第5楽章 マシューマルロ2番
「母さん、キオが来たよ!」
編み物をしていた母親は、その手を休め、戸口を振り返った。
「今日は、変な奴らも一緒だけど」
「変じゃないもん!」
ディーンは、床を踏み鳴らして抗議しているが、ピエトのほうが一枚も二枚も上手なようで、ごく自然に無視されている。
「キオ、前言ってたとこに案内してやるよ!」
今着いたばかりの家から、もう連れ出すつもりらしいピエト。
「あ、あのね、僕は、ピエトのお母さんに、ちょっと聞きたいことがあるんだ。だから、みんなで遊んできてくれる?」
キオの聞きたいのは、無論ラトゥール出身者の所在についてだ。みんなで遊びに行ってくれれば、ディーンに話を聞かれずにすむ。
「えぇ〜、こいつらとぉ?」
ピエトが大袈裟に肩を落とすと、母親の声が飛んだ。
「ピエト!そんな言い方やめなさい」
「怒られてやんの」
ディーンに言われ、ピエトは悔しそうに赤面する。
「うっせー!変な帽子!」
「ピエト!」
母親にまたも叱られ、ピエトは逃げ出すように外へ駆けていき、ディーンもそれを追って出て行った。リジーは、うんざりとした表情を隠そうともしなかったが、キオに両手を合わされ、やれやれといった様子で後に続く。
外では、しばらく大騒ぎしている声が聞こえていたが、それはやがて遠くなっていった。中身が子供同士で、話が合ったのかもしれない。
「すいません、騒がしくて……えーと、ピエト君のお母さんは……」
キオに椅子を薦めながら、母親も恥ずかしそうに苦笑する。
「ヘレン・エルトベーアです。そういえば、自分の名前も名乗っていなかったわね」
ヘレンは、編み棒や毛糸玉を集め、近くの籠にしまいこんだ。
「それで、私に聞きたいことってなにかしら?」
ヘレンの薄い茶色の瞳が、覗き込むようにキオを捉える。見えていないとは思えない、一分のズレもない目の動きだ。
キオは、そのまっすぐな視線に少し戸惑ったが、ここで嘘をついても仕方がないと腹を括った。
「実は、僕、ラトゥール・エンビィの町について調べてるんです」
「……ラトゥール?」
ほんのわずか、ヘレンの声が高くなった。
「ご存じないですか?昔、このへんにあった町なんですけど」
「……ラトゥールについて調べてどうするの?」
キオの質問をかわし、ヘレンは逆に問いかけてくる。彼女は、さりげなく腰を上げ、シュンシュンと湯気を吐き出すヤカンを、鋳鉄製のストーブから下ろした。
「どうするってことは、ないんですけど……」
またもや、キオの中の葛藤が、頭をもたげてくる。ディーンの過去を、知りたいような、知りたくないような、心の揺れ。
しかし、それは、ヘレンの次の一言で霧散した。
「あなたも、笛吹き男伝説のことを調べているんでしょう?」
はっと目を転じるが、後姿からヘレンの表情は分からない。
「興味本位ならやめておいたほうがいいわ。あれは、誰かの創作童話でも、出自の分からない伝説でもないんだから……あなたを怖がらせるためにこんなことを言うわけじゃないけど……あれは、本当の話よ」
紅茶の葉をすくいあげる音と、薪の間ではぜる火の音が、ひどく穏やかだ。笛吹き男の話題が、その居心地のいい空間を壊してしまうようで、キオの声は自然小さくなった。
「……どうして、そう思われるんですか」
目が見えなくても、キオが自分の後姿を見つめているのが分かる。ヘレンは、飲み込んでいた空気を一気に吐き出すように、息をついた。
「……私の友達が、笛吹き男に殺されてしまったからよ」
その頃、ディーンとリジーは、ピエトについて山を登っている最中だった。土の剥き出しになった小道があるため迷わずにはすむが、傾斜が結構きつい。
リジーはディーンとピエトの会話を聞き流しながら、ついてきたことを早速後悔していた。
「それでさ、ヒミツキチってなに?」
ディーンの言葉に、先を行くピエトは呆れた顔をした。
「秘密の基地だよ。つまり隠れ家みたいなもん」
川も山も森もあるマシューマルロは、子供にとって絶好の遊び場だ。山の中もピエトの庭みたいなものなのか、すいすいと進んでいく。ピエトの話では、森は狼やら熊やらもいて、彼自身狼を追い払ったこともあるというが、子供の話ではどこまで本当なものか。
ある程度登ると、ピエトは小道を外れ、山に踏み入った。
「なぁ、このへんの怖い話知ってるか?」
木の枝で、足元の枯れ葉をかき回しながら、おもむろにピエト。
「怖い話?」
「笛吹き男っていう人さらいの話」
ディーンの背中が、わずかに強張る。後ろを行くリジーには、それがはっきり見えた。
「ずーっと昔、このへんにラトゥールっていう大きい町があったんだって。だけど、そこに笛吹き男が来て、町の人を病気にして、子供を連れて行っちゃったんだ」
大体はあっているが、重要な部分が随分抜け落ちている説明だ。ピエトは黙り込んだディーンに気付かず、得意になって話を続けている。
「で、そのときに、笛吹き男が子供を連れて行ったのが、山の洞窟でさ」
ピエトは、木に描かれた目印に目を留め、上を指差した。
「おれは、あそこが、そうじゃないかって思ってるんだ」
ピエトは、自分の言葉の効果を楽しむように、声を低めた。
「おれの秘密基地――笛吹き男の洞窟さ」
山肌が抉られ、ちょっとした崖になっている上に、ぽっかりと口を開けた穴。
洞窟と呼ぶには少々小さな深淵は、びょうびょうと冷たい風を飲み込んでいる。
そのたび、洞窟のあちこちにしがみついた枯れた蔦が、乾いた音をたてて揺れていた。
キオは、一瞬言葉を詰まらせ、絞り出すように問いかけた。
「笛吹き男が現れたのは、6年前のラトゥールだけじゃないんですか……?」
ラトゥールでの事件だけが、ディーンの関わっているものだと思っていた。それなのに、ヘレンの友達が笛吹き男に殺されたというのは、一体どういうことだろう。ディーン・クレンペラーは他の場所でも、笛吹き男として事件を起こしていたのだろうか。
「どういうことなんですか!?殺されたって……どうして、そんな」
思ってもいなかったキオの狼狽に、ヘレンは慌てて取り繕った。
「驚かせて、ごめんなさい。私は、笛吹き男のことを調べるなんて、やめて欲しいだけなんです……それに、笛吹き男に殺されたのかどうかも、本当いうと、私には」
今やキオの、『なんとなく知りたい』は『知らなければならない』に変わっていた。心のどこかでディーンが笛吹き男ではない可能性を探し、伝説が間違いであることを願っていた。それを根本から揺るがす真実の一端を、目の前の人間が握っている。
「知っていることを教えてください!どうしても知りたいんです!」
必死で訴えるキオに、ヘレンは訳の分からない感情に襲われた。
「ねぇ、なぜ、そんなに知りたいの」
旅行者は、信用ならない。ずっと、そう思ってきた。笛吹き男に滅ぼされた跡地を一目見ようと、たくさんの知らない人間が訪れてきた。そのときは、一言だって話すまいと思っていたのに。
「それは……お答えできません」
きっぱりと答えた少年の声に、ヘレンは拍子抜けした。
「勝手ばかりで申し訳ないんですけど、僕の事情は詳しく話せません」
そう、と吐息混じりに呟き、ヘレンはカップを両手で包んだ。
「あの、あなた……今、おいくつ?」
思ってもみなかった問いに、キオは目を瞬かせた。
「15です。それが、なにか……?」
15歳。思っていたよりも、ずっと年上なのね。初めて聴いたときから、どこか似ていると思ってた。優しくて、頼りなさそうな――つい引き止めてしまいたくなる懐かしい声。
秘密は、ひとりだけで長く守りすぎていると、思わぬところから零れてしまうものなのかもしれない。
今のように。
「……私は、当時……伝説が生まれたとき、ラトゥールにいたんです」
自分でも何故話す気になったのか分からず、それでもヘレンは心のどこかで安堵している。
もう5年――そろそろ自分以外の人と、あの過去を共有してもいいのでは、と。
ヘレンはカップをテーブルに載せ、ポットから紅茶を注いだ。
ストーブの火が、ヘレンの横顔を赤く染める。その口元に、どうともとれない微笑が浮かんでいた。懐かしんでいるような、後悔しているような、悲しい微笑み。
「なぜ、どの話にも『少女』や『子供』だなんて書かれているのかしらね。私はそのとき、19だったのに」
キオは、瞠目した。
ディーンが事件を起こしたのは、やはりラトゥールでだけだったんだ。そして、笛吹き男に友達を殺されたということは、彼女は、当然ラトゥールの出身者――
「……じゃあ、あなたが」
――生き残った盲目の少女。