第5楽章 散逸きわまる独奏曲
「遅い!」
苛立ちが頂点に達したのか、忙しなく歩き回っていたアイリーンが一声吼えた。
「行き先を書いておくように、あれだけ言ったのに!」
言いながら、キオの残していた「行ってきますメモ」を振り回す。
「そうだな」
ジルは、ペーズリーの洗い髪を、タオルでわしゃわしゃ拭ってやっているところである。ペーズリーの入浴補助をキオにメモで指示されていたようだが、一騒動あったのか、彼の麗しい横顔に引っかき傷が付いていた。
「やっぱり、探しに行ったほうがいいんじゃないかしら……ねぇ、どう思う?」
もう歩き回る場所がないほど、部屋中を散々歩き回ったアイリーンは、ようやくグランの隣に腰を下ろした。グランはといえば、困ったように首をかしげ、ジルとアイリーンを見比べている。
やれやれ、なんだろうなぁ。
窓際のテーブルセットについたまま、リジーは、キオの所在について話し合っている殺人鬼たちを――かつて、だよな、これじゃあ――かつての殺人鬼たちを静かに眺めた。
以前なら、各々で判断していた。フランチャコルタの一件での頃は、ろくな相談なしで、それぞれ好き勝手に――だのに、今はどうだ。憲兵隊の事件以来、お互いに相談する、という無意識の了解ができてしまっている。
「まぁ、そのうち帰ってくるだろ。ふたりとも子供じゃないんだし」
アイリーンに問いかけられたのが3度目のジルは、またもや同じ答えを繰り返す。
それで一旦は納得するアイリーンだが、しばらくすれば似たようなことを言い出すに決まっている。この光景も、もはや今朝から3度目。
誰もが、どこか落ち着かない様子で、ソファに収まっていた。
どこのホームドラマだよ。
内心リジーは呟く。
我が子を心配する若い母親に、寛容鷹揚な父親に、手のかかる子供5人。
ひとりは家出中、ひとりはそれを追って、ひとりは心配、ひとりは不安、ひとりは傍観。
家出息子が帰ってくれば、湯気をたてる温かな夕飯と全員揃った家族の団欒。
そこまで思い描いて、密かな笑い声を漏らす。
それに気付いたのか、アイリーンが訝しげにリジーを振り返った。
「ねぇ、リジー、アンタ本当に知らない?前に3人でどこかへ行ってたじゃない。ほら、ディーンのことで」
リジーは、アイリーンの視線を受け流し、緩く口角を上げた。
「ねぇ、そんなことより、別の心配をしようよ」
この居心地いいホームドラマが、いつまでも続くと思っていないか、諸君?
「このままじゃあ、次があるってことだよ」
囁き声が、その仮初めの舞台を凍りつかせた。
ディーンの「次」が。
ふいに囁き声が聞こえ、キオはヘレンに合わせ、腰をかがめた。
「……さい」
しゃがみこんだまま、俯いたヘレンが、再び何事か囁く。
「ごめんなさい、キオさん……今日はもうお引取りください」
聞き返そうと思う前に、強張った表情が、ゆっくりとキオを仰ぎ見た。
「……え?」
「もう随分暗いし……バスがなくなる前に、お帰りになったほうがいいと思うの」
薄茶色の明るい瞳は、一旦陰ると、硬質な土色。先ほどまでとは打って変わった、読み物をそらんじるような抑揚のない声。
今のヘレンは、まるで天災前の静けさを思わせ、一触即発、ほんの少しの衝撃で崩れてしまいそうなほどの緊張感を孕んでいた。
「でも……大変なときに僕だけ……それに、まだ、少しだけ聞きたいことが……」
恐る恐る返したキオの言葉に、塞き止められていたものが、一息に砕ける。
「いい加減にして!」
ヘレンは高く引きつった声を張り上げた。追い詰められたネズミのような、切羽詰った色が、瞳の陰りをより色濃くさせている。
「今更、根掘り葉掘り……一体なんなのよ!私はなにも知らないって言ってるじゃない!」
へレンが頭を掻き毟ったことで、ひとまとめにされた髪が、ざらんと乱れ、零れる。温厚な母親は、見る間に見知らぬ女になった。
キオは驚きに目を見開いたまま、喚いているヘレンを見下ろしている。
「今は夢のようなものだったと思っているのに!どうして、引っ掻き回すようなことするんですか!そっとしておいてほしいのに!」
おかしい。
ヘレンの頭の片隅で、もうひとりの冷静な自分が囁いた。
おかしいわよ。どうしたのヘレン。なにを、そんなに怒っているの。
「私がなにをしたっていうのよ!よってたかって、過去のことをほじくり返すなんて、どうかしてるわ!あなた、それでも修道士なの!?」
自分がなにを言っているか深く考えもせず、ヘレンはただ感情に任せ、叫び続ける。
キオはそれを止めず、真剣な表情でヘレンを見つめていた。
「……ヘレンさん」
ひとしきり喚き終わったヘレンが息を整えている間に、キオは静かに切り出した。
「失礼ですが、なにに……どうして、そんなに怯えてらっしゃるんですか?」
――何も見ていないようで、見ている。
キオの柔らかい、しかし確信を帯びた声音に、ヘレンは長い髪の陰で大きく目を見開いた。
一度、きつく目蓋を閉じ、ヘレンは必死で感情を抑える。こんなに感情的になったのは久しぶりで、昇った血がなかなか下りてくれない。激しい動悸だけが、未だ叫び続けているように、跳ね回っていた。
「……とにかく」
何度も唇を湿らせたのに、ようやく出た声はひどく乾いていた。
「お話することは、もうありません」
言い募ろうとするキオの言葉に、素早く被せる。
「帰ってください」
ヘレンは震える足で立ち上がると、青筋の浮き出た手で、神経質にスカートを払った。戸口とキオから顔を背け、硬い声音で一方的に告げる。
「帰って」
それっきり、ヘレンは唇を引き結んだ。
これ以上話すと、とんでもない言葉が口から飛び出てきてしまいそうだった。
背後の気配は、しばらく逡巡し、何かを言いかけ、しかし躊躇い、ややあって小さく謝罪を述べると、静かに出て行った。
――いなくなった。
ヘレンは、ほぅっと首筋の緊張を緩めた。その途端、膝が大きく笑い、近くの椅子にどさりと座り込む。彼女は倒れるように、テーブルに突っ伏し、顔を埋めた。
叫びすぎたせいか、ひどく頭が痛い。耳鳴りもする。
『目なし よろよろ ここはどこ?目なし ふらふら あなただれ?』
子供特有の可愛らしい声が、耳の奥を掠め、ヘレンは拳をテーブルに叩き付けた。
なにも知らないですって?
ヘレンは、笑い出したい、叫び出したい焦燥感に、掻き毟るようにして襟元を緩める。
乱暴な動作だったため、爪が首をかすめ、赤みが筋となって残った。
人の気配を感じ取ることだけは得意な私が、子供が消えたことに気付かないわけがないじゃないの。なのに、なにも知らないですって、ヘレン?
そう、知らないわよ。
ヘレンは、自分自身に確認する。
知らなかったわ。やけに静かだとしか思わなかったわよ。
――ウソ。
しん、と静まった心に、反響する自分の声を聞き、ヘレンは肩をビクンと震わせた。
思い出しちゃいけない。
そう思う反面、ヘレンの猜疑心がゆっくり頭をもたげてくる。見ないようにしてきた、自分自身に対する猜疑心が。
――どうして、スコッチを探せたの?
どういうことよ。
――どうして、スコッチを見つけ出せたの?
なんの話?
――聖夜祭のときは、子供は家にいるはずでしょう?なのに、私は「スコッチの家に行かず、真っ先に外を探した」じゃないの。
問いかけに、ヘレンは息を呑んだ。
スコッチの家にだって、最初に行ったはずよ……よく覚えていないだけで。
――家に行っていたなら、モーレンコップフの使用人がスコッチの不在に気付いて、大騒ぎになるはずよ。それに、私が礼拝を抜け出したことだって、みんなにばれてしまうわ。
私は暗に知ってたのよ。スコッチが外にいること。スコッチだけが。スコッチだけが町に残っていること。
「そんなことないわ!」
孤独な部屋は、ヘレンの否定を淡々と吸収した。は、は、と短い呼吸を繰り返しながら、今まで忘れていた、忘れたがっていた、平穏の裏側に恐怖する。
ピエトや夫と暮らす平穏。それは、さながら飾り立てられた刺繍。柔らかい布に縦横に走る美しい糸。しかし、その裏は、表の刺繍からは想像もつかないほどグロテスクで、這い回る血管のよう。さぁ、中が見えないように綿を詰めて、縫い合わせなくちゃいけないわ。
「……ただ、それだけよ」
ヘレンは弱々しく呟いた。
確かに町の様子がおかしいのに、気付いていた。まるで、町の子供が一人残らず消えたみたいだと思ったわ。ただ、消えた、みたいだと、思っただけ……。
ヘレンは、自身の言い訳の中に、ディーンの発した言葉と同じものがあるのに気付き、指を交差させ、両手を絡めた。
――キライなもの、と言われて、真っ先に思い浮かんだのは、なに?
分からない!覚えてないわよ!
――私は、町の子供がああなったと聞いて、本当は、どう思ったの?
悲しんだわよ。悲しかったわよ。そう、だけど……。
――だけど?
爪の先が白く染まり、手の甲に筋が深く刻まれる。
ヘレンは、それでも、両手を固く固く握り締めた。
祈るように。
「ざまあみろと思ったわ」
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