第5楽章 笛吹き男のネズミ退治
笛吹き男が街にやってきたのは、ネズミ退治のため。
スコッチにそう教えられたのは、彼が現れた翌日であった。
彼はピエロという職業柄か、全くしゃべらないけれど、動作がとても紳士的だと、ヘレンは思う。
スコッチはすっかり彼が気に入ったようで、笛吹き男にしょっちゅう付いて回り、「おれは弟子入りする!」と豪語している。
「ネズミ退治ってことは、大道芸人じゃないのかしら?」
とても、重労働が出来そうな手じゃなかったけれど。
手に触れた長い指を思い出し、ヘレンの頬がほんのり染まる。ぶんぶんと首を振ると、頭の後ろで一括りされた髪が、大きく揺れた。
19歳。早い人では、もう結婚していてもおかしくない年齢だ。
口の悪い子供はともかく、町の若者たちは、ヘレンに優しく接してくれる。必要以上なほどに。
けれど、仕方ないことだろうが、そういう対象としては見てもらえない。
自分の顔に沿って指を這わせ、ヘレンは目蓋を軽く撫でた。
いつか、自分にも、愛してくれる人が現れるだろうか。
それが、もし、自分の愛した相手なら、どんなに――
「ヘレーン!いるー?」
ヘレンは、指で自らの目を突き刺しそうになった。
「ス、スコッチ!?もうびっくりさせないでよ!玄関から入ってきなさいって言ったじゃない!」
「だって、この窓のほうが近いんだもん」
悪びれもせず言い放ったスコッチは、植木鉢を踏み台に、窓から部屋に入り込んできた。
ヘレンは、感傷的な気分がすっかり壊されたにも関わらず、少し安堵する。
よかった……ひとりきりであんなこと考えてると、気が滅入るばかりだもの。
「ほら、入って入って」
スコッチが、外に向かって呼びかけている。
「え?誰か一緒にいるの?」
「ディーン」
「ディーン?」
「あ、笛吹き男のこと」
ヘレンは心の中で絶叫した。
スコッチの腕を引き寄せ、叫びだしたいのを抑え、囁く。
「なんで!?どうして、私の部屋に連れてくるの!」
「うちの家だとママがうるさいし、ヘレンの部屋だとキレイだから」
「私のお母さんだって、びっくりするわよ!19歳のうら若き乙女の部屋に、知らない男の人がいたら!」
「知らない男?もう、町中知ってるよ、ディーンのこと」
「いや、そういう意味じゃなくって……」
ああ言えばこう言う、屁理屈だけは一人前なスコッチ。あわあわと言い訳を考えているヘレンは置いてけぼりで、第三の気配は、するりと窓から入ってきた。
「ディーン、さっきのやつって、リボンがあれば出来るんだろ?ちょっと待ってて!」
「スコッチ!」
ヘレンの言葉も聞かず、スコッチはさっさとヘレンの部屋を出ていく。どうやら、手品を教わっているようだが、なにも私の家でやらなくても、とヘレンはひとり気を揉んだ。
すぐにでもスコッチを連れ戻したいが、笛吹き男を部屋に残しておくのも気になる。
結局彼女は、所在無く椅子に座りこんだ。
向こうは、なおも無言である。
多分、笛吹き男も、スコッチの強引さに引きずられて入ったはいいが、どうしたものかと困っているのだろう。気配が、落ち着かなさそうに、窓辺付近を動いている。
……あぁ、気まずい!向こうがなにか話してくれればいいのに!
いい加減痺れを切らしたヘレンは、思い切って咳払いをした。
「……えぇと、あなたは、ディーンさんっておっしゃるんですよね?」
すると、窓際の気配が近づいていた。ヘレンの前で止まり、手に長い指が触れる。それを意識した途端、顔に血が上り、ヘレンは慌てて手を遠ざけた。
「おぉあ!あの!できれば、声で、話してください!」
両手を頭の上に上げたまま、ヘレンは自分の可愛げのなさを呪う。
万歳をしたままのヘレンを前に、相手は何も言わない。
ピエロだから話さないものだと思っていたけれど、ひょっとしたら、話すことが出来ないんじゃないかしら……だとしたら、私、ひどく失礼だわ。
「あ、違うの。ごめんなさい、私」
「ディーン」
耳朶を打ったのは、伸びやかな声。
「ディーン・クレンペラーだよ」
真っ直ぐに、よく育った豊かな稲穂、緑の葉生い茂る若木、それとも小春日和の風。
低くも高くもなく、少年がそのまま大人になったような、濁りのない声。
ヘレンが黙ったままなのを、不安に思ったのか、笛吹き男の気配が揺れる。
「……やっぱり、しゃべらないほうがよかった?」
「ううん!すっごくいいと思う!しゃべった方がいい!」
必要以上に大きな声で答えてしまい、ヘレンは赤くなったが、もう恥ずかしくはなかった。
「ディーン、私はヘレンよ。ヘレン・クランツクーヘン」
「よろしく、ヘレン」
うん、しゃべった方が絶対いい。
ヘレンは、差し出されたディーンの右手をがっしり掴んで、ぶんぶんと振り回した。
16日の夕方近く。
笛吹き男がネズミを退治するというので、ひと仕事終えた町の人間は、こぞって見物に集まっていた。よく広場に立つディーンのことは、もう誰もが知っている。町長の息子も一緒だからと、彼にタダで食事を振舞う店もあるほど、彼はラトゥールに馴染んでいた。
「どうやって、退治するのかしら?」
「ネズミ捕りか、薬剤駆除だろう。それしかないさ」
ざわめく人々の前に、いつもの格好をした笛吹き男が現れた。
数人が、舞台に立つ役者に送るような拍手をすると、彼は、ビシッと敬礼し、おどけて帽子を取っ……取らなかった。
素顔が見れるのか!と、うっかり注目し、肩透かしをくらった連中は苦笑いし、その連中を見た住人も、思わず笑顔を浮かべた。
さて、笛吹き男は、布袋から、さっと笛を取り出した。
それは、装飾もなにもない、長い縦笛だ。
少し捩れたような変わった形をしているが、はて、一体この笛とネズミ退治になんの関係があるのだろう。
町の人々が見つめるなか、笛吹き男は、その笛をくわえ、鋭く呼気を吹き込んだ。
「……なんの音もしないな」
「吹いてないんじゃないのか?」
囁き交わす群集もなんのその、ディーンは笛に息を吹き込み続ける。
さて、どれくらいの時間がたったのか。
注視の目が、やや険しくなってきた頃、突然誰かが声をあげた。
後ろを振り返った一番前の住人も、同様の奇声を発する。集まった住人たちは、蜘蛛の子を散らす素早さで、慌てて近くの家屋に逃げ込んでいった。
笛吹き男ばかり見ていたせいで、気付かなかったが、家々の隙間から、ネズミたちが現れ、広場に集まり始めていたのだ。広場のそこここで、うじゃうじゃと気味の悪い毛の塊が蠢き、獰猛そうな目がさかんにきらめいている。
しかし、ネズミたちは、よく躾られた犬のように大人しく、あろうことか町の外へ歩き出した笛吹き男を追っていくではないか。
大きいネズミやら、小さいネズミやら種類を問わない家ネズミが、群れを成して街道を走り抜けていく様は圧巻で、窓から覗いていた人々は開いた口がふさがらない。
しかし、ネズミが出て行くにつれ、住人は声を上げ、手を叩き始めた。笛吹き男を褒め称えるもの、自分の安堵を語るもの、ネズミに冗談交じりの罵り言葉を飛ばすもの。
ネズミの大多数がラトゥールを出たと思われる頃、呆然とネズミの大群を見ていたスコッチは、ヘレンとともに外へ飛び出した。
ネズミの列を追いかけ辿り着いたのは、ラトゥールから離れたチョークレトラの森。
湿った空気の立ち込める森の中、ネズミたちは、どうして自分がこんなところにいるのか分からない、というように、小さな目をパチパチと瞬かせている。
「さて、こんなところでいいかな」
笛から口を離したディーンが、パン!と手を叩くと、ネズミたちは、銃撃されたかのように身を竦ませ、散り散りになって逃げ出していく。
その後姿を確認し、ディーンはうんうんと頷いた。
波が引くように森の奥へ駆け込んでいく毛の塊を見ながら、スコッチはディーンをつつく。
「ねえ、どうして、途中の川に沈めちゃわなかったの?」
スコッチは、ネズミ捕りにかかったネズミを水に沈め、退治する方法を、パン屋から聞いたことがあった。森よりもパネットーネ川のほうが近いし、ネズミを一気に片付けられるのに、何故わざわざ森まで来たのだろう。
ディーンは、笛を肩から提げた布袋にしまい、ごく自然に呟いた。
「だって、そんなの、かわいそうだよ」
ヘレンは、何故か鼻の奥がつんと痛んだ。
「……うん、そうよね」
山々の稜線に潜り込もうとしている太陽が、最後のひと匙、森へ光を投げかけている。
「本当に、そうだわ」
その後、爆発的なクマネズミ発生までの半年間、ラトゥール・エンビィで、ネズミを見ることは一切なかった。一匹残らず退治する、という笛吹き男の言葉どおりに。
彼は、本来なら、ラトゥールに住む街角の英雄になったろう。
しかし、そうはならなかった。
ヘレンが覚えている限り、彼と会えたのは、聖夜祭の前夜が最後である。
「つまり……そのあと、笛吹き男は、伝説にあるように、報酬をもらえなかったんですか……?」
キオの控えめな言葉に、ヘレンは、沈痛な面持ちで頷いた。
喉元すぎればの言葉どおり、町長は報酬を払わなかった。
「今でも時々……もしも、あのとき、町長が約束を破らなければ……」
違うわ。
ヘレンはきつく目を閉じる。
たとえ、町長が約束を破ったって、町の人だけでも、私だけでも、彼を守ってあげるべきだったのだ。
聖夜祭、聖堂の女神像へ向けて、きっとラトゥールの誰もが祈っただろう。
母性と慈愛、死者を導く黒の女神様よりも、夜の支配者である正義の女神様へ。
人々の行いを量る天秤が、どうぞ傾きませんようにと。
しかし、天秤は、傾いたに違いない。
ラトゥールの悪行の重さに。
そして、私の愚かさにも。