第4楽章 憲兵隊と船上のプレスト2番
少し、いかがわしい表現がございます。
ご了承ください。
ほんの数分前のことである。
乗組員の憲兵は、ひとりの女と船内の個室トイレに、こもっていた。
相手は、北方貧民の売春婦とともに乗せられていたが、田舎臭い子供とは比べ物にならないような、いい女である。大方、見逃してほしさに誘っているのだろうが、自分にそんな権限はない。
せいぜい楽しんだ後は、また下の船室に押し込んでおけばいい。
憲兵は、腰まで大きく切り込みの入った、ドレスに手を滑り込ませる。
褐色の肌は、吸い付くような滑らかさだ。ギルシアで、あまり見ない灰髪が、ぞくぞくくるような濡れた漆黒の瞳を隠していた。
女は、すっかりその気になっている憲兵を、便座に座らせ、誘うようにズボンのジッパーを舌でなぞる。男が、さっさと女に乗りかかろうとするのを、彼女はやんわりと押し留めた。
「ダメ」
欲望に忠実な憲兵としては、もう十分なのだが、女はなかなか先にいかせてくれない。
まぁ、出航までは時間があるし、焦らされればそれだけ期待もできる。
手前勝手に頬を緩ませ、憲兵は女が自分から脱ぐのを待った。
「ねぇ、本当に誰も来ない?……少し、恥ずかしいわ」
耳元で囁かれ、男はますます興奮した。一見積極的に見えるが、やはり女はこうでなくてはいけない。すぐにでもひん剥きたい衝動を、なけなしの理性で抑える。
「誰も来やしねぇよ。今頃は、みんな上に集まってるだろうさ」
だから、大きな声で鳴いても、問題はない。
そう続けた途端、女の表情が変わった、ように見えた。どう変わったかと問われれば、十中八九の人間がこう返すに違いない。女は、「獲物」から「捕食者」へ変化した、と。
しかし、鈍い男は、その異変に気付かない。急に立ち上がった女を、便座に腰掛けたまま、いぶかしげに見上げている。
赤い唇が、ゆっくり上がって、その手がごく軽く男の顔にのせられる。
「なら、いいのよ」
「!」
ぐらりと視界が揺れ、そのまま冷たい床に倒れこむ。
背後の壁に、後頭部を打ち付けられたのだ。
排泄物の匂いが染み付いたタイルの上で、男は頭の痛みを必死でこらえた。
「……ッなにしやがる、このクソ女……!」
血走った目で見上げると、女が、隣の個室から、なにか引きずり出すのが見えた。
船内に備え付けられている船斧だ。それを、まるで扱いなれたもののように、肩に担ぎ上げる。
……おい、待て、それでなにする気だ。
そのまま、刃先とは反対の金具部分を、男の手に振り下ろす。
――かすれた悲鳴があがる前に、女はハイヒールを履いた足先を口に突っ込んだ。
「なんて、うるさいの。男の子なんだから、そんなに泣いちゃダメよ」
まるで、子供をあやすように、灰髪女は囁く。
男は自分の手を見て、喘いだ。小指と薬指の骨は、完全に砕けているだろう、細い骨が、わずかに間接部分から突き出ている。
女は、いっそ優しいといえる仕草で、斧をどけてやった。彼女が、かがんだとき、先ほどまで夢見心地で嗅いでいた女の匂いが、香った。
甘い匂い。ぞっとするほど、甘い。
まるで腐り始めた死体のような、匂い。
額といわず、腋といわず、汗が吹き出る。
この女はなんだ。
女――アイリーン・ネルソンが、ふいに、悩ましい溜息をついた。
暴力的な男が、膝を折り、屈服する様は、何度見てもたまらない。
彼女は、鼻水やら涎やらで、顔を汚した男を、見下ろしたまま、声をかけた。
男が恐る恐る上げた目線の先には、支配者の睥睨。
「ねぇ」
吐息のような、甘えた声に、男の身体が震える。
「舐めて」
ほどよく締まった褐色の足が、するりと口元に寄せられる。
唾液で濡れたつま先が、ライトを反射し、ガラスのように光った。
……ッハ!今日はプライベートで来たんじゃないんだったわ!
アイリーンは、ちょっと女王様モードに入っていた自らを律し、男に向き直る。
「ねぇ、今、何人くらい憲兵がいるか、分かるかしら?」
「そ、そんなこと聞いて、どうす」
「便器で顔洗いたいの?」
アイリーンは、無言で憲兵の髪をつかみ、開いた便座を覗き込ませる。憲兵は必死にもがき、泣きじゃくった。
「ご、ごべんなさい」
「あんまり、アタシをイライラさせないでちょうだい、坊や」
アイリーンが、斧で顎を撫でると、憲兵は震える声を絞り出した。
「わ、分かりませんけど……多分、30人……くらいじゃないかと」
「そのなかで、要注意人物とかいるかしら?つまり、幹部とか」
要注意人物。男は素早く、自分の保身を計算した。
ジェボーダン大佐と、ブレーメン、それに東支部のハティ中尉がいる。
「……いないと思います」
「そう」
この女を、このまま逃がしてなるものか。
彼女は、用はないとばかりに男を放り出すと、そのまま背を向ける。
憲兵は、その隙を突き、後ろから飛びかかった。
相手は女だ。組み伏せれば、男の腕力にはかなうまい。
しかし、服に手がかかるかというわずかな差で、するりと逃げられる。再び、女を追い詰めようと向き直ったとき、男は呆然と立ち止まってしまった。
何故、今まで気付かなかったのか。
隣の個室に、別の憲兵が二人、倒れていたのである。
気をとられた男に、アイリーンが微笑んだ。
「大佐に、中尉に、ブレーメンってのがいるんでしょう?嘘はいけないわ。ママに教わらなかったの?」
斧の柄で素早く足を払う。仰向けに転がった男に、冷たく笑った。
乱れた灰髪の隙間から、狂気じみた目が覗く。
「メインデッシュにならなかったことを、感謝してね」
その意味をとらえる前に、男は最悪の方法で意識を失った。
「お、こいつは持ってたみたいね」
アイリーンは、哀れな憲兵の身体を探り、3人目にして、ようやく目当てのものを手に入れた。男の腰元から、取り出されたのは、持ち手の長い懐中電灯。
北方貧民として自分が船内に連れられた後のことは、連中に任せる手筈にしたが、連絡手段がない。そこで、この古臭い連絡方法をとることとなったのである。
懐中電灯を、パチパチと弄びながら、アイリーンは船上後部へと歩く。
「要注意人物6人って……モールス信号で、どう打つのかしら?」
アイリーンは、足音も高く、そこを立ち去った。