第5楽章 マシューマルロ
「ここか」
キオは、地図にゆっくり指を滑らせ、地形を確認していく。
はるか向こうに伸びる丘陵地帯は、当時のまま長く横たわっていた。
しかし、写真にあるような空を突く尖塔もなければ、ぎっしり固まった家々もなく、賑やかな宿場町の面影は、いまや完全に消えている。
ベリードロップから、バスで片道2時間少し。
今はマシューマルロと呼ばれている、小さな村。
「……ここに、ラトゥールがあったんだ……」
かつて、ワイン街道の宿場町として栄えていたラトゥール・エンビィは、6年前、地図から忽然と消滅した。ネズミの保有する病原菌が、ノミを通じて人間に感染する「紫斑病」の再来によって。
感染ルートもネズミの増殖原因も判明しており、適切な治療さえ受ければ致死率は20から0パーセントにまで下がる。そのため数百年前のような大恐慌には陥らなかったが、一部の迷信深い人たちは、今でも「病気は笛吹き男の仕業」だと考えている。
これは、来る途中本屋で立ち読みし、得た情報だ。本当は買おうと思ったのだが、ディーンと同室では、見つかる可能性が高いため、やめた。
キオは、小さく溜息をつく。
隠し事は苦手だ。悪いことをしているような気になる。
調べるだけでなく、ディーンの過去を無断で暴こうとしているのだから、尚更に。
でも、そうとばかりも言っていられない。
僕は、彼らと仲良くするために一緒にいるわけじゃないんだから。
船旅の間、もっと言うなら、ゼペット司祭に「馴れ合い」と言われたときから、キオは何度も自分自身に、そう言い聞かせていた。
飲んだ鉛玉を吐き出すように、鼻から大きく息を吸う。
「おい!そこで何してんだ!」
吐き出そうと思っていた空気は、ごくんと喉に吸い込まれた。
「怪しいやつめ!なにもんだ!」
幼い怒鳴り声に振り返ると、木の枝をかまえた子供が、キオを険しい顔で見つめていた。
鼻の頭に泥をつけた、10歳かそこらの少年である。
「……えぇと、ぼくはどこの子?」
「ぼくって言うな!」
少年は、勇ましく木の枝を振り回した。
「おれは、このへんで名の知れた、オオカミ退治の勇者ピエト様だ!」
ビシッとポーズを決めるピエト。
「あぁ、そうなの……」
「……なんだよ、つまんないやつだなぁ」
キオの微妙な答えに、少年はあきれた顔をした。
「おまえ、どっから来たんだ?こんなとこになんの用だよ」
木の枝を腰にまいた紐にさし、ピエトはキオをじろじろ眺めている。
「僕は、ベリードロップから来たんだよ。バスで」
「なんで?あぁ、迷子?とろそうだもんな、おまえ」
ハッと馬鹿にしたように、鼻で笑うピエト。アイリーンがいたら、間違いなくぶっ飛ばすであろう類の、生意気な子供である。
「そうじゃなくて……旅行に来たんで、ちょっと、いろんなところを見ようかなーって」
「あれ、おまえ外国人?」
ピエトの表情が、明るくなる。
「えぇ、ギルシアンブリジットから、つい最近」
「すごいじゃん!船で来たのか?それとも海上鉄道か?」
キオは、ピエトの反応に、まずかったかなと、口を噤んだ。
このままだと質問攻めにされそうだと感じたのだ。
ピエトの顔には「もっと、外国の話して!」という要求が、張り付いている。
「な、おまえ、ヒマだろ?うち来いよ!すぐそこだから!な!」
「え、と……でもぉ……」
夕飯までには帰ると伝えておいたから、まだ時間はある。
でも、あまり長居もできない。帰るのに、また2時間以上かかるのだから。
どうしようかと迷うキオを、ピエトは強引に引っ張り、歩き出していた。
マシューマルロは、メインストリート1本だけの小さな集落だ。民家は、見る限り十数軒しかなく、外には共同の井戸とパン焼き器が置かれている。家々の間隔が広く、小さな山羊が柵の向こうから、こちらを見ていた。
「ここが、おれの家」
ピエトが立ったのは、石を積んだ壁に、白い漆喰を塗りこんだ茅葺き民家の前だった。
全体的に丸いフォルムの可愛らしい家だ。
「ただいま!」
ピエトが、キオの袖を掴んだまま、大きく扉を開ける。
次の瞬間、キオは、説明のしがたい切なさに襲われた。
大小の銅製フライパンや鍋が、紐に吊り下げられており、壁をくりぬいた部分は、そのまま棚になっている。
小さな居間には、使い込まれたテーブルと、仲良く並んだ三脚の椅子。
質素だが、住み心地のよさそうな家だ。
「なーんだ、母さん、まだ帰ってないや」
ピエトの声に、キオは慌てて意識を引き戻し、テーブルについた。
ついた途端に、ピエトの質問が始まり、キオは閉口した。
よほど外国人が珍しいのだろう。
最初は生意気だと思ったが、懐かれるとやはり可愛くみえる。
目をキラキラさせているピエトを見て、キオはベリードロップに置いてきたディーンを思い出していた。
知らず口元が綻ぶ。
彼も小さい時は、こんな感じだったんじゃないだろうか。
「よし!なんでも聞いてよ!」
「おまえ、いいヤツだな!特別に、おれの子分にしてやるよ!」
前言撤回……やっぱり、生意気だ。
ギルシアのお祭りの話が一区切りついた頃、外は早くも夕暮れの気配に包まれていた。
「ピエトのお母さん、遅いねぇ」
「いつもこんなもんだぞ?近くの町で織物の手伝いしてるから、昼間はずっとひとりだし」
それで、外をぶらついて、暇を潰していたのか。
「ひとりで待つの淋しいね」
「バーカ、おれは男だから、そんなの平気」
強がっちゃって。
キオは苦笑した。
さっきからピエトは、時計と戸口を交互に見ているのだ。
「ん!」
ピエトが、がばと立ち上がる。
キオが問う前に、ピエトは玄関に急いだ。
戸を開けると、押し合いへし合いするように、冷たい風が足元を潜り抜けていく。
「母さん、おかえり!」
キオは、ピエトの言葉に、慌てて立ち上がった。
「……あら、ピエト、お客様なの?」
入ってきたのは、白樺を思わせる、ほっそりとした女性だった。
ひとまとめにした長い栗色の髪が、馬の尻尾のように揺れている。
しかし、キオは女性の顔形より先に、彼女の手に握られている杖に目がいった。
それは、盲人用の白い杖。
なるほど、ピエトは、この杖が地面を叩く音で、母親の帰りを察したらしい。
「母さん!こいつ、おれの子分のキオ!外国人なんだぜ」
女性の腰のあたりにまとわりつき、ピエトが得意げに告げる。
「ピエト、そんな言い方やめなさい。失礼でしょう」
ぴしゃりと言われるが、ピエトは嬉しそうにしがみついたままだ。
「それより、みんなに餌をあげてくれた?ずいぶん鳴いてたわよ」
ピエトは、いっけねぇと口の中で言い、外に出て行った。
突然ふたりきりにされ、キオは思い出したように、頭を下げる。
「あの、初めまして、キオ・コッローディと申します」
女性は、杖を使い、つまづきもせず、テーブル前まで歩いてきた。
「ごめんなさいね、キオさん。このへんには遊び友達がいないものだから、かまってもらえるのが嬉しいんだと思います。あとで、よく言っておきますから」
女性は続けて、よかったら、夕飯をご一緒に、と微笑んだ。
「あの……いえ、もう、失礼しようと思っていたところなんです」
「そうですか……お客様が来るなんて、めったになくて……どうしても、ダメかしら」
「す、すいません!家族が待ってるので……でも、またお邪魔することがあるかも!」
必死で弁解するキオがおかしかったのか、女性は控えめに笑った。
「是非いらして。ピエトが喜ぶわ」
お別れの挨拶もそこそこに、キオは外に飛び出した。
長居すれば、ますます断りにくくなってしまう。
「キオ!」
柵から穀物の袋を抱えたピエトが、顔を出した。
「な、また来いよ。今度は、秘密基地見せてやるから」
母さんにはナイショな、と続け、ピエトは手を振った。
「あ、ありがとう」
「もっと、全力で喜べよ!ホントつまんないやつだな」
あいまいに笑い、キオは、そのままバス停へ向かった。
ゆっくり歩いていたはずなのに、だんだん早足になり、しまいには駆け足になる。
どきどきと脈が速くなっているのが分かる。キオは、内心ひどく驚いていた。
彼らを家族だと、なんの躊躇いもなく口にした自分に。