第4楽章 祖国
「ちょっと買いすぎたかな……」
抱えた袋には、オレンジや缶詰などが、めいっぱい詰められている。
久しぶりのデュッセルオーヴを、キオは懐かしく感じた。
しばらくは、ここともお別れだ。
というのも、キオは、今日中にギルシアを発つ予定なのである。それを司祭に伝えるため、デュッセルオーヴに赴いたのだ。
あんな騒ぎを起こした以上、ギルシアにはいられない。
憲兵隊員のなかには、殺人鬼の姿をすっかり確認したものも多いようで、翌日はゴシップ誌にそのテの話題が、一面掲載されていた。もちろん、かなりの脚色を加えられていたし、誰もがデタラメだと考えているが、いつなにが起こるか分からない。
それで、一刻も早く予定を組んだ。まさに海外逃亡である。
ダリ港は使わず汽車で南下し、その後セルリア港からオールドケンジントン海を挟んだ、向かいの国アトランテルに向かう。それ以上の行き先は、まだ決まっていない。
不安がないとは言わないが、初めての海外に少し浮かれているのも事実。
「イヴは、もう、ニーニョについたかな」
今朝早く、駅へ送り届けたイヴには、結局最後まで本当のことが告げられなかった。彼女を信用していないというわけではないが、情報漏洩は避けたい堅実なキオである。
自分が国を出ることも告げていないが、きっとまた会えるだろう。外国の絵葉書で手紙を送ったら、喜ぶかもしれないな、とキオは一人口元をほころばせた。
通いなれた道を歩き、さて、教会通りへ続く低い階段を上がろうとして、キオはバランスを崩した。
花弁を模った石畳の上に、オレンジが次々転がり落ちる。
旬のネーベルオレンジが、あんまり艶々と美味しそうだから、お土産にと購入したが、さすがに買いすぎたかもしれない。
「痛んでないといいんだけど……」
ひとつひとつ確認しながら、拾い、さて他には?と見回すと、通行人の足元に落ちているのが見えた。
キオが腕を伸ばす前に、大きな手がそれを拾い上げる。お礼を言おうと目線を上げ、キオは今一番見たくないものを見てしまった。
白い詰襟の制服に、銀色の狼が駆けている軍章。
うわ……憲兵隊……!?
恐る恐る顔を上げた先で、青みがかった銀色の瞳が、キオを見ていた。
その顔に思わず息を呑む。顔面を縦に裂くような大きな傷が、顎から額まで走っていたからだ。
「は、あの、すいません、僕……」
相手は、随分背が高い。グランほどとは言わないが、硬そうな筋肉に覆われた全身から、圧倒的な存在感がにじみ出ている。
どう言葉を続けようかと、怯えるキオの耳に、深く静かな声が届いた。
「いいオレンジだ」
男は表面を軽く手で払い、キオの袋に戻した。
「あ、ありがとうございます」
腰を深く曲げると、男がかすかに微笑んだ。傷が引きつれたようになって、少し痛々しい。
「今ギルシアは物騒だ。気をつけてな」
片手を挙げ、去っていく背中は大きく、ものすごく頼りになりそうである。その後姿に、またジルとは違う「大人の男」を感じてしまうキオ。
それと同時に、憲兵隊というだけでよくない先入観が先立った自分を、少し恥じる。
「……やっぱり、男は、ああでなきゃ、うん」
真似をして姿勢を正そうとすると、袋からまた2、3個のオレンジがこぼれおちた。
こうして、キオ・コッローディと愉快な仲間たちは、ギルシアンブリジットを発っていった。
千年暦ジャハンナの158年1月12日のことである。
アーネスト・S・ドビュレの読み物では、後にこう続く。
『世界は、自分に見えないところで、しかし確かに自分に関わって変化しているのかもしれません。
そうでないと、誰が断言できるでしょう。
自分ひとりいなくなっても、世界は変わらないと、見てもいないのに何故言えるのでしょう。
自分が死んだ瞬間に、火山が噴火しないと、海の水が干上がらないと、木が瞬く間に枯れないと。
ありとあらゆるものが、絶妙な調和で繋がっていないと。
まずは、御覧なさい。
これから先、たったひとりの修道士によって、6人の猟奇殺人鬼たちが、世界の片隅が、規律と法則と常識を破ったうえでどう変わっていくか。
どう、崩壊していくかを』