第5楽章 笛吹き男の狂想曲2番
節制と理性 正義の剣と所業の秤
善人よ 喜べ 罪人よ 逃げ出せ
大いなる 裁きが下る前に
『旧訳大聖典 青の詩篇』
こんなに家への道が遠いなんて!
スコッチは町へ駆けながら、ともすれば崩れそうになる膝を一心に動かしていた。
大丈夫、大丈夫だ。
くらくらと歪んで映る景色を振り払うため、スコッチは頭を振った。
大丈夫に決まってる!きっと入り口が崩れただけだ!
掘り出せば、また道が出てくる!みんな無事だ!
ヘレンの杖を探した先で、見つけたのは、洞窟。
正確には、以前洞窟だったはずの場所。
スコッチが白いチョークでつけた目印だけは、非情にも無事で、その泥に埋まったところが、「夢の国」への入り口だと物語っていた。
スコッチは、恐ろしくて、とても近寄れなかったのだ。
だって、もしも、土の中から手が出てきて、足を掴んだら――
バカ!そんなことあるもんか!
スコッチは、自分の考えを、慌てて消し潰す。
大丈夫、大丈夫、だいじょうぶ。
ヒュウヒュウと、小さい頃患った喘息が、胸のあたりを詰まらせた。
痛む脇腹をおさえ、走り続けること数分、ようやく橋が見えてくる。ほとんど歩いているのに近い速度だが、気持ちだけは全速力で、スコッチはかすかに笑みを浮かべた。
もう少しだ。あの橋を渡ったら、町外れの洋裁屋があって、それで。
ふと、一点を見た、スコッチの歩みがゆるくなった。
「ディーン……?」
いつの間に降りだしたものか、途切れがちに視界を切る銀糸の向こうに、紫色のものがうずくまっている。いつもふわふわと天を向いている鳥の羽根が濡れて、泥だらけだった。
ディーンも洞窟が崩れるのを見たんだろうか、それともまだ知らないんだろうか。
スコッチは、乱れた息を一飲みにし、声を張り上げた。
「ディ――ン!!」
その、振り向いた金色の瞳が。
スコッチには、怯えているように見えた。
なんで、こうなったんだろう?
最初は人気者になりたいだけだった。
自分を透明人間にした町で、コールと出会った町で、人気者として迎え入れられたかった。
だからネズミのウワサを聞いたときは、今こそ役に立てると思ったのだ。
それなのに、どうして、こうなってしまったんだろう。
泥の中からのぞく、スコッチの補聴器。
ディーンは、それを拾い上げ、そっと右を見た。
それから、左を。
どこにもいない。
おかしいな。どうして、これがここにあるんだろう。
これだけが、どうして、ここにあるんだろう。
「……スコッチ……?」
雨はどんどん激しくなって、ディーンから、正気を洗い流す。ふつん、ふつんと、茹ですぎたパスタが切れるように、ディーンの筋道だった考えがちぎれていく。
えぇと、なにを探してたんだっけ。
そうだ、最初は家族を探してたんだった。
だけど見つからないから、食べ物を探すことにしたんだ。
だけど、食べ物を探すよりは、お金を稼いで買ったほうがいいんだって、誰かが……
あぁ!忘れてた!コール!
ディーンは、息を吸い、叫んだ。
コール どこ行っちゃったの
ひとりはいやだよ
もうワガママ言わないから帰ってきて
早く帰ってきて
返事はどこからも聞こえない。
そうか、コールは夢の国に行っちゃったから、帰ってこないんだった。
しばらく呆然と、あたりを見回していたディーンは、自分の右手の違和感に気がついた。
開いた手の中には、泥だらけの補聴器がある。
なんだろう、これ。
まじまじとそれを見たディーンは、なにか怖いことを思い出しそうになって、それを放り出した。
あの機械、どこかで見たよ。
ねぇ、さっきのって、ひょっとして……ひょっとして。
『違うよ、ネズミの落し物』
……ネズミ?
『ネズミを退治しただけ』
退治していいの?かわいそうじゃない?
『邪魔なネズミは殺したっていいんだよ。町長サンがそう言ってたもの』
ディーンは、弾かれたように笑った。ひぃひぃと息を切らし、身を捩り、腰を曲げ、腹を押さえ、それでもけたたましい笑いは収まらない。
「そうだよ!あの人、自分で言ってた!ネズミは殺すんだって!退治するんだって!」
邪魔なネズミは、殺していい。思い通りにならないネズミ、虫唾が走る嫌いなネズミ、脅かす怖いネズミ、オイラを追っかけてくる頭のおかしいネズミ。
ディーンは、ネズミ笛を吹いた。
音のない笛は、ラトゥールに流れていく。
おいでよ。町に戻してあげる。
アレはネズミの町だもの。
あははは、はははははははは
あ――はははははハははははハハははは
――ブツン
笑い混じりの声が聞こえる。暖かい、懐かしい声が。
それは、甘えた調子を含んで、ヘレンの意識の底を揺さぶった。
ヘレン、ねぇ、起きてよ。
ヘレンは、水をかくように手を動かした。ゆるりゆるりとしか反応できないのが、やけにもどかしい。
早く起きなくちゃ。なんだか、とても嫌な夢を見た気がするのよ、スコッチ。
……スコッチ?
「どこにいるの?」
自分の発した言葉に、ヘレンは吸っていた息を止めた。
再び吐き出した呼吸は、浅く、短く、彼女の喉を震わせる。
氷水に手を浸したように指先が凍え始めると、頭から夢見心地が洗い流され、血液は一気に足元まで滑り落ちた。
スコッチは帰ってこなかったじゃない!もういないのよ、どこにも!
私が、あのとき無理強いしなければ。
ディーンのいるところへ連れて行けなんて言わなければ。
町の人の様子に、もっと早く気付いていれば。
ディーンが現れたとき、引き止めて、話しを聞いておけば。
それに、それに……。
ふいに、なにかが手に触れた。
冷たい直線と滑らかな曲線が絡み合う――
「……ッ!」
――十字架。
「ヘレンさん!?」
キオは驚いて、声をあげた。
目眩を起こし、床にくずおれた彼女を介抱していたところ、急に腕を振り払われたのだ。
いつのまに意識を取り戻したのか、床に尻をつけたまま、蒼白な顔で後ろに下がるヘレンは、震える指先でキオを指した。
「キオさん、あなた、その……」
指を暖めようと、拳に握りこむ。しかし、その拳さえも冷たい。
「なんなの……どうして、十字架なんか」
へレンが何故そんなに驚くのか分からず、キオは困惑した声を出す。
「あの、別に、申し上げることでもないと思って……僕、修道士見習いなんです、けど……とりあえず、コバルティアラピス系で……それが、なにか?」
修道士!
ヘレンの脳裏に礼拝で歌う、荘厳にして重厚な賛美歌が、幾重にも降りかかる。
雨にどれだけ打たれたとしても、こうはならないだろうというほど、彼女の全身は小刻みに震えていた。その色を失った唇から、独り言のような呟きが漏れる。
「キオさん、あなたはどうして、ここに来たの……?」
ヘレンの怯えを理解できず、キオは弱々しく首を振った。
「どうしてって……笛吹き男を」
キオがみなまで言わぬ間に、ヘレンは声を荒げる。
「そうじゃなくて!どうして、マシューマルロに……ラトゥールに……なにを探しにいらしたの?なぜ、笛吹き男なの?修道士が、どうして今になって……!」
泣き声になるのを止められず、ヘレンは顔を覆い隠した。
――神様が、私の秘密を暴こうとしてらっしゃる。
キオの修道服の胸に下がった、花十字は罪のない顔で揺れていた。
聖典をまるごと一冊作りたい三月です!
なかなか話が進まず、申し訳ありません(涙)
以下、メッセージの返信をさせて頂きます。
はぅぅうん!B様、いつも温かいお言葉、ありがとうございます!
先生なんておっしゃらないで!恥ずかしくて小学校の花壇とかに埋まってしまいそうですよ!
迷惑なんてこと全然ないので、どんどんメッセージ送ってやってくださいね!毎秒ごとに1通くらい!(B様が疲労困憊・満身創痍になっちゃうだろが!)
というわけで、「評価・感想欄に書きにくいなぁ……」「ウンコ野郎!って一言だけ送りつけたいけど、どうしよう」という読者様は、是非メッセージをご利用くださいませ。
マニアックなメッセージ、お待ちしております!