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第5楽章 嘘と秘蜜2番

明日は聖夜祭だというのに、今日も1日曇り空だった。


このぶんじゃあ、明日も晴れないでしょうね。


湿気を含んだ空気を嗅ぎ、ヘレンはひとりごちた。

肩を回し、固まった姿勢をほぐしながら思うのは、こんな天気でも走り回っていそうな彼らのこと。


今日は、午後から時間が空いていたのに、スコッチにもディーンにも会わなかった。


「昨日全然遊べなかったから、拗ねてるのかしら……また、ふたりで変なこと企んでないといいけど」


明日は朝から礼拝があるため、午前中いっぱい彼らに会うことはなさそうだ。


昼から少しの出店もあるし、ふたりを誘ってみようか。


そう思った矢先のこと。


優しい、ノックの音が聞こえた。







「……あの、ヘレンさん?」


扉を開けたのは、キオ。


ヘレンは、腰のあたりを引っ張り上げられるように、追憶の水底からマシューマルロへ舞い戻ってきていた。


「さっき、ピエトが外から入ってきて、朝ごはん代わりにって、パンを」


なんの話だろうか、と見上げていたヘレンは、ようやく思い出した自分の状況に息を吐いた。

そうか、私は、もう19歳のヘレン・クランツクーヘンじゃないんだった。


「そう、ですか。ごめんなさい、ぼーっとしてて」


後れ毛をかき上げ、ヘレンは弱々しく笑った。


「キオさんも、朝早くいらしたから、おなかがすいてらっしゃるんじゃない?」


窓から離れ、ヘレンとキオはピエトの部屋を後にする。

一瞬、焦がれるように部屋を振り返ったヘレンを、何故だか見てはいけないような気がして、キオはこっそり目を逸らした。


「それで、えぇ……どこまで話したんでしたっけ?」


お気遣いなく、と繰り返すキオにかまわず、ヘレンは簡単な軽食を準備し始めた。


「ディーン……笛吹き男が、お礼をもらえなかったときの話までです」


「そうだったわね。でも、実は、そのあたりの詳しい事情を、私はよく知らないの。聖夜祭の準備もあって、ディーンには会えなかった。私が知っているのは、後から人に聞いた話だけ……」


「町長さんが、笛吹き男を誤解して、住民の方に……間違った事情を説明したわけですよね」


つい笛吹き男の立場になってしまい、きつい言葉を返しそうになったキオは、できるだけ丁寧に言い換える。


「ヘレンさんの知っていることでいいので、他になにか……ヘレンさん自身が、笛吹き男と最後に会ったのは、いつですか?」


薄く切ったラスクの籠を差し出し、ヘレンはパテやジャム瓶を並べる。


「最後に会ったのは、聖夜祭の前日の夜で……今にも雨が降りそうな感じでした。いつものように……さっき話したスコッチや、笛吹き男はね、私の家に来るとき、いつも玄関から来なくて、私の部屋の窓を叩いて合図してたの。それで、その夜もいつものように、窓からノックの音がした」


――心の片隅で待ちわびる、2回のノックが。


「ディーン?」


窓辺に駆け寄ったヘレンは、鍵を開けるのももどかしく、ガラス戸を押し開いた。

雨の匂いをはらんだ薄青い空気が、ヘレンの頬を滑っていく。


今思い返すと、さぞ危険な習慣だったろう。私には、窓の外にいる何者かがディーンだと判断するだけの材料が、実に少なかったのだから。


「今日は1日中ヒマだったのよ?何してたの」


意識していなくても、甘えるような口調になってしまい、自分の女である一面を見た気がして、ヘレンは気恥ずかしさを感じた。


そうだ、そういえば。


ディーンは、なぜかその夜は部屋に入ってこなかった。ふたりっきりで、会えたことに感激しすぎて、そこまで頭が回らなかったのだ。

これまでの自分は、どこか恋愛めいたものを馬鹿にしていたくせに、いざ自分が当事者になってみれば、どうだ。舞い上がって、はしゃいで――相手の姿も見えないのに。

姿だけでなく、ディーン自身のことも、ろくに見えていなかったのに。


ディーンの気配を頼りに、視線をさまよわせる自分は、どんなに滑稽だったろう。


「明日の準備をしてたんだ」


薄闇から、ディーンの少年っぽい凛とした声が届く。


「準備って……」


聖夜祭の準備なら、もうとうに整っているし、大道芸人ではないディーンは、出し物なんてやらないはず。なんの準備かと問う前に、ディーンの明るい声がそれを遮る。


「明日、面白いことが起きるよ!ヘレンもきっと喜ぶ!」


今にも笑い出しそうな調子に、ヘレンは唇を尖らせた。


「ちょっとぉ、聖夜祭をぶち壊す気じゃないでしょうねぇ」


「そんなことはしないけど、みんなびっくりするかもね」


ディーンは、思っていたよりおしゃべりで、思っていたより子供っぽい。

手のかかる弟が増えたような、しかし、その先こそを、私は望んでいたのだろう。その気安さは、けして不愉快なものではなくて、むしろ慕わしいものだったから。


ヘレンは、腕組みをして、つま先で床を叩いた。


「何する気?さては、また蛙のプレゼントね?」


エプロンのポケットに蛙を忍ばせられたのは、つい昨日。聖夜祭の準備をするため、スコッチたちと遊ぶのを断ったあとのことだ。全く気付かなかったのが、悔しい。


ディーンは、チッチッチと舌を鳴らした。

きっと、得意そうに指も振っていることだろう。


「残念!違います!ね、それより、明日は礼拝に行くんでしょ?」


「それが何よ?」


ぶっきらぼうに答えるが、ディーンは平気の平左。


「じゃあ、礼拝から帰ってのお楽しみ」


スコッチは、この計画を知っているに違いない。

今日も丸々その悪巧みにかかりきりだったってわけね。


仲間はずれにされたような気分になり、ヘレンは拗ねて、頬をふくらませた。

なにが、手のかかる弟。

こんな仕草、スコッチの前では絶対にしない。


「フン、勝手にやってれば?」


背を向け、すっかり不貞腐れたヘレンに、ディーンは外から手を伸ばし抱きついた。

知らず心拍数が飛び上がるが、こういうスキンシップは彼にとって日常茶飯事なよう。


振りほどくか、放っておくか、一人どぎまぎするヘレンに、ディーンがヒソヒソ囁く。


「じゃあ、少しだけヒントをあげる」


その秘密めいたやり取りに、彼女は、心持ち身を固くし――


――突然、押し黙ったヘレンに、キオはそっと声をかけた。


「ヒント、ですか」


「……えぇ」


言いにくいことなのか、ヘレンの口は重い。


「どういったヒントだったんですか?」


キオは、一語一語を区切るようにゆっくり尋ねた。


「……なにかが消えるって、言っていました。なにか」




――ヘレンのキライなものが 消えるよ




笛吹き男は、本当に明るく愉快そうに言ったのだ。

その言葉や、言い方に陰りのようなものは、一片も見出せなかった


「なにかって?」


キオの問いに、ヘレンは生唾を飲み込んだ。


「そこまでは教えてくれませんでした。なにかが消えるとしか」


私のキライなもの?なにそれ?


首を傾げたヘレンに、笛吹き男は優しく笑う。


『ヘレンが、前に教えてくれたじゃん』


教えた?そうだったかしら?


『オイラは、もうすぐいなくなる。だから、そのかわり、ヘレンのキライなものを消しておいてあげるからね……××だけ、なんだけど』


なに?なんて言ったの?ディーン?


私は、最後の言葉を聞き逃した……のだろう、多分。


正直、そのときは聞き逃したことにすら、気付かなかった。彼がいなくなるという言葉に気を取られて、一番重要だったかもしれない言葉を聞き逃した。


膝の上で、ヘレンは手を握り締める。爪の先が白く、浮き上がった。


「……キオさんは、奇跡って信じます?」




そのときに限って、ということがある。


本当に大切なことに限って、忘れてしまう。楽しみにしていた日に限って、雨が降る。


愛している人に限って別れが早く、最後のときに限って別れの挨拶も出来ない。



「そのときに限って」ということは、実にたびたび起こる。


天災も、偶然も、奇跡も、おそらくは「そのときに限って」の積み重ね。


では、あのとき起こったことは、一体なんだったのだろう。


なんと、呼ばれるものなのだろう。



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