんと、自然に、言葉が転がり落ちた。
「怖いの?」
忘れたつもりでいる自分自身に、事実を突きつけられるのが。全てを知っている笛吹き男と、なにも知らずにいたい自分を、真っ二つにしておかないといけないほど。
囁き声を、今度は風が浚っていかなかった。
笛吹き男は、凍りついたように立ちすくんでいる。
その刹那、雲が切れ、なにかが、鋭く笛吹き男の目を刺し貫いた。
待っていたように、勝手に、キオの身体が動く。キオは、眩しそうに目を細めたディーンの身体を抱え、そのまま地面に押し倒した。
チャリン、と安っぽい音をたて、月光を反射した十字架が胸で揺れる。
キオは乱れた呼吸のまま、ほとんど悲鳴のように吐き出した。
「もう、忘れたふりはやめようよ!」
ディーンが忘れようとしているのは、自分が人殺しであるという――その事実。
初めて会ったときの甲高い哄笑が蘇る。
『教会ネズミ』……ディーンのなかで、子供はネズミみたいなものなんだ。特に自分に害をなす類の子供は、そう認識される。認識されるというより、ディーンがそう思い込みたいんだ。
そうすれば、自分は『人殺し』にならずにすむ。
思わず、唇を噛んだ。
……なんて、幼いままなんだろう。
自分が悪者にならないために、相手を人間以下だと決め付けて、『自分は人殺しをしたわけじゃない』と思い込んでいるなんて。
でも、そう思い込まずにはいられなかった。
自慢しないのも、怒ったのも、攻撃してきたのも、隠そうとしたのも、全部繋がる。
みんなに嫌われてしまうことを、なによりも恐れているから。
ディーンは、どうしても、せめて、自分のなかでだけでも。
人殺しに、なりたくなかった。
キオは声を抑え、両手でディーンの頬を挟んだ。当たり前すぎるほど当たり前なのに、ディーンにとって最も認めたくない、怖い宣告を……キオは、出来るだけ優しく告げた。
「僕は……ネズミじゃなくて、人間だよ」
今、『気付いた』
違う。『なんて、おかしなことを言うんだろう』
それも違う。『お願いだから、そんなこと言わないで』
そんな表情だった。
「だから、君に僕は殺せない」
なんて言った?
この子供は、ネズミじゃないって?
この子供が、ネズミじゃないってことは、つまり……自分には、よくないことだ。
だって、そうじゃないと……そうじゃないと……自分が人殺しになってしまう。
ディーンは、馬乗りになっていたキオを突き飛ばし、素早く跳ね起きた。
「ディーン……」
その労わるような、潤んだような、悲しい瞳が、どこかの誰かを思い起こさせる。
思い出してはいけないよ。
ソイツを思い出すと、もっとコワイコトを思い出すよ。
笛吹き男は、さっと身を翻した。
「ディーン!」
子供の声が追ってくる。
来ないで来ないで追いかけて来ないで。
『ディーン!』
ああ、よく知っている子供の声だ。
逃げなきゃ逃げなきゃまたああならないように。
『待ってよ、どうしたんだよ!』
声がくぐもって聞こえるのは、雨音が混ざっているせいか、それとも口いっぱいに泥が詰まっているせいか。
『おれだよ!ディーン!』
川の水だ。川の水を飲んでるせいで、あんなに聞こえにくいんだ。
「ディーン、待って!」
後ろの気配が立ち止まった。気配も振り切るように、ディーンは足を緩めない。
黒いビーズみたいな瞳が、木陰から、草薮から、石の下から刺すようにこちらを見つめている。
ただ喚いているだけみたいに聞こえるけど、そうじゃない。
耳を澄ますと、悲鳴とクスクス笑いとが綯い交ぜになった嬌声が、ほら。
ウソツキ!ウソツキ!ウソツキウソツキウソツキウソツキウソ――
「ディーン・クレンペラー!」
夜を断つ 澄んだその一声が
「逃げるな!」
こんなにも鋭く 鮮やかに
「僕からまで、逃げて、いかないで」
―――― キオ
先の見えない 世界を切り裂いた